シリーズ第四章 発願利生

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

大本山總持寺


第二十二節

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面ずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。

大本山永平寺

第二十三節

利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり、 愚人謂わくは利佗を先とせば自からが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり。

◆訳◆
 利他行ということは、全ての人びとの利益になるようなさまざまな方法を考えることである。(昔の話にあるが)つかまって困っている亀を助けたり、病の雀にであった時、報いなど求めずに、ただひたすらに利行の心を起こして助けたのである。愚かな人間は他の得を先にすれば、自分の得は減らされてしまう、と思うかもしれないが、そうではないのだ。利行は、自分の得も他の得も一つなのである。(真の)利行は、自分も他もあまねく利益するのである。

 大本山永平寺

解説

思いやりのある、慈愛にあふれた言葉は心に深く刻まれる

 人は苦しみの中にあるとき、一言の言葉で救われることがあります。筆者もかつて周りの人々から誤解を受けて苦しい状況にあったとき、本師(法を受け嗣いだ師匠のこと)から「いつも元気そうじゃのう」と一言をかけられたことを思い出します。苦しいさなかにあったのですが、本師は慈愛に溢れた方だったので、元気ではなかった私なのですが、「元気に頑張りなされや」と励まされたと同じに聞こえて勇気を取り戻したのです。
 このことから学んだのですが、真実に溢れ、慈愛に溢れた言葉は事実をそのまま言うことでない場合もあるということです。おためごかしに「大変ね」「頑張ってね」等と言うよりも、「こんにちは」と挨拶を交わす方が真実語の場合もあります。その言葉を発する心に相手を思いやる慈愛があれば、どんな言葉でも通じるということも言えましょう。
 しかし、徳の足りないのではと思う人にたいして憐みの心をもって接し、言葉をかけるのは、かなり慎重でなくてはと思います。徳が足りないという判定をする自分自身の心に、その人よりも自分が優れているという奢りがないかどうか、気をつけなくてはならないのでは、と批判精神旺盛な私は思うのです。
 けれども、よくよくこの言葉の深さを知るには、文言がどのような教えから説かれているかということを改めて見直さなくてはなりません。第四章発願利生は、道元禅師の『正法眼蔵』「菩提薩四摂法」という巻の中にある文言から編集されています。禅師が仏弟子に対して、仏道を学ぶものは、菩薩であれよ、という願いを込めて人々を救うための四種類の方法を説いてくださっているのです。この節の文字面だけ読みますと上から目線ではないかと批判したくなりますが、苦しんでいる人や、あまりに道から外れた生き方をしているのではないかと思う人に、慈愛ある言葉をかけることは、菩薩として心にかけることだとあらためて肝に銘じます。
 一方、筆者の心に浮かびますのは、良寛さまのエピソードです。放蕩者の甥をいさめてほしいと家族に頼まれた良寛さまですが、一週間そこに滞在する間、一言も甥にたしなめる言葉をかけることができません。そしていよいよそこを離れる日、その甥に草鞋の紐を結んでくれるように頼むのですが、紐を結んでいる甥の首筋に涙がポタポタと落ちてきました。それは、良寛さまの甥を思いやる慈愛のこもった涙でした。それからその甥はすっかり回心したそうです。慈愛に溢れた良寛さまの愛語は無言でした。いかに素晴らしい言葉であっても、慈愛がなければ、意味はありません。人の真情にせまるには、「思いやりある、あたたかい慈愛の心」に溢れた真実語です。「思いやりある、あたたかい慈愛の心」をことあるごとに学んでいきましょう。それはどこにも転がっていません。事に触れるたびに、自分の心の底に「思いやりある、あたたかい慈愛の心」ならどうするかと問いかけつつ、耕して実践して我が心に溢れさせていくものではないかと思います。心して、穏やかな、人を思いやる言葉を使うようにいたしましょう、お互いに。

困っている人を見たら助ける――それが菩薩の道

 利他行と言われると、自分は損をするのでは、とつい思いがちです。また自分は損をしてでも他の利益となるようなことをしなさい、ということではないかと思ってはいませんか。しかし、道元禅師は、けっしてそうおっしゃっていません。「利行は一法なり、普く自他を利するなり」とおっしゃっていることを学んでみましょう。 「情けは人のためならず」という言葉は、よく耳にします。( 現代の若者は耳にしますでしょうか?)人のために何か親切なことをすると、やがては自分にとってよい報いがあるよ、というような意味です。
 中国唐時代に編まれた『蒙求(もうぎゅう)』という子供向けの書物の中に、揚宝という人が、傷ついた雀を子供のころに助けてやったら、やがて高官に就くことを約束されたが、その通りになったという話や、孔愉という人は、捕まっていた亀を助けて川に放してやったら、後に知事になり、その印鑑にその時の亀の姿が現れた、という話があります。道元禅師はこの話を例にあげて、けっして後の報いを求めたわけではなく、ひたすらに病雀を助け、窮亀を助けたのであるが、自利もあったことを説かれています。愚人は利他を先にすると自分は損をしてしまうと思いがちなので、そうではないよ、と示してくださっていることは、我ら愚人にとって、ホッとするところではないでしょうか。
 逆に、恩着せがましく、他人に親切にするのならばしないほうがましでしょう。とにかく、はからい心なく、困っている人を見たら助けなさい、それが菩薩の道なのだ、と説かれているのです。仏道を学ぶ人は、誰でも菩薩です。菩薩の心得は、布施、愛語、利行、同事を実践することであり、これは菩薩行です。同事については次号で学びたいと思います。菩薩……私とは関係ないわ、私は菩薩なんてすばらしいものではないもの、と、あなたは思っていませんか。仏道を学ぶ人は、みな菩薩なのです、あなたも私も。菩薩の皆様どうぞ良い日送りを。

 大本山總持寺