シリーズ第三章 受戒入位

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

大本山永平寺

第十五節

次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀他戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰 、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。

◆訳◆
次には、三種にまとめた真心からの戒を、ぜひとも受けるべきである。第一はすべて悪いことを真心からしてはならない戒、第二はすべてよいことを真心からしなさいという戒、第三は生きとし生けるもの一切を救うためになるようなことを、真心からしなさいという戒である。次には重要な十種のしてはならない戒を受けるべきである。第一はものの命をとらないという戒、第二は他人のものをとらないという戒、第三は邪よこしまな男女の交わりはしないという戒、第四は嘘は言わないという戒、第五は迷いのお酒におぼれないという戒、第六は他人の過ちをせめたてないという戒、第七は自分の自慢をしたり他人の劣っていることを言わないという戒、第八は法も財も施すのに惜しまないという戒、第九は怒りを起こさないという戒、第十は三宝を謗そしらないという戒である。以上のように仏法僧への帰依、三種の真心からの戒、十種の大事な戒、これらは諸仏が守り続けてきた戒なのである。

第十六節

受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰れの智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし已る、真に是れ諸仏の子なりと。

◆訳◆
戒を受けるということは、三世の諸仏が修行して証明してきた無上の悟り、金剛のように強い仏そのものをあかしていくことなのである。真の智慧のある者ならこれを求めないことがあろうか。世尊がはっきりと全ての生きとし生けるもののために、次のように約束されたのである。つまり生きとし生ける一切は仏の戒を受ければ、すぐに諸仏の位に入るし、悟った人と同じとなるのだ。仏戒を受けた全ての人は、諸仏の御子なのである。


[解説]

自己を規制することなく自然と信心が身につく人になる

 第三章は受戒入位と題されていますが、まさにこの節はこの題を具体的に示している箇所です。戒を受けて仏の位に入る、ということはどのようなことか考えてみましょう。仏教徒であれば、仏の位に入れるということは、どんなにか素晴らしいことかと思うでしょう。なかには、仏になると好きなことができなそうだから、嫌だという人もいるかもしれませんね。しかし、そんな心配はいらないでしょう。やはりそう簡単には仏にはなれませんので、心配ご無用というところです。
 でも仏教では、全ての人は必ず仏になれると言いますし、また全ての人は仏なのだ、とも言います。よく「そのままでよい」というようなことを聞きますが、この言葉が、誤解を招いているのではないかと、私は考えます。やはりそのままでは「仏」とも言えませんし、「よい」とも言えないでしょう。
 勿論、「私」という今生で与えられたこの「私」が他の人になることはできません。「このままの私 」という存在が、先ず、仏法僧に対して帰依の心を起こします。ここから全てがはじまります。実はこれがすべてと言えましょう。三帰依の信心さえ起こすことができれば、今回学ぶ三聚浄戒(三種の真心からの戒)も十重禁戒(重要な十種のしてはならない戒)も、自ずと守ることができるはずなのです。
 しかし、悲しいかな、真の三帰依の信心を起こしきれないので、三聚浄戒や十重禁戒などの具体的な行動を教え示してくれているのだということになるでしょう。
 お釈迦様は、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」とおっしゃいました。この言葉は普通は「諸々の悪は作す莫れ、諸々の善を行いなさい、自ら其の意を浄らかにしなさい、是れが諸仏の教えです」と訳されています。しかし、そのような命令的な解釈ではなく、諸々の悪はなさないし、諸々の善は行うし、自ら其の意は浄いのである、是が諸仏の教えである、と訳すこともできるのです。
 そうして、三聚浄戒も、真の三帰依の信心を起こせば、すべて悪いことを真心からしてはならないというよりは、悪いことは自ずとできないということになるし、すべてよいことを真心からしなさいというよりは、自ずからするのであるし、第三は生きとし生けるもの一切を救うためになるようなことを、真心からしなさいというよりは、自ずからいたしますという戒なのであると言えましょう。他から規制されることではなく、自発的な信心からの自然な行為なのだということができます。
 十重禁戒も同じです。外からしてはならないと規制されなくとも、真の三帰依の信心が身につけば、してはならないことは自ずからできないのです。またすべきことは自ずからするのです。物の命をとることはできませんし、他人のものはとる気も起きませんし、みだらな男女の交わりはしませんし、嘘は言いませんし、お酒におぼれるように迷うようなことはしませんし、他人の過ちを責めませんし、自己自慢もしませんし、他を卑下するようなこともしませんし、必要とあらば、教えも財宝も惜しみなく差し出しますし、決して腹を立てませんし、仏法僧を謗るなど思いもよりません。

仏教徒として生きるための仏戒を灯りとして見守られつつ修行に励む

 当然すぎることですが、よくよく自分を反省してみれば、この簡単なことの一つでも、絶対に守り切ることができていません。私には真実の三帰依の信心がないのです。
 この一戒でも守りきることができれば、その姿が、真の三帰依の信心の姿といえましょう。皆さん、どれか一つ、自分はこの戒こそ守ろうと、決めてみませんか。
 私は、第九の怒らない、ということに注意したいと思います。
 出家者である私が、そのようなことで恥ずかしいことですが、修行中の身です。
 「修証義」では、衆生は仏戒を受ければ、諸仏が修行の結果得られた仏の阿耨多羅三藐三菩提(この難しそうな言葉の意味は「悟り」です)を表すことだと言います。仏戒を受けただけで、そうたやすく仏の悟りを証明できるわけではありませんが、私たちが修行に励むようにという励ましと受け取ればよいでしょう。
 仏戒を受ければ、諸仏の御子であるとさえ、説かれていますが、この文言も、仏の教えを学んでいく者にとっての励ましと受け取ればよいでしょう。これから三聚浄戒も十重禁戒もことあるごとに心して修行していく者への励ましです。その修行の姿が、真実三帰依をあらわしつづけていく姿といえるのではないでしょうか。ただ「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えるだけでは駄目なのです、というのが今回の解説になります。
 戒とは、私たちを縛る規則ではなく、仏教徒として生きていくための灯あかりなのですから、戒に見守られつつ、時に暴走しそうな身を守ってもらいつつ歩んでいきたいと思います。どうぞ、秋の深まりとともに、しみじみとお暮らしくださいませ。

  白玉の歯にしみとほる
  秋の夜の酒はしづかに
  飲むべかりけり
             (若山牧水)


 この和歌は、戒に反しているでしょうか。どう受け取りますか、ご自由に。

 大本山總持寺