春彼岸特集 茨木兆輝老師に聞く
子どもたちとのふれあいからたどりついた
人生の極意

 ミャンマーの少年僧たち(撮影:小原宏延)


茨木兆輝
(いばらぎ・ちょうき)

昭和5年(1930)、佐賀県生まれ。
昭和23年、駒澤大学仏教学部卒業。すぐに永平寺で修行。
昭和53年、佐世保市・西蓮寺住職。
学生時代から児童教育に情熱を注ぎ、人形劇グループ「こぐま」を40年にわたって主宰するほか、社会貢献として保護司・教誨師・老人ホームの生涯教育講師などを長年つづける。
現在、させぼ南無の会会長・アジア仏教徒協会会長・西蓮寺東堂


 良寛和尚は子供たちと遊び戯れ、子供たちの童心を慈いつくしみました。
 今回インタビューした長崎県佐世保市西蓮寺東堂・茨木兆輝老師もまた生涯のなかで子供たちとふれあい、子供たちからかけがえのない人生の極意を学びとった方のおひとりでしょう。
 四十年におよぶ人形劇団の主宰、ミャンマーをはじめとする世界各地での子供たちとのふれあい。そこから学びとったものはゆるぎない「仏心」への信頼であったようです。


 インタビュアー
 石原恵子(いしはら・けいこ)
 地域情報紙『りんかいBreeze』『BRISA』編集長


 眼鏡岩

――長崎県の佐世保市内にある西蓮寺さんは、平戸八景のひとつで、眼鏡のような岩「眼鏡岩」が有名ですね。

茨木 眼鏡岩は、昔、大きな赤鬼がいて、昼寝から目を覚まし、がーっと足を伸ばした途端に穴があいたという言い伝えがあります。お寺が、昔、海だったということでしょう。寺の五百メーターぐらい奥のほうにあります。また、弘法大師が彫られたといわれる観音様が三つありまして、近ごろ地元の歴史家が検証して、弘法大師がこのようなルートでおいでになったと言うのです。

――童話のようなエピソードですね。今は曹洞宗の寺院で、近くの子供も坐禅堂にいらっしゃるということですが。

茨木 五十年前から日曜参禅会をしています。夏休みの子ども坐禅会「子ども禅の集い」は四十四回になりました。私が励まされながら続けさせてもらっています。

――長いあいだ続けられているのですね。そもそも老師が子供たちとふれあうようになったきっかけはなんだったのでしょうか。

茨木 駒澤大学の学生だったころ、児童教育部というサークルに所属していて、その活動で四年間、九州から北海道まで回りました。戦後まもないころですから、とにかく荒すさみがちな子供たちの心を豊かに育てたいという思いのなかで、子供たちと遊んでおりました。
 卒業後、永平寺に安居したのち故郷の佐世保に帰ってみると、佐世保はすっかり占領軍の基地となっていて、地元の子供たちはアメリカの兵隊に、「ギブ・ミー・チューインガム、ギブ・ミー・チョコレート」とせがんでいました。それがあまりに情けなかったんです。そこで人形劇団をつくろうということになり、お坊さんが三人、お医者さんと学校の先生が何人か集まって「人形劇グループコグマ」をつくりました。
 その劇団はその後四十年間つづき、千五百回ぐらい上演したでしょうね。花祭りなどの公演では一カ月に二十八回、一日に二回上演したこともありました。とにかく子供たちの明るい笑顔を見るのがうれしくて、自分たちも楽しみながらやっていました。近くの高校生や幼稚園の先生など、劇団員もだんだん増えてきて、オリジナル脚本が三十本ぐらいできましたよ。それもこの地方の方言丸出しのね。

――何かアナログで良いですね。今のテレビゲームなんかと違って生で上演される人形劇ですから、子供たちの心にも多くの感動が伝わったに違いありません。



世界平和パゴダの建立

――ミャンマーの子供たちとの交流が始まったのは、いつごろからですか?

茨木 私がビルマを訪れるようになったのは、昭和五十年代の初めです。初めは皆のあとに付いていくようなもので、第二次世界大戦中の戦死者を供養するのが目的でした。

――ビルマは一九八九年にミャンマーと改称されたので、まだビルマと呼ばれていたころですね。

茨木 そうです。現地に行ってみると、そこは半年が雨期で半年が乾期という熱帯モンスーン気候の不毛地域で、経済的にはアジアの最貧国でした。人々の衛生状態は悪く、とくに子供たちは十人中三人ぐらいしか五歳まで生きられないという状況でした。
 彼らは一日の生活費が八十円と言っていました。百円ライターを持っていくと「ちょうだい、ちょうだい」とねだり、手にするとそれを売るのです。その売ったお金で家族が一週間生活できるという。そんな中で、子供たちが生活しているんですね。
 ご存じのとおり、ビルマでは戦争末期、日本軍部首脳の無謀な「インパール作戦」によっておびただしい数の日本兵士が戦死しました。いまだに、その遺骨はビルマの山河に埋もれているのです。当初はその慰霊が目的で行っていたのですが、何度も行くうちに次第にビルマの方々のために何かお手伝いできることはないかと考えるようになりました。

