お盆特集
欣求菩提、教化衆生の菩薩道をあゆむ
曹洞宗大本山總持寺貫首 江川辰三禅師に聞く

 瑩山禅師によって六九〇年前に能登に開創された總持寺は、明治三一年(一八九八)年の火災で伽藍の多くを焼失。その後、現在の横浜市鶴見に移転され、昨年移転一〇〇年を迎えました。
 東京湾、房総半島を望み、富士の霊峰を仰ぐ景勝の地、鶴見の丘。都会の喧騒をよそに、緑豊かで清らかな大気の流れる静かなこの聖地に、總持寺は永平寺に並ぶ曹洞宗大本山としての堂々とした伽藍を見せています。
 日本の海の玄関口・横浜に近接するところから、世界に開かれた国際的な禅道場として知られる總持寺ですが、十五万坪の敷地には多くの伽藍に加え、著名人、文化人のお墓もあり、また山内に鶴見大学、總持寺保育園、母子生活支援施設などの教育、福祉施設を運営するなど、広い分野で社会教化に貢献し人々に身近に親しまれています。
 昨年四月に貫首に就任された江川辰三禅師は、人望篤く高い徳をもった方との評判。緊張しながらインタビューしたのですが、その優しい笑顔と分かりやすいお言葉に思わず慈父ということばを彷彿としてしまいました。

(インタビュアー 石原恵子)


江川辰三(えがわ・しんざん)

昭和3年(1928)山梨県生まれ。
駒澤大学を卒業後、山梨県清光寺住職、愛知県宝泉寺住職などを経て、平成8年(1996)大本山總持寺監院に就任。
以後大本山總持寺祖院専門僧堂堂長、同寺常任顧問などを歴任。
平成20年(2008)愛知県正眼寺住職。
平成22年大本山總持寺副貫首を務め、平成23年4月より同寺貫首および曹洞宗管長に就任。
平成24年1月21日任期満了により管長を退任。


お盆を迎えるこころ

――東日本大震災で亡くなられた方も、もうすぐ二回目のお盆を迎えます。私たちはどんな気持ちでお盆を迎えたらいいのでしょうか。

江川 お盆というのは先祖を敬う大変ありがたい行事です。二宮尊徳は私の好きなかたのおひとりですが、「父母もその父母もわが身なり、われを愛せよ、われを敬せよ」という道歌を残しています。
 私たちの命はその人一人のものではありません。父母、その父母と、幾世代にもわたって連綿と受け継がれてきた、まことに尊い命です。その尊さに手を合わせて心から感謝し、また、その尊い命を授かった自分を大切にすることを先祖に誓う、そこが大事なのです。自分は両親があって今こうして生きているという報恩の思いですね。二宮尊徳はご存じですね。

――はい、小学校の校庭にあった薪を背負って本を読んでいる姿が印象的でした。

江川 總持寺の開祖瑩山禅師様の母親は禅師をご懐妊中、毎日『観音経』を読誦して安産を祈願されたそうです。それが瑩山禅師の「大慈大悲」の精神をはぐくんだのでしょう。野口英世のお母さんも毎日近くの曹洞宗の寺院に行って、観音さまに息子の無事を祈願したということです。
 人は誰でも、「自分はどうなってもいいから、子供を守ろう」という、父母、先祖の願いがあってはじめて今の自分があるのです。それに思いをはせるというのがお盆の意義ですね。

――禅師さまのお盆の思い出はどんなことがおありでしたか。

江川 私は山梨県の清光寺という寺に生まれ、そこの住職を五十年勤めましたが、途中で師匠が亡くなり、愛知県・瀬戸の宝泉寺という寺も兼務したので、約二十年間、山梨と瀬戸とをピストンのように行ったり来たりしました。当時は高速道路はありませんので、片道六時間ほどかかりました。肉体的には少しきつかったですね。今は中央道で二時間半で行けますが。

――地方によって、お盆の行事にも違いがあるようですね。

江川 山梨県の今の北杜市ですが、冬は寒く昔は今ほど豊かではありませんでした。蕎麦が名産ですが、当時の農家のほとんどは養蚕をしていました。八月に繭の収穫を終えるころがお盆の時期で、蚕棚に紙箱を据え、お位牌を置き、なすやきゅうりのお馬を置きまして、年に一度のお盆を行いました。それから瀬戸のほうも信仰の篤い地域でした。七月の始めからの十日間、夕方になると檀家の人たちが集り、夜間に施食会を行っていました。

――夜にお経を上げるのですか?

江川 そうです。ご先祖様にお経を上げたあと、皆さんが近所や親せきなどで食事をして帰るのです。今は夜ではなく昼になったようですがね。
 次の日からは棚経でした。瀬戸は焼き物の盛んな町ですから農家の二男、三男が親の位牌を持って就職し、その土地に住みついておられた。月まわりもたくさんあり、私もダンプカーの行き交う中、単車に乗り、食事もそこそこでまわりました。今ではもう曹洞宗の寺院が瀬戸市内に十六カ寺あり、尼僧さんも大変多いです。そんな篤い信仰心を持った檀家さんたちはとても働き者です。

――お盆は先祖を思い、これからも精進しようと仏様に誓う行事のひとつですね。生家を離れた方々は先祖を思う気持ちが強かったのですね。ところで、戦後間もなく「ヘイワオンド」という歌が作られ、總持寺境内の仏殿前の大広場で盆踊りを開催されたと聞きました。それが全国的に広がり、戦後の盆踊り発祥の地とも言われているようですが…。

江川 昭和二十一年、戦後まもない頃で物も無く、疲弊した時期でした。賀来琢磨氏が振付をし、当時の有名な歌手が歌いました。やぐらを組んで、夜店もたくさん出て、鶴見の名物になり、それが全国にひろまって、日本の復興の兆し、きっかけになりました。
 私も駒澤大学のサークルは児童教育部でしたから、そのころは伝道のため、九州から北海道まで各地の日曜学校をまわり、子供たちに紙芝居や人形劇、童話のお話などをしたり、盆踊りも教えました。

仏法の真理を広く一般に

――禅師さまは子供たちと一緒に歌い踊られたのですね。当時の鶴見大学は女学校だったと聞いておりますが。

江川 すべての人々の幸せをひたすら願っておられた瑩山禅師は、当時、女性の立場や扱いが低かったことから、ことに女性の幸せを念じておられました。その瑩山禅師の女性の地位を高めようという思いを受け継いで、山内に鶴見高等女学校を創立しました。
 駒澤大学の学長をされていた中根環堂師が、とにかくこれからは女子教育をしなくてはいけないと、尽力されて造られました。和服に袴の女学生は、靴下も禁止で、正座をして講堂で観音経を一時間ほど読んでいたと思います。厳しい校風でも、生徒はだんだん増え、全国から生徒が集まりました。卒業された方はその後社会に出て、各方面でご活躍されています。今では歯学部もあります。すべての人が等しく医療を受けられるように病院も作りました。

――總持寺は一般の方々の生活とふかく結びついた活動をされてきたのですね。昨年は、御移転一〇〇年でしたが。

江川 ご承知のように、福井の永平寺を開かれた道元禅師さまは深山幽谷に入って、とにかく坐禅をするという修行を実践された。それは永平寺の伝統となり、いまでもひたすら坐禅をすることが曹洞宗の僧侶の基本的な使命となっています。一方、瑩山禅師さまは能登半島の輪島市に總持寺をつくられたのですが、そこは北前船の発着地で、各地の船が出入りして、商業が盛んです。そこを拠点にして布教を拡大し、全国に約一万五千の曹洞宗寺院をつくられた。總持寺にはそういう基礎があるのですが、明治三十一年に火災にあってほとんどの伽藍を焼失。そのときの石川素童禅師は私の曽祖父ですが、日本の中心が東京へ変わり、大都市になることを先見し、縁があってこの鶴見に移転された。東京都内の候補地も二、三挙がったようですが、交通の便もよく、やはり能登と環境が似た海の近くのこの地に決められたようです。
 仏教の修行には「欣求菩提、教化衆生」という両面があります。自ら悟りをもとめると同時に人々を悟りへと導く使命があるのです。それこそが菩薩道であり、瑩山禅師が説かれた仏法の神髄です。總持寺は移転後ももちろん坐禅の根本道場であると同時に、瑩山禅師さまが檀信徒を大事にし、庶民の中に入って布教に努められた精神を大切にして「開かれた禅苑」として活動をつづけているのです。

喜心・老心・大心

――禅師さまは曹洞宗管長に就任されたとき、「喜心・老心・大心」を旨とせよと垂示されましたね。

江川 道元禅師さまの『典座教訓』のしめくくりともいうべき極めて大切な言葉です。喜心というのは、自分が直面する仕事を、仏から与えられた良縁として受け取り、喜悦の心をもってそれに当たることが肝要だということです。その仕事がどんなに困難であっても、いまの自分でなければできない仕事であると思い、喜びの心を持って行うことが何より大切。「してやる」というのではなく、「させていただく」という心です。
 老心は、「老心とは、父母の心なり。譬えば父母の一子を念うがごとく、三宝を存念すること、一子を念うが如くせよ」「自身の貧富を顧みず、偏にわが子の長大ならんことを念う。自分の寒さを顧みず、自分の熱さを顧みず、子を蔭い子を覆う」というのが原文ですが、子を思う親心のように、徹底した親切心、細部にわたる心遣いを持って事に当たるのが老心ですね。
 大心というのは、「大心とはその心を大山にし、その心を大海にし、偏することなく党することなきの心なり」「春声に引かれて、春沢に游ばず、秋色を見るといえども、更に秋心なし」ということで、すべてを受け入れながらも、いささかの微動もしない信念を持つというが大心です。
 福井県の勝山中学校で教鞭を執られた故・川端貫一先生は「大心教育」をされました。私も教鞭をとったことがありますが、先生によると「自分というものは、数えきれないほど多くの人々のお陰を戴いている」。「そのことに気づけば何とかして恩返しをしなければと考えるようになり、それが『大心』の出発点になる」とおっしゃっていた。そのような出発点から出た「大心」は決して崩れるようなことはなく、喜心・老心を自然に誘発するとも教えられました。したがって、真実の「報恩」は、大心、喜心、老心を育て上げる基本となる心構えでもありますね。

