シリーズ第四章 発願利生

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

大本山總持寺  大本山永平寺

第二十一節

衆生を利益すというは四枚の般若あり、一者布施、二者愛語 、三者利行、四者同事 、是れ即ち薩.たの行願なり、其の布施というは貪らざるなり、 我が物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其の物の軽きを嫌わず、其の功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ること無し。

◆訳◆
 人々のためになることをするのに、真の智慧の働きとして四種の智慧がある。一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事という智慧である。これはすなわち菩薩が身を以て行うべき誓願である。貪らないということも布施である、また自分のものではなくても布施してはならないということはない。僅かなものでは駄目だというのではなく、その働きのまことを見ることである。そうであるから、たとえ一句一語の法でも布施をしたらよいので、この世やあの世の善き種となるのである。たとえ僅かなお金でも物でも布施をしたらよいので、この世やあの世の功徳の元となるのだ。法も宝であるし、物質的なものも法と同じなのである。ただ他からの報いを貪らないで、自ら持てる財なり法なり他に分け与えることである。舟を置いたり橋をかけたりするのも布施そのものである。生計をたてるための仕事をなすことも布施でないことはないのである。

 大本山總持寺

解説

布施は世のため人のため

 この節では、人々を先に彼岸に渡すための具体的な智慧が説かれています。それには布施、愛語、利行、同事という智慧がありますよ、ということですから、それについて学んでみましょう。
 まずはじめに布施が説かれます。これはお坊さんにとって都合のよい話だと思う人もいるのではないでしょうか。私が僧侶でなければ、そんなことを思いそうです。しかし、真の布施というのは、僧侶にお包みするお布施だけを意味しているのではありません。道元禅師は布施とはむさぼらないことだと説かれています。欲しがろうとしない、といってもよいでしょう。また一方自分の得た財を、自分のものだけにしないで、世のため人のために使おうと解釈してもよいでしょう。日本だけではなく世界中に自然災害が起こり、生活に困窮する人々も数えきれないほどです。少しでも自分の財布から寄付することも社会に対しての布施になります。
 社会の一員として会社やお店や農業漁業、この世で働いた対価として報酬を得ますが、その中からいつも社会に寄付していくことは、とても大事な布施です。そんな余裕はない、と仰る人も多いでしょうが、道元禅師は「一銭一草」でもよいとお説きです。
 お釈迦様が托鉢してらっしゃったとき、一人の子どもが、お鉢のなかに遊んでいた砂を差し上げました。砂ではありますが、子どもにとっては心からの布施だったのです。後にこの子どもは阿育王としてお生まれになったといわれています。
 また山々に咲いている美しい花を、仏様に供養します、と思わず言ったとしても、それも布施です。また道元禅師は「一句一偈の法をも布施すべし」とおっしゃっていますが、実は私は、道元禅師から大変なお布施をいただいています。それは、私が出家を決意したのは、道元禅師のお書きになった「仏道をならふとは自己をならふなり」という一文を目にしたときだからです。今こうして布施について解説を書かせていただきながら、改めてこれは道元禅師にいただいた法の布施だと思いました。皆さんも人生を振り返ってみて、あの時のあの人のあの言葉に救われたという経験があるのではないでしょうか。それこそいただいた布施です。
 治生産業(生産活動をして生計をたてること)も布施だと道元禅師はいわれます。汗水たらして、社会のため、家族のため、自分の生活のために働くこと自体が布施なのです。また「 舟を置き橋を渡すも布施の檀度」とおっしゃいます。私はここで、橋をかけたり堤を築いたりなさった行基菩薩( 六六八〜七四九)を思い出します。奈良の大仏造営のために民衆から寄付を募り大きな働きをした僧侶ですが、多くの社会事業にも弟子とともに尽力しました。行基菩薩が橋をかけたりした社会事業はまぎれもなく布施ですし、さらに民衆をそのような善をなすことに導いたこと自体が布施そのものです。行基菩薩こそ布施行の模範といえましょう。

浄い行為こそ先祖への最高の供養

 さて、やはりここで僧侶にお包みするお布施について考えてみたいと思います。なぜならば皆さんが「お布施」としてその意味を知りたい具体的な一つではないかと思うからです。
 僧侶は産業行為をしませんので、一切の対価は得ることはできませんし、釈尊の時代からそれは禁止されてきました。ただ、僧侶は僧侶本人も含めて一切衆生の成仏を願って、修行している身です。また現代の日本を見てみますと、僧侶は、檀家さんの心の安寧や、先祖供養のための法事や、葬儀の導師をつとめて、それで檀家さんからお布施をおさめていただきますが、それは産業行為における対価とは違うのです。僧侶個人が頂戴するものでもありません。お布施は仏法僧(仏様、仏の教え、代々仏法を修行してきた祖師)にお供えするものなのです。そして、僧侶は、それをお寺の運営のために、仏様から頂戴して使わせていただいているのです。
 この頃よく仏教のご葬儀代が高すぎるということを耳にしますが、そのようなことを言う人は、お寺を運営するのに、いかに維持管理に費用がかかるかご存じないかもしれません。檀家さんたちの心の拠り所として、お寺が存在している意義は大きいと思います。
 また、次のことをよく聞いていただきたいのですが、キリスト教にしても、ドイツやスイスなど国によっては、教会税として所得税の八%から九%納めることを認めています。ですからご葬儀の時、キリスト教では、仏教のようにまとめて献金する必要がないのは当然といえましょう。考えてみてください。友人の教会を例にとれば、三十万円のお給料の人は毎月三万円納めているのです。神様に納めているのですから、喜んでしている人も多いのです(勿論嫌だと思う人もいるでしょうが)。来世での幸せを願って喜んで十分の一どころではなく多額の献金をなさる人も多いようです。また新宗教の宗教団体もかなり多額の寄付を信者は納めます。それでも心からの喜捨をしている人が多いのです。それに比べて既成の仏教寺院の護寺会費は、一年に一度だけであり、かつ多額ではありません。ですから葬儀のときにまとめて納めていただくということになるわけです。
 それも院号をおつけください、というのでなければ、個々のお寺によって違いはありますが、それほどの多額にはならないでしょう。院号が高いということも耳にしますが、院号をつける必要は全くないのです。ただ生前よく働きお金もあり、特に院号をつけてもらって故人を讃えたいというのであれば、それなりにお寺に喜捨なさるということなのです。院号など付けてもらったが高すぎたなどと、陰口を言うとしたらかえって故人の徳を損じますから、そう思う人は院号をいただかない方がよいのです。
 お寺を維持する一員として、心からお布施したいというお布施が一番ですし、故人の心からなる冥福を願って、仏法僧にお供えなさってください。ご自分が苦労をして得たお金なのですから、いやいやながらの思いでお布施はしない方がよいと思います。
 新宗教の信者さんたちは、その宗教で救われたり、救われたいという願いをもってお布施をおさめていると思いますから、お布施に嫌がっている手垢がついていることが少ないのではないでしょうか。キリスト教の信者さんも死後神の国に入りたいのですから、一生懸命献金しますので、献金したお金に天子の羽根が付いているとさえ思う人もいるのではないでしょうか。 仏教寺院にお布施なさるときも、どうぞお釈迦様への心からなる帰依の心と、感謝の念をこめてお布施なさっていただきたいと願うのです。汗水たらして働いたお金です。いやいやお布施するのは絶対にやめましょう。孫子の代までもお寺が存続し、お釈迦様の教えが伝えられる場として大事にしたいという思いを込めていただきたいです。また先祖の冥福を、仏菩薩が助けてくださることを信じてお布施をしてください。そうして、僧侶に仏様の教えを教え導いてくれるようにと、遠慮なくお尋ね下さい。苦しみのある人は苦しみを滅する素晴らしいお釈迦様の教えを知るでしょう。この命をしみじみと楽しんで生きる道であることを知るでしょう。自然にお布施もなさりたくなるでしょうが、お布施がほしくて、懇切に解説したわけではないこと、申し添えます。どうぞ心からなるお布施で、あなたの心も、大事なお金も、それをおさめていただいた方も、皆平安でありますように。浄い行為こそ、先祖を喜ばせる最高の供養だからです。どうぞ気持ちのよい日送りをなさってくださいますよう。