シリーズ第三章 受戒入位
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山總持寺
大本山永平寺
第十七節
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、
◆訳◆
(仏戒を受けた後は)諸仏が、常に戒を保って仏道修行しているこの身と一つであるので、もろもろの行動の対象に執着をしないし、永遠に戒を保って仏道修行し続けていく衆生のこの身は、もろもろのことに心をくばるが、それに執着し、とどこおることがないのである。
是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以て、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。
◆訳◆
このように戒を保って執着のない生き方をしたときに、法界すべての土地、草木、牆壁(垣根や壁)や瓦礫(瓦や石ころ)までも、一切すべてが、仏の命のなかにあると受け取ることができ、自然の働きである風や水の恩恵を受ける生きとし生けるものは、皆まことに素晴らしい計り知れない不思議な仏の働きに、気が付かなくてもたすけられていて、知らず悟りを顕わすのである。
これをはからいの無い功徳とするのであり、これを自分で得ようとはからうことのない功徳とするのである。これが菩提心を発すということなのである。
大本山永平寺
解説
発菩提心の生き方は、自分の行動に対して「これ仏の道だろうか」と問いかけつつ生きる
菩提心は、仏教を学ぶ者にとって、最も大事なことです。菩提といいますとなにか難しく感じますが、ボディー(bodhi)という梵語の音写語で、仏の覚りとか道という意味です。ですから菩提心とは、道心とか真如心などと訳します。仏教を学ぶものとして、菩提心を発すことは、初めの一歩です。それなくして仏教徒とは言えません。道元禅師は、坐禅弁道すること、また造塔造仏などをすることを、発菩提心とお書きになっていますが、『修証義』のなかでは、戒を受け、覚りに目覚めることを願って仏道修行することを、発菩提心ととらえています。
そして、この発菩提心ははからいのない功徳であると、書かれています。
自分でどうこうしようとすることではなく、ただひたすらに戒を守ろうと仏道修行していけば、おのずと道のほうから覚りに導いてくれるといってよいでしょう。覚ろう、覚ろうとして覚れるものではありませんが、〈戒を保って執着の無い生き方〉をしたときに、あら不思議、そこに覚りは現れるのだということです。
しかし、戒を保つといいますが、十ある戒のうちでも、その一つを守ることさえなかなか完璧に出来かねるのが凡夫である我ら衆生ですね。しかし、衆生と仏は一つであることを生仏一如と言いますが、我は仏なりと自覚して生きていく上で具体的な指標は、戒を保とうと生きていくことでしょう。
しかし、一つ一つの戒を保とうとしなくても、我は仏なり、と自覚さえすれば、実は自然に戒は保たれているはずなのです。
ですから、発菩提心の生き方として、もう一つ具体的な指針として、自分の行動に対して「これ、仏の道だろうか」と問いかけつつ、生きていくことを提案したいです。「仏の道」という表現は、曖昧なようですが、この言葉を指針として行動をしたとき、自ずと全ての戒は保たれているはずです。
「仏の道」について、一つ具体的な例をあげて、考えてみましょう。最近耳にした話ですが、子供時代に母親に虐待されたと思っている人がいて、この人が長じて、母親に暴力をふるうのだそうです。このような行為が仏の道に反していることは、誰にでもお分かりいただけるのではないでしょうか。この暴力をふるう人以外は。
自分だけが正しいと思い、自分だけが被害者だと思い込んでいることは、残念です。母親に子ども時代の仕返しだとばかりに暴力をふるうような人間は、あえて私は言いますが、地獄に堕ちると思います。いや、生きていながらすでに地獄にいるといえましょう。自分はいけないことをしているのだと、本人が自覚していれば、仏の道に反していると気が付くチャンスは、早くにあるでしょうが、自分のしていることは正しいと思い込んでいる場合は、仏の道に目覚めることは、なかなか難しいでしょう。しかし、この人は、母親に乱暴をふるっていると思っているでしょうが、実はみずからの仏の慧命を傷つけているのです。
この命は、自分のものと思っているかもしれませんが、自分のものなど一つもこの世にありません。全ていただきものです。それが証拠に一人として死なない人はいないではありませんか。仏の慧命をいただいて生きているのです。
ところで、この頃、人々は恐れすぎていて、〈地獄に落ちる〉などと表現することを避けすぎているのではないかと思います。その結果が、幼い子を虐待し、餓死までさせ、友人をいじめて自殺に追い込むなどということを平気でさせてしまっているのではないでしょうか。肝心なことに蓋をしすぎてはいないでしょうか。
最近、地獄漫画というジャンルがあるそうですね。たとえば嘘をつくと地獄に落ちる、と地獄絵図が描かれているそうです。それを見た子どもたちは、嘘はつかないようにしようと思うそうです。恐怖を起こさせて悪い行動をやめさせようという手段が、良いか悪いか一概には評価できませんが、人間として絶対にしてはならないことを教えることは必要でしょう。
仏の真似をして仏の道を生きれば仏
今回の解説は、「受戒入位」という第三章の最後の節ですが、第三章では、戒を受けて、仏の位に入ることが説かれています。一つ一つの戒を守ることはいかにも難しいことのように思いますが、今回書きましたように、菩提心を起こしさえすれば、仏の道に気を付けて生きさえすれば、戒は守ろうとしなくても守られているのです。
そこには仏の命が通った覚りの世界が開けているのです。これが覚りと自覚するものでもなく、眠っているときに眠っていると意識しないように、覚りと意識しなくても覚りが顕れているといえましょうか。
とにかく、他の人に迷惑のかからないことであれば、何事にも執着をしないで、黙々と自らの勤めを果していく生きていく、というのがなにより大事な具体的な指針といえましょう。執着こそ、あなたを、私を苦しめるもとです。
もし悩み苦しんでいるとき、執着していないか、執着していないかと、そう自らに問いかけ問いかけしてみれば、苦しみから逃れることができるかもしれません。
とにかく一度の人生、苦しみから自分を解放したいではありませんか。
一年の計は元旦にあり。
清々しい自分の人生を生きるために、仏戒を受けて、我は仏なりと目覚めて、仏として歩んでいく。自らをみがき耕していくところにこそ、生きてきた意味、生きていく意味があるといえるのではないでしょうか。
自分のしていることは、「仏の道」かどうか自問自答しつつ、楽しく命を生かされていきますように。皆さん、たった一度の命です。たった一度の人生です。悪人の真似をして悪事をなせば悪人です。善人の真似をして善事をなせば善人です。仏の真似をして仏の道を生きれば仏です。
どうぞ、皆さん、本年もよいお年をお過ごしください。
大本山永平寺