シリーズ第四章 発願利生

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

 大本山永平寺


第二十四節

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。

◆訳◆

 同事ということは相違がないということである。自他ともに相違がないことである。たとえば人間界に如来は人間としてお生まれになり、人間に合わせてくださったようなことをいう。相手にまず自分を受け入れさせてから、自己の仏道の教えを相手に受け入れさせようとするのが道にかなっているであろう。自己と他者の関係は時々に関わりあいながら限りなく続いていくものなのである。海が水を拒まない、こういうことも同事である。海は水を拒まないから、水が集まって海となるのである。

 大本山永平寺

第二十五節

大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。

◆訳◆
 菩提心の実践と誓願には、総じて、このような道理があることを心静かに考えるべきである。軽々しく考えてはならない。一切の衆生は済度され、摂受されてその導きを受けることができる、この功徳を礼拝し、つつしんでうやまうべきなのである。

 大本山永平寺

解説

同事とは他者の苦悩に寄り添い共に仲良く生きてゆくこと

 この第四章では、仏道に生きる菩薩として、人々を仏道に導く誓願とそれをどう実行したらよいかという四つの方法(四摂法)を示していただいています。今まで、布施、愛語、利行の解説をしてきましたが、いよいよ最後の「同事」の解説になります。この四摂法は『大般若経』などの古い経典にも度々説かれている方法ですが、同事という言葉は少し分かりづらい仏教語ではないでしょうか。
 そこで道元禅師は、同事というのは、お釈迦様が人間界に人間としてお生まれになって、人間に合わせて法をお説きくださったことが同事であり、また海が全ての水を受け入れて海となっていることを同事というのであると説明しています。
 自他ともに相違がない、ということは、あなたとわたしは別人格ではあるけれども、同じ人間である、お互いに天地の命のあらわれようだ、と受け取ることではないでしょうか。そう考えれば、仲良く共にこの世を生きていこうではないか、ということになりませんか。
 「佗をして自に同ぜしめて」ということは、相手に自分を受け入れさせるということです。この人の言うことなら聞ける、という気持ちをまず起こさせられることが、菩薩としての同事行を行うためには大事なことです。一方的に自分の意見をまくし立て、他の人の言うことには耳を貸さない人が、時々います。こういう人は、自分は正しいと思い込んでいる人に多い傾向ですけれど、こういうことでは自分の考えを受け入れてもらいたいと思ってもかえって耳をふさがれてしまうでしょう。
 道元禅師は仏道を行じる菩薩としては、人をひきつけるような魅力がなければならないとさえ言っていると言えましょう。お釈迦様はもちろんのこと、お釈迦様のお弟子さんたちが、歩く姿を目にしただけで、その凛としたお姿にひかれて仏教徒になったという話も伝わっています。
 例えば、スポーツの世界にしても、優れた選手は他を自分のほうに向かせ、さらにみずからのスポーツ論を教えることが容易でしょう。
 菩薩であろうとする者は、相手がこちらにおのずと入り込んでこれるように力量もあり、懐の深さもあることが大事であるということです。
 それにはいくら仏教的な学識があっても、十分とはいえないでしょう。他の人の苦悩に寄り添える、今風に言えばオーラがあれば、人はおのずと近づいてくることができるのではないでしょうか。他の人の苦悩に寄り添えるには、やはり自分も似たような経験があるほうが、説得力はあるでしょう。挫折したことのある者は幸いなるかな、打ちのめされたことのある者は幸いなるかな、この世の地獄を見た者は幸いなるかな。菩薩でありたいと願う者にとって、人生における多くの苦しみこそ有難い光なのです。
 お釈迦様が人間の姿で、この世に現れてくださって、私たち人間にお手本を示してくださったことは、あらためて有難いことと思いますが、人間としての苦悩をお釈迦様はご存じであること、そのうえで真理をお説きくださったから、その真理の教えに耳を傾けることができるのではないでしょうか。
 また仏像でさえも、同事行を成し遂げていることを、中国の禅僧のお話に見出すことができます。
 達磨禅師から六代目の祖師に六祖慧能禅師という方がいらっしゃいます。そのