秋彼岸特集

静岡県袋井市 可睡齋佐瀬道淳齋主に聞く
お経は生きるための智慧の宝庫


佐瀬道淳
(させ・どうじゅん)

1932年鳥取県北栄町の農家の二男として生まれる。
1954年可睡斎にて高階瓏仙禅師について出家得度、駒澤大学時代に七年間最晩年の沢木興道老師に参禅、その後約30年酒井得元老師に参随。
1961年大本山永平寺安居、1979年島根県松源寺住職、2011年3月静岡県袋井市可睡斎住職。


 曹洞宗屈指の名刹・秋葉総本殿萬松山可睡齋は、静岡県袋井市の北方、久野の地にあります。創立は一四〇一年、江戸時代には伊豆・駿河・遠見・三河の寺院を統括する僧録所が置かれていました。現在は約十万坪に及ぶ境内に優美で瀟洒な伽藍を見せています。
 曹洞宗の専門僧堂として、また火防の神様を祀る寺として古くから庶民の篤い信仰を集めてきました。境内には季節ごとに牡丹やゆりの花が咲き乱れ、参拝客の目を楽しませてくれます。それに加え、一般の人向けの坐禅、写経、精進料理なども体験でき、可睡齋は幅広い魅力で人びとを迎えてくれるお寺です。
 訪れたのは、境内にみごとに咲き誇るゆりの季節。齋主の佐瀬道淳老師は涼やかなほほえみで私たちを迎えてくださいました。その柔和なお人柄からは、縁に導かれるまま仏の道に入った方が持つ自然な慈しみの風がそよいでいるように思われました。


(インタビュアー 石原恵子)


――「可睡齋」という寺名は珍しいのですが、どのような謂れがあるのですか?

佐瀬 一度聞くと忘れられない名前ですね。この寺は徳川幕府を開いた徳川家康と深い縁があります。家康が幼少のみぎり、今川義元の人質になって駿河のほうに捕らわれの身になっていたことがある。ちょうどそのころ、後にこの寺の十一代目の住職になられた仙麟等膳和尚は、家康はゆくゆくは大人物になる見どころのある若者だと見抜き、家康の救出を計画し成功します。
 そして何年か後、家康は出世して浜松の城主になった。そのとき、「わしが若い時分に人質の状態から救ってくれた等膳和尚がこの辺にいるはずだから探せ」と部下に命じた。それで、等膳和尚は家康の居城を訪ねていく。懐かしい話に話が弾んで夜になり、夕飯に酒も一杯出たのでしょう。まして、和尚は年も取っておられたし、籠でお迎えが来たんでしょうが、その道中の疲れもあってか、家康と話している間に、こっくりこっくり居眠りしたというんです。(笑)
 家来は怒って、わが殿の前で居眠りするとは失礼千万といきり立ったのですが、家康は、「わしはこの姿がうれしい。わしを自分を孫のように気を許して、居眠りをしておられるのだから、和尚眠るべし、眠るべし。眠らせておけ」。そう言われたということです。それであだ名が等膳和尚から可睡和尚となり、寺の名前も「可睡齋」と呼ばれるようになったということです。

――「日本むかし話」のような、ほほ笑ましく奥ゆかしい話ですね。それで「可睡齋」のご紋が三つ葉葵である理由が分かりました。

春は牡丹、夏はゆり、秋は紅葉

――境内には花が咲き乱れています。いまはとくにゆりの花がすばらしい。この世のものとは思えないほどみごとなゆりの群生を見てきました。

佐瀬 春は牡丹、今はゆりの花です。去年台風で境内の杉の木が百二十本ほど倒れてしまいまして、丸裸になりました。これからは倒れない木を植えようと考え、千本の紅葉を植える計画を立てています。皆さんからも植樹のご寄付をいただいて、今五百本ほど植えました。