――竹山道雄の有名な小説『ビルマの竪琴』を髣髴させるお話ですね。

茨木 はい。それでみんなで思い立ったのが、人々から浄財を集めて世界平和パゴダを建立するということでした。それを実現するために多くの方々が集まって設立されたのが「アジア仏教徒協会(Asia Buddhist Association)」です。私もそれに参加し、現在は会長を務めています。当初から数えるとビルマにはかれこれ二十回くらいは行きましたね。

――そして実現したのがあの金色にそびえる「世界平和ナガヨンパゴダ」ですね。

茨木 そうです。インド・ブッダガヤの大塔をモデルにしたもので、高さは三十三メートル。一九八九年に「ティーティンポエ(傘蓋奉納式)」を行いました。日本からは百二人の僧侶が参列、万国戦没者追悼の大法要と大仏塔開眼式などを挙行、五日間にわたる大儀式でした。そこに集まった地元の参詣者は十二万人を数えました。

――浄財は篤志家の寄付が多かったのでしょうか。

茨木 いえいえ、ミャンマーの貧しい庶民です。一日八十円ぐらいしか生活費がない本当に質素な生活をしている人たちですよ。それなのにみんなで浄財を出し合うのです。パゴダのあるメッティーラという町は当時六万人くらいの人口でした。そこに、十二万人の人たちが集まったのです。なかには野宿をしながら三日かけて歩いてきた人、自分の嫁入り費用にと親からもらったお金を全部寄付する人もいるのです。仏様に差しあげたい。こんな機会に巡り合えたことがありがたいと。ビルマの人たちは貧しくても仏教という大きな宝物を持っているのです。どれほどの敬虔な思いを込めて浄財を捧げているのかと、本当に私は感動しました。

 ミャンマーの方々のために世界平和を祈願して建てられたナガヨンパゴダ (撮影:小原宏延)

子供の童心は世界中同じ

――そのパゴダに付属する形で、医療施設とか子供ための学校とかが次々と出来あがっていったのですね。

茨木 みんな貧しくて、飲み水も安心して飲めなかったのです。子供たちはどんどん亡くなっていく。これは大変だと思い、まず寺の庭に浄化槽を作りました。佐賀県のある会社の社長さんが自ら作られたものですが、水槽の底に石や砂や炭を敷いて、そこに水を入れる。そこから出てきた水をまた次の水槽に移し、さらに三つ目の水槽に移してやっと飲める水になるという具合です。
 これを「恵みの水」と名づけ、みんなが飲んで元気になったのです。「おかげさまで皮膚病が治りました」、「眼病が治りました」「下痢が治りました」と言って。一年後に保健省の大臣がお礼に来たくらいです。
 その後も病院を五つつくりましたね。ヤシの葉の屋根で覆われた小さな建物で、雨は漏らないんですが、手術は昼間しかできません。お医者さんは日本から来ていただきました。それから学校も五つできました。大本山永平寺から寄付された大きな学校もあります。私も小さな村に「大白蓮華学校」という学校を寄付しました。六百人の子供を収容できますが、昼、夜二部制にして、千人ぐらいの子供が通っていました。

――学校に通えるようになって子供たちはうれしかったでしょうね。

茨木 はい。子供たちは栄養が十分に摂れていないため、週二回給食を始めました。もう、うれしくてたまらないというような感じで食べていました。びっくりしたことは、お母さんたちが外からそれを覗のぞいているんですよね。
 それから、こんなこともありました。パゴダにお参りのとき、女の子が私の持つボールペンをねだりました。もう使いかけのものなのにと思いながらあげると、うれしそうにスキップして帰っていきました。あんなに喜んで、インクが無くなった時には、どんなに悲しい思いをするのだろうかと思い、帰国後みんなに話して鉛筆、紙、絵の具、クレヨンなどを提供してくれるよう働きかけました。
 次にそれを携えて訪れ子供たちに配ると、ある子供は画用紙のなかに小さな四角の枠を作って、その中に絵を書いているんです。先生に尋ねると、「今までこの枠くらいの大きさの紙しかなかったので、全面を使わないんでしょう」と。「画用紙いっぱいに描いていいんだよ」と言ったのですが、すぐにはそういう気持ちになれなかったのでしょう。

――老師はミャンマーだけでなくいろいろな国で、子供たちと遊んで来られたそうですね。

茨木 だいぶ前になりますが、フランスでの世界の保育大会で、自分で作った人形を持っていって日本語の人形劇をしました。けんかをしたり、お相撲を取ったり、隠れんぼしたりという他愛もない人形芝居なんですが、子供たちは人形が動くたびに、あっはっはっはと笑うんですよ。もう一生懸命に操作したら、仮設の舞台がすぐ壊れてしまってね。(笑) そして最後は、みんながどっと寄ってきて、人形に握手したいと言うんです。

――人形と握手。かわいいですね。

茨木 そのときに「ちいちいぱっぱ、ちいぱっぱ」を歌いました。あれは世界中に通じてしまいますから。

――「スズメの学校」ですか。やっぱりヨーロッパでもスズメはスズメでしょうね。(笑)

茨木 先生もそれに合わせてピアノを弾いて、子供たちは簡単な踊りの振りもつけて「ちいちいぱっぱ、ちいぱっぱ」(笑) 
 ビルマでも病院で診察を待っている子供たちと歌いました。日本人の手術中の先生が、「何だろう」とびっくりしたそうです。思い出すと楽しくてたまりません。日本の子供も
海外の子供も童心というのは世界中同じだと思います。

 茨木師が寄付された大白蓮華学校

人生はすべて自分の責任

茨木 今は子供たちと楽しい時を過ごした思い出に包まれていますが、私も若い頃はとても苦しんだことがあります。母や師匠に反抗し、劣等感がいっぱいで、朝の挨拶もできず、またほかの対人関係にも悩み、長い間、切羽詰まった時期がありました。
 そんなとき、私は夜中坐禅していて、ふと外を見たら明るくなっていた。それで部屋から一歩出たら、ぱーっと朝日が差し込んできた。その瞬間ですね。「風吹けども動ぜず、天辺の月」という言葉がぱーんと出てきた。びっくりしました。「月は仏様、それは私自身だ」、また「すべて私の責任だ」とも感じたのです。
 不思議なことに、今までの苦悩、心の暗雲が消え、心には喜びと温かいものが満ちていました。すべてが美しく、すべてが許せると思いました。それ以来、私には何にもこだわりがなくなってしまって、師匠にも「おはようございます」と素直に言えた。不思議ですね。そうしたら師匠も、「ああ、おはよう」と応えてくれた。ほかの対人関係でも、自分から心を開いてみたらすんなりまるく収まったのです。

――そういう瞬間があるんですね。

茨木 はい。私はおかげさまで人間の心の在り方というのは、そういうものなんだとつくづく思わされました。苦しんだ揚げ句、人生はすべて自分の責任だということが分かったのです。

――誰しも人生の中で悩み苦しんでいるとき、何とか心穏やかになりたいと思っています。でも、どうしたらなれるのでしょうか。

茨木 『修証義』第五章に、「願生し娑婆国土し来たれり」という言葉があります。人はみなこの娑婆世界、人間の世界に自ら願って生まれてくる。仏様の世界にいたのを、仏様にお願いしてこの世に生まれてきたんだということです。ですから、みんな仏様から仏性、「仏心」をいただき、無限の力を持って生まれてきているのですから、ありがとうございますと感謝しながら生きていきましょうと皆さんにお話しています。
 先ほど言った「風吹けども動ぜず」というのも、私たちはもともと仏様の世界にいて、願ってこの世界に生まれてきて、そして亡くなれば元の仏様の世界に帰っていくだけなのですから、何があっても悠々と生きていくことができるということなのです。何年も何年も苦しみ抜いて、おかげさまでそこにたどりつくことができました。若いころから子供たちと接し、その童心に導かれてここまで来ることができたのだなとつくづくありがたく思っています。
 最近、講演会などでは、私はお葬式のあと三七日に笑うことを勧めています。「忍辱」、二十一日目ですね。

――法事のときに笑うのですか?

茨木 そうですよ。仏弟子になった亡き人のみ魂を、み仏の世界にお送りする供養ですから、暗い遺族の心を転換させる笑いの修行です。「あっはっは」と笑いましょうと。はじめは遺族の方々など顔が引きつって笑えない人もいますが、私が「あっはっはっは」と一生懸命笑うと、みんなつられて「あっはっは」と笑う。そうなってしまうんです。
 笑う練習をするんですよ。そうすると、何だかうれしくなるでしょう。そういうことが人生には非常に大切なんです。水戸黄門さんもよく最後、「あっはっは」と笑いますね。やはり笑うというのは、心ができてこないとできないんですよ。

――そうですね。笑うと勇気や希望、そして生きる力がわいてくるように思います。ありがとうございました。