――禅師さまは教鞭を取られたことがおありなんですね。

江川 駒澤大学を出て、山梨県の山奥のお寺へ行った時に教師をしていました。その頃はほとんどの僧侶がそうですよ。五、六年教職に就いていました。

――何を教えられましたか。

江川 駒澤大学の東洋科を出たので国文と社会です。のちに英語の免許もとりましたよ。英語は今教えることはできませんが。(笑)

――英語ですか。お聞きしたかったです。ところで、今、修行道場のほうには雲水さんは何人いらっしゃるんでしょうか。

江川 今年上山した者は六十人ですが、二年、三年、四年、五年、七年と、長くいる人たちもいるので、総勢百七十人くらい。お手伝いの職員も含めて二百五十人くらいで生活しています。

――大人数ですね。最近の雲水さんと昔の雲水さんとではなにか気質が変わってきたとお感じになりますか。

江川 私たちが修行した時代と違って、おおよそ気質が優しくなりました。体格が立派になり、坐るのが大変な者もいますが、お寺ですから当然坐らないといけません。修行僧は畳一畳分の空間で寝起きし、ひたすら坐禅し、百間の廊下を駆け足で雑巾がけします。修行の間は外と連絡を取ることも、テレビを見ることも禁止です。どんなに時代が変わっても修行の根本は絶対変わらないのです。ですから、五月ごろになると体もスリムになってきます。

總持寺は開かれた禅苑

――大本山總持寺では、修行僧の説明を聞きながらの諸堂拝観、月例法話会、精進料理もいただける写経会、また、月例坐禅会、一泊の坐禅会など一般の方が参加できる会も多くあり魅力的です。英語坐禅会もあるのには驚きました。

江川 そうです。たくさんの方が参加されて、すぐにいっぱいになってしまうようですが、外国からの方が多くなりました。最近は外国の修行僧も多く訪れ、能登の祖院と交互に行き来し、帰国します。とても熱心です。私の弟子のひとり、PLクレポン道環師が六月にフランスに古海寺という寺をつくりました。海の近くで坐禅道場に加え、宿泊施設もあるところです。

――グローバルな展開ですね。アメリカ、ヨーロッパなど、禅の愛好者が増えていると聞いていますが。

江川 總持寺は禅の根本道場ですが、能登からこちらに移転してからは「開かれた禅苑」としての役割が重要になっています。古くから外国からの玄関となってきた横浜の土地の利を生かし、檀信徒だけではなく、広く一般の方や外国の方々に禅を広めるのも大切な務めとなっています。
 欧米では今「禅」ブームになっており、北アメリカに天平山禅堂も近くつくられますね。ヨーロッパの地下鉄で坐禅の姿が写っている大きな坐禅会のポスターが車内に貼ってあるのを見かけました。パリでもたくさんの禅道場があります。禅愛好家が増え続けているようです。世界規模で社会不安が広がっているのでしょうか、西洋社会でも仏教思想が改めて必要とされているのです。總持寺はその窓口となる「国際禅苑」であるため、外国の方を広く迎え入れ、正しい禅の姿をお教えし、伝えています。

峨山禅師の六五〇回忌

――瑩山禅師が開かれた總持寺ですが、二祖峨山禅師の大遠忌を迎えるということですね。

江川 平成二十七年ですが、峨山禅師の六五〇回忌です。瑩山禅師さまは能登で總持寺を開かれて、三年で住持職を峨山禅師に譲られました。その後峨山禅師は四十年以上にわたり住持をお勤めになり、總持寺の基盤を築かれました。優れた門弟を多く育て、その中の特に秀でた五人、太源宗真・通幻寂霊・無端祖環・大徹宗令・実峰良秀が「峨山五哲」と言われて、この方々が主導的な立場で總持寺の運営に尽力されました。その峨山禅師のご遺徳を偲ぶのです。
 このたびの大遠忌のテーマは「相承」です。峨山禅師は瑩山禅師より正伝の仏法を相承されて本山の礎を築かれ、その御教えは五哲はじめ代々の祖師方に相承されていきました。その延長上に法孫としての私たちが存在しています。私たちもその御教えを未来に相承していかなければなりません。

――今年の三月には仙台に、また總持寺の大祖堂でも物故者慰霊と復興祈願法要が行われました。

江川 私たちは東日本大震災で被災されたかたの直向きなお姿に敬意を表し、このたびのことを決して忘れないという誓いと共に、亡くなられた方々への供養の心を添えて、みな様方の苦しみや悲しみを一日も早く生きる力へと転ずることを念じてお祈りを申し上げます。
 またこのたび、両本山が手を携えて「復興祈願桜プロジェクト」を設立いたしました。震災物故者の御霊のご供養と、被災地の一日も早い復興を祈願する事業です。
 被災地はじめ各地で桜の花が美しく咲き誇ることを心より期待しております。ご支援をよろしくお願い申し上げます。

――ありがとうございました。