――それで、結婚記念や金婚式記念、病気治癒の記念などの木札がかかっていたのですね。

佐瀬 春は花の寺、秋は紅葉の寺にしていこうと思います。それからここは秋葉三尺坊の信仰の寺という顔もあります。火伏せの神様として千三百年の歴史を持ち、明治六年の太政官布告によって、ご神体や祀っていたお社、奥の院などがここに移され、今でも全国から講員の方々が訪れます。
 十万坪の境内には様々な収容施設がありますので、広く地域社会に開放して、どんどん研修などにお使いくださいと案内しています。もちろん宗門関係の特派布教師研修会や宗務所の研修会の会場にもなりますし、宗務関係でなくても一般の人たちの研修道場として使ったり、三百人ぐらいの総会を開くこともできるし、あるいは分科会などにも使っていただいています。お昼の食事は四、五百人でも賄えます。

――たくさんの広間、小間も拝見しました。また代々有名な典てん座ぞ さんがお出でで、精進料理を目当てに来られる信者さんも多いと聞いています。私も大変楽しみにして来ました。

佐瀬 可睡齋は坐禅、写経、精進料理と、それを目当てに来てくださる方も多く、旅やグルメ雑誌に加えて、外務省の海外向けの冊子にも紹介されるようになりました。

――そうした庶民性あふれる可睡齋ですが、一方では専門の僧侶を育てる禅の専門僧堂としての役割もありますね。

佐瀬 明治十四年に、近世の曹洞宗学の一番基になる『正法眼蔵』を研究なさっていた西有穆ぼく山ざん禅師が、こちらの住職になられました。『正法眼蔵』の提唱だけではなく、雲水教育ということを重視されて、自費で僧堂や「萬松学舎」という私塾を設立された。それに対しては当時の両大本山の貫首からもお褒めの賞状を頂いています。それで明治二十九年の二月に可睡齋専門僧堂として認可されました。曹洞宗の地方僧堂としては一番古いのではないでしょうか。その後、西有禅師の元から丘宗そう潭たん、澤木興道、橋本恵光といった禅の逸材が育ち、「可睡齋」は近代曹洞宗の揺籃の地となったのです。

――高僧を次々と輩出されたのですね。

佐瀬 西有禅師のおかげで、境内には高祖廟もあります。

――道元禅師さまのご霊骨が安置されているのですね。

佐瀬 そぅです。本当にありがたいことだと思っております。

鳥取県の片田舎の農家から出家

――佐瀬老師は鳥取県の北条町(現北栄町)江北でお生まれになったと聞きましたが。

佐瀬 そうです。山陰の貧しい片田舎です。でも、その江北という村は、日本で例を見ないお坊さんの産地だったんです。村のはずれに松岸寺という曹洞宗の寺があって、そこから七十五人も出家してお坊さんになっている。多い家では一家の中から三人も出家している。

――在家の方がたくさんお坊さんになられたのですね。

佐瀬 そうです。私も子どものときから、隣りの町から日置黙仙という偉いお坊さんが出られて、永平寺の貫首になられたと、耳にたこができるほど聞かされて育ちました。その日置黙仙禅師に仕えたのが、私の法祖父に当たる高階瓏仙禅師です。共に可睡齋の四十八世と五十一世でもあります。

――ご縁が続いているのですね。

佐瀬 昭和二十九年、高階禅師がこの「可睡齋」に再住されたときに、私は袋井高校に転校して、ここの修行僧になり、それから駒澤大学へ行きました。だから、わたしが出家したのには、人生の悲哀を感じたとか、失恋して悩んだとか、なにか特別な決意があったわけではありません。ただ仏教が好きで、仏門に入るのが自然なことだったのです。小学校三年の時にはお経もお唱えしていたし、寺の墓の中を散歩したり、本当、寺が好きだった。

――お経はいつ覚えたのですか。

佐瀬 先ほど言った松岸寺で毎週土曜日の夜に「土曜会」という、いわゆる日曜学校としてその後全国に普及するような子供会が開かれていた。当時はテレビも何もない時代でしたから、お寺でゲームをしたり歌を歌ったりして遊んだのですが、そのときにお経も教わりました。最初に覚えたのはやはり般若心経です。

澤木興道老師を追いかけた学生時代

――駒澤大学時代はどんなふうに過ごされたのですか?

佐瀬 駒澤大学では参禅部に所属していたのですが、私は澤木興道老師にのめり込んでいて、今でいう「追っ掛け」というのか、澤木老師の跡をひたすらついて行っていました。

――宿なし興道と言われ、宗門でも一種変わり者扱いをされていたあの澤木興道老師に魅かれたのですね。澤木老師はどんな方だったのでしょうか。

佐瀬 澤木老師の晩年の七年ほどですが、老師が指導される坐禅会が山手線沿線で月に三、四晩ありました。魚籃坂の中ほどにあった藤田家で行なわれ、いつも二十人くらいが集まりました。澤木老師は、小学校三年ぐらいまでしか学校に行っておられなかったのですが、独学で多くの祖録を読み、『正法眼蔵』を勉強し、そして当時、ともすればおろそかにされがちだった坐禅の大切さを説き、自ら坐禅を行じ抜き、生涯を通じて「只坐る」正伝の坐禅の種まきをされたお方でした。
 寝ても覚めても、明けても暮れても坐禅をされた。徹底的に只管打坐を貫かれた。それでいて、坐禅したって何にもならないんだよ、坐禅したって偉くもならなければ、何にもならないよと言っておられた。そうして、一生涯寺を持たず、結婚もせず、そして墨染めの木綿の衣を着て頭陀袋を下げ、そして寺から寺の坐禅会に、北海道から九州まで旅ガラスのように出かけた。宿無し興道、移動叢林と言われて、それを貫いた方でした。

――澤木老師とのふれあいで、強く覚えておられることは?

佐瀬 私が永平寺に安居したのは昭和三十六年でしたが、その頃、澤木老師はすでに晩年でしたから力が弱っていました。ある日、澤木老師が坐禅中、コロンと倒れられた。わたしはダーッと走り寄って老師を起こしてさしあげました。そのときに澤木老師旧参の人達から、「私らが老師を助けようとすると、やめろと怒鳴られたものだ」と言われた。私が起こしたときには、老師は何も言われなかったのです。とにかく一生涯、木綿の墨染めの衣に黒い不老帽をかぶって、頭陀袋を掛けて一年中旅の明け暮れでした。

――老師の講義は厳しかったのでしょうか。

佐瀬 『正法眼蔵』は難しいので、みんなが居眠りする前に澤木老師は自分の体験談を交えて、面白く脱線して下さる。そして提唱して、またみんなが眠くなるとまた脱線。日露戦争に行った時、澤木二等兵と呼ばれていたころの話もよくされました。弾が当たって老師は傷痍軍人になっていて恩給が国から出るのですが、自分の生活に使うのはもったいなてみんなに配られていました。そういう方でした。
 翌日の講義のためにおそらく十二時頃まで起きておられて、三時には坐っておられたから、いつも二、三時間しか寝ておられなかったと思います。お酒が好きで、それこそ一升瓶をぼんとそばに置いて、ご飯茶碗で飲みながら勉強しておられたと伺っています。亡くなられたときは献体登録をされていたので、亡骸がないから、葬式の代わりに、みんな集まった人たちは安泰寺でそれぞれ四十九日まで坐禅をされたと聞いています。澤木老師の供養には坐禅が一番だということでね。

――後々まで多くの方に愛される方はやはり強烈な人柄で、徳の高い方だったのですね。

佐瀬 亡くなられるまでの七年ほど接することができた私は幸せでした。人間、人生のなかで、この人と思う人物にのぼせてついて回るようなことも大切な経験ではないでしょうか。そういう人を持っている、あるいは持っていたということが一番強い心の支えになるものだと思います。

自然に抱かれて大地に還っていく安らぎ

――話は変わりますが、間もなく秋のお彼岸いと言って、提唱のテキストの印刷費用にしを迎えます。従来はお彼岸というと先祖代々のお墓にお参りするのが国民的な習わしでした。ところが最近は遺骨をお墓に埋葬せず、散骨にしたり樹木葬にしたりするケースも多く、お墓にはこだわらないという人も増えています。それが、延いては仏教に興味はあってもお寺に寄り付かないという傾向を生んでいるように思いますが。

佐瀬 今までは先祖代々、家族が一つのお墓に入るということに誰も何の疑問も持たなかったけれど、戦後家族制度が崩壊してしまい、今では私をいじめた姑さんの入っている墓には入りたくないというお嫁さんもいるし、中には夫婦でも一緒に入りたくないという方もいる。そういう方々にとってはこれは切実な思いです。一度そういう思いが生じてしまったら、もう気持ちを戻すことができない。これは難しい問題で、お墓をめぐる人間関係もややこしくなってきたということでしょう。
 しかし、日本人の本来的な死生観では、亡くなったら土に還るというのが自然な考えなのです。昔は土葬で穴を掘ってそのまま埋めました。そしてときが経てば自然に大地に還っていく。そういう素朴な考え方でした。ところが、死者の数も増えてくるとどこに埋めたのか分からなくなるから、目印になるような丸い石を置いたり、棒を立てたりした。それがだんだんとお塔婆を立てたりするようになり、やがて恒久的なお墓に変わって行った。それがお墓の由来です。ですから、そのことを思えばなにも一家が同じお墓に入らなくても、亡くなれば皆大地に還るのです。大自然から生まれたわれわれは皆、いつかは大自然の中に抱かれてそこに還っていく。そう考えるのが、一番宗教的な安心にも適うことなのです。
 ですから、私はよく言うのですが、遺骨は骨壺に入れないで、ザーッと土の中に移した方がいいと。大きな骨壺だと五人も亡くなると狭い納骨室がいっぱいになってしまうし、狭い国土にみんなが立派なお墓を作ると、お墓だらけになってしまう。(笑)自然に抱かれて大地に還っていく。それが一番ありがたいことなのです。

お経は生きている人間のためにある

佐瀬 お釈迦さまの説かれたお経は八万七千あるといわれますが、それは皆、人間はどう生きたらいいか、どうしたら日々、心の安心を得ることができるかということを説いているのです。法事などでは漢訳を読むので皆さん敬遠なさるし、お経は死んだ人の供養のために読むのだと思っている人が多いのですが、お経は生きている人間のために書かれているのです。お経は生きるための智慧の宝庫です。それを一般の方に分かりやすく説明するのが和尚さんの役割です。法事などで一ページでも一行でもいい、今読んだお経にはこういうことが書かれているんですよと話してあげれば、みなさん喜ばれます。

――はい、一行でもお話いただけると、なにか気付きを得られるように思います。

佐瀬 お経の一行でも一句でも聞かれて、いい言葉だなと思われたら、次にはそれを自分の人生の中心に据えて実行していくことが大事なことです。それが、体でお経をお唱えするということなのです。もちろん、お経をお唱えしたり写経をするだけでもいいのですが、大事なことは日々の生活の中で実行するということです。実行することによって功徳が生まれるのです。
 法事やお葬式のときにお経をお唱えするのは、その功徳を自分が頂くのではなく、亡くなったおばあちゃんやおじいちゃんのためにさしめぐらす。それが「回向」という言葉なのです。とにかく、聞いた、覚えた、知っていますと言って、それで終わったら何にもならない。それを実行しなければ駄目なのです。よし、おばあちゃんの三回忌のために今日から金輪際腹を立てないと誓願しようとか。そういう固い決意を持つことによってはじめて実行ができ、功徳が生まれるのです。

動物の世界には自殺も鬱病もない

――ご著書の『日々の安らかさこそ―野生に学ぶ』では、日々の暮らしの中での身近なことから、現実の社会問題まで見据えて書かれていらっしゃいますね。

佐瀬 私は小学校時代に「人間は万物の霊長だ」と先生から教わりました。でも、それは本当なんでしょうか。もしそうなら、どうして、世の中にむごい犯罪が絶えないのでしょうか。それでも人類は進化し続けているという人もいます。しかし、進歩しているのは機械だけであって、機械が進歩したから人間も偉くなったように錯覚しているだけです。
 わたしは人間は退化、劣化していると思います。だからこそ今、「野生に学ぶ」必要があるのです。コンピューター万能の時代になり、日進月歩で機械文明は進んでいます。その恩恵を被ってわれわれも便利で快適な生活をしていることも事実です。しかし人間は、そのためにおかしくなってしまっていることがたくさんあります。そのことを反省しないといけないと思います。
 その点、動物は神様、仏様から必要最小限度の知恵を授り、その智慧に寄り添って生きている。厳しい自然環境の中で、いつも餌が得られるかどうか分からないけれど、それでも明日を思い煩うこともなく、毎日楽しく一生懸命に生きている。子育てだって、人間より動物のほうが打算がなく真剣です。動物の世界には不良はいないはずです。あそこの犬が不良になったなんて聞いたことがありますか。(笑)
 人間は平気でうそをついたり、人を殺したりする。憎いから殺すのではなく、誰でもいい、通りがかりの人を殺してみたかったなどという人間もいる。そんなことは動物の世界では絶対あり得ない。必要以上に獲物を取って食べるということもない。動物の世界には自殺も鬱病もありません。
 人間は幸か不幸か知恵を授かってしまった。それはあなた方自身の責任においてその智慧をさらに磨いていきなさいということ。欲望のブレーキをあなた方の修行によって身に付けなさいと任されているのが人間です。ところが今、人間を陶冶するとか、修行するとか、人格形成に励むとか、そういうものが全くなくなってしまった。
 すべての生活万端にわたって、もう一度根本から考えてみる必要があると思います。例えば、子どもへの教育でテレビやパソコンからは電磁波が出ているから目に悪いとか、体に悪いからあまり近くに寄るなというようなことは言うけれど、それが子どもの心をむしばむ、子どもの心の成長にマイナスになるからやめようというような本質的なことは言わない。その辺を急いで考えないといけない時代になっている。教育審議会が一回だけ、「早寝、早起き、朝ご飯」を提唱したことがあります。ああ、やっと気が付いたんだと思って私は喜んだのですが、なんとそれに対しても反対運動があったという。
 極端に言えば、昔の農家の人たちがやっていたように、夕方になって帰ってきてご飯を食べ、九時には寝る。そうすると、自然に五時ごろには目が覚めるから、朝の仕事に出ていく。太陽と共に生活するんです。太陽の光を浴びると、体にオンのスイッチが自然に入ります。夜十時、十一時まで起きていると健康のためにも悪いし、心の健康のためにも悪い。

縁に一切お任せして生きる

――ご著書の中で、そうした現在の人間の生き方にブレーキをかけるのが仏教者だともおっしゃっておられますね。

佐瀬 ええ、ある作家が書いていたのですが、政治はハンドル、経済はアクセル、そして宗教はブレーキだと。私もそう思います。
 戦後六十数年経ったわけですが、日本人は敗戦というショックから抜け切れていないところがあるように思います。戦後の民主主義・自由主義というものをはき違え、野放図に言いたい放題、エゴばかりが大きくなってしまっている。人間の心の成長に重きを置き、謙虚に自分を陶冶していくとか、強い人間に鍛えていく精神など、学校でも家庭の中でもなくなってしまった。親は子どもにいい学校に行けとか言うだけで、人間的にもっと成長しないと駄目だよなんていうことは言わない。私はそうしたことを声を大にして言うのが、宗教家の役目ではないかと思っています。
 わたしが本当に心配しているのは、子どもたちです。今は好きな人と好きなときに好きなだけ好きなものを好きな格好で腹いっぱい食べられる時代です。本来日本には日本の生活文化があった。食事の時は合掌して、食べるときには歩き回らない。えり好みはしない、こぼさない、音を立てないなど。食事は生き物の命を頂くのですから、まず合掌。そして料理を作る人が一生懸命作ってくださったのだから、それにも合掌。きちっと、いろいろなものに手を合わせながら頂くのは日本の大事な儀礼です。いや、このことは世界共通のマナーだと思います。

――最後に大切になさっている言葉をお聞かせください。

佐瀬 私が座右の銘にしているのは「随流去」、流れに従って行くという言葉です。すべてを流れに任せて、いいとか悪いとか考えず、目に見えないいろいろな縁が働いて、自分を引っ張ってくれているのだから、その縁に一切お任せして行くということです。
 それから私は、澤木老師の随身だった酒井得元老師の言われた言葉が妙に記憶に残っている。それは「住山の頑石」。山の中にある動かそうとしてもびくともしない頑固な石。それから「叢林の陳人」。不器用で間に合わないというか役に立たない人。じつは私は徹底してそういう生き方をしようと思っているんです。不器用にのそりのそりと自分の人生を自分なりに歩んでいく。人が一年で歩むところを、三年ぐらいかけて行く。そういう生き方です。質朴で凛としてぶれない、しなやかで真っすぐな一本の柱のように、ただ背筋を伸ばして生きていきたいと思っています。

――ありがとうございました。