シリーズ第四章 発願利生

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

大本山永平寺  大本山總持寺

第十八節

菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。

◆訳◆
 覚りを求める心をおこすということは、自分が彼岸(覚り)に渡っていなくても、生きとし生ける全てのものを彼岸に渡そうという願いを起こし、それを実行することである。たとえ在家であっても、出家者であっても、天上界にいようが、人間界にいようが、苦しいときにも楽しいときにも、とにかく自らは彼岸にいなくても、先ず他を彼岸に渡そうという願いを起こしなさい。

第十九節

其形陋しというとも、此心を発せば、已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。

◆訳◆
 その姿が立派でなくとも、菩提心を起こしさえすれば、それですでに生きとし生ける一切のものの導師である。わずか七歳のような年端もいかない女の子であっても、四衆(尼僧、男僧、男の信者、女の信者)の導師であるし、人々の慈悲深い父親のようなものである。男だとか女だとか、一切関係はない。これこそ仏教における非常に素晴らしいきまりなのである。

 大本山總持寺

第二十節

若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空く過ごすというとも、 今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、 或いは無量劫行いて衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり。

◆訳◆
 もしひとたび菩提心を起こしたからには、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道や、卵生、胎生、湿生、化生の四生を輪廻するとしても、その生、その生の縁で、菩提を遂げようとするのである。そうであるから、今までは菩提のことも考えず、生きてきたとしても、今生が終わってしまわないうちに、急いで菩提心を起こしなさい。たとえ仏になる功徳が熟して仏になれるとしても、生きとし生ける全てのものが、成仏し覚るために働きなさい。また無限のときを、他を先に仏の心を目覚めさせようとするので、自分は最後まで仏にはならなくても、ただひたすらに生きとし生ける全てのものを彼岸に渡して、お役に立とうとすることでもある。


解説

一刻も早く菩提心に目覚めなさい

 先ずこの章の題である「発願利生」の利生とは、衆生を利する、ということです。ですから「発願利生」とは、他を利益しようという願を起こすことということになります。しかし、自分がまだ覚っていないのに、どうして他の人を覚りに導くことができるのでしょうか。疑い深い私には、どうもこれが納得がいきませんでした。また、自分が渡っていなくては、向こうの岸は地獄かもしれないのに、どうして無責任に「どうぞ、どうぞ、お先に」と言えるのでしょうか。
 と、このように出家したての頃、疑問を持ちました。道元禅師が『正法眼蔵』の中で、何回も菩提心についておっしゃっていますのに、宗祖の教えに疑問を抱いているというけしからん仏弟子でした。
 迷い多い自分を救いたいというのが、私の出家の動機でしたが、三十年たって、仏の教えは命を楽しむ教えであり、人生を深く味あわせてもらえる教えであり、この命は私という個人の持ち物ではなく、天地いっぱいの命だとつくづくと思い至っています。
 そして、ようやく菩提心をおこしているのです。この分なら「お先にどうぞ」といっても問題はないとわかってきたからです。 三章までに、戒を守ることの教えや、懺悔をすることや、仏法僧の三宝に帰依することを学んできました。やはりここまで学んできた「あなた」にだから、「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願」いたしましょうとおすすめできるわけです。
 やみくもに、「自未得度先度他の心を発すべし」と説かれているわけではないことを納得していただけたでしょうか。自分がなんとか救われそうだと思えばこそ、他の人もこの道で救われるよ、と、すすめることができるのではないでしょうか。自分だけが救われればそれでよいという心では、逆に、駄目だよと諭してくださっているともいえましょう。
 そうしてひとたび「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願」したからには、生々世々、六道に生まれ変わろうと、四生に生まれ変わろうと、菩提心は引き継がれて消えないのである、だから一刻も早く菩提心に目覚めなさい、というわけですね。「目覚めよ」とは、常に、仏教、キリスト教に関わらず、宗教者の説くところですね。

 大本山總持寺

仏道を学んで生きるこの道を覚りの彼岸まで歩んで行きましょう

 しかし、ひところ、ある団体では折伏行為が激しく問題になりました。自分が救われたから、他の人も自分の信じる団体に勧誘して救ってあげたいという熱意は、その教えでは救われたくない人にとっては迷惑以外のなにものでもありません。これはどの宗派にも言えることではないでしょうか。
 自分だけ救われればよいのではなく、他も救いたいという思いを抱いたとしても、それがいらぬお節介ということもあるかもしれません。
 津波がくるから、早く高台に逃げるようにといわれたならば、文句なくその勧めを聞き入れて高台に逃げるでしょう。生死のことならば、その勧めを素直に受け入れやすいですね。しかし、生きていく道については、なかなか素直に受け入れがたいし、どの道を選んだらよいかも情報が多すぎて、なんともわからない人が多いのではないでしょうか。
 他を救いたいと願うならば、やはり自分自身が、他から信頼されていなくては説得力はないでしょう。仏の教えを学ぶことはこの命が救われることだと、心底思えるには、あの人のいうことなら信じられるとか、あの人のようになりたいとかいう思いがなければ耳を貸してはもらえないでしょう。
 しかし、覚りに導くというとおこがましいですが、ともに正法を聞くチャンスに恵まれますようにという願をおこしたいと思うのです。
 何億光年も先からとどく星の光に心惹かれ、何億年も地球を回り続けている月の光に包まれる思いをし、一陣の風にハッと心を打たれたり、そんな思いに深まるとき、仏道に導かれてこの命有難し、とつくづく感じるときがあります。これは発心出家してより、正法を聞く機会に恵まれてきたからだと思います。
 自分は、覚りの境地には到底とどきませんが、あなたには、仏道を学んで生きるこの道を、覚りの彼岸にまで歩んで行っていただきたいと願うのです。輪廻転生し続けても、一度起こしたこの思いは消えないと、道元禅師が確約してくださっています。信じて生きていこうと思うのです。悩みの海に溺れかかっていたこの身を、救い上げてくださった菩提船に乗って、自分だけ救われようということなく、もし苦しんでいるあなたがいたら、共に乗りあうことをすすめたいです。もし、一人は乗り切れないとしたら、躊躇せずに自分は再びその海に落ちようとも、あなたを先に岸までとどけましょう。ちょっとカッコいいでしょうか。もう少しカッコよく言いますと、「大丈夫、私はもうこの悩みの大海に落ちても、泳ぎ方がわかっっているのですから」。
 お互いに援け援けられてこの老病死海を渡ってまいりましょう。お互いに自ら未だ渡らざる先に他を渡さんとする心を発しあっているあなたと私ですから、この世俗の海に溺れきって、永遠にこの命がこの世にあると錯覚し、刹那の楽しみに振り回されはしないことでしょう。雲に風に月に星に、じっくりと命の話を聞きあいましょうか。

 大本山總持寺