お坊さんのいる喫茶店
カフェ・デ・モンク

 傾聴喫茶入り口


まだ壊れていた。
3・11の東日本大震災から2年。

 宮城県石巻を移動する車中から眺めた景色は、瓦礫こそ撤去されていたものの、至るところで工事中、土盛りと更地が目立った。つまり、いまだに修復中なのだ。復興といっても緒に付いたばかりで、かつてあったはずの「町」はない。
 その傷跡が癒えない被災地に、「傾聴移動喫茶」という修飾語をかぶせられた、いっぷう変わった場所が動いている。傾聴喫茶カフェ・デ・モンク。それは修飾語の通りに、移動している。三陸海岸の各地を動いている、というわけなのだが、文字通りの意味でも、それ以外の意味でも、静かな「動」を体現している。
 この移動喫茶店の発明者で、マスターでもある金田諦應さんは、宮城県栗原市・通大寺のご住職。つまり、本職のお坊さん。カフェ・デ・モンクでは「ガンジー金田」というアダナで知られる。ふざけているわけではない。カフェ・デ・モンクで被災者たちをおもてなししている方々は、みな親しみやすい「アダナ」を持っている。
 例えば、キリスト教の牧師「ジャスさいぐさ」さんは、ジャージをはいているので「ジャス」。ジャスは、東北方言でジャージのことだとか。金田さんとバンドも組んでいるという右腕は、吉田UFOさん。全員が、ネームプレートに「アダナ」を付けている。
 「ここから話が始まったりもするんですよ」と、吉田さんはネームプレートを指さして言う。笑顔を引き出すキッカケとして、また、誰でも話しかけやすく。移動喫茶には、細やかな気遣いが、いろいろなところにさりげなく配されている。

 お地蔵さんに念をこめる金田師

 ショートケーキをお茶請けに、訪れる被災者の話を聞く。日常の会話でもいいし、悩みでもいい。震災の記憶を語ることで、解放される「痛み」もある。そういう「普通の団欒」が失われているのだ、と金田さんは言う。

人と人の繋がる空間に心をこめ

 昔の町は、なくなってしまった。それと共に「人と人との繋がり」も失われた。普通の話をする相手も場所も。「だからカフェ・デ・モンクを始めたんです」と金田さん。「人と人が繋がることのできる空間が、必要なんです。話ができる場所、ホッとできる場所。笑顔になれる場所。そこで一緒になって、癒えない苦しみも共有するのが、お坊さんの本当の役割なんじゃないでしょうか?」
 現場にいるから、そういうものが見える、ということも話していた。避難所に最後まで残る人々というのは、残らざるを得ないから、まだいるのだ、と。「待っていてくれる人がいる限り、どこにでも行きます」と、金田さんたちは言っていた。カフェ・デ・モンクは移動する。静かな「動」に、存在意義があると信じているからなのだろう。

            *

 今回の取材では、もう一箇所、石巻市雄勝町の天雄寺を訪ねた。雄勝への海岸沿いの道路は、やはり津波と地震で破壊されているのだろう。片側交互通行で、何度も停車しなければならない。ガードレールも波打ち、震災の破壊力を想像させられる。
 天雄寺そのものは、元々の場所にはなかった。津波にやられたのだ。ご住職・野々村大顕さんに見せていただいた写真では、屋根だけが地面に残り、建物は完全に破壊されていた。本堂などの寺だけではなく、檀家さんたちの多くが被災した。いまだ避難所暮らしを強いられている。ここでも、やはり失われたものは大きいのだ。
 それでも、野々村さんは地元に残った。有志の方々に助けられて、プレハブで仮本堂を作った。「奇跡があったからです」と野々村さんが言う。「本堂は潰れても、その下にご本尊が残っていました。檀家さんからお預かりしたお骨も、残っていました」
 だから野々村さんも、雄勝にとどまって、天雄寺の住職として役割を果たし続けようと決意した。毎日、仮設住宅から通って、お檀家さんたちがいつ来てもいいように待っている。

仮本堂で被災者の話を聞く野々村師

 インタビューをしている間にも、二人の年輩の女性が訪ねてきた。年忌法要の相談のようだった。プレハブの仮本堂の中で、ご住職はお茶を出して、親身になって話を聞いている。法要の相談だけではない。今の身の回りのこと、被災のこと。瓦礫のように積もった思い、癒えない心の痛みを告げたいという願い。それらが、被災者たちの心に澱のように溜まっていることは、ここでも明らかだった。
 野々村さんは、ストーブの上のお湯を切らさない。訪ねてくる人に、笑顔でお茶を勧めてくれる。静かに相づちを打ち、話を聞く。
 「皆さんの気持ちになって、話を聞きたいと思うんです」と、野々村さん。「皆さんの気持ちになって、毎日、お祈りするんです。来ていただいて、心の内を話してもらって、私からは仏法僧のお話をさせていただく。それが、布施行ということなのではないでしょうか」
 野々村さんの言葉からは、仏教の「原点の薫り」が漂ってくるようだ。ここにも、不思議な安心が満ちている。インタビューの最後に、野々村さんは、「ずっとこの地を離れないですよ。私の息子の得度式も、この仮本堂で行うんです」と語った。

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 話を聞く野々村師

 被災地は、まだ壊れていた。「物」も「人」も癒やされたわけではない。そのほとんどは、決して治ってはいない。しかし、残されたものもあるのだ、と理解できた。
 壊された物は「人々の繋がり」。しかし同時に、残っているものは「人々の繋がり」を別の形態でつくり出そうとする、創造性あふれるチャレンジ。伝統的な布施行の思い。これらが残っている限り、誰かが繋ごうと頑張っている限り、きっと復興はあるのだろう。そう思えた、石巻での取材だった。

  (門馬慶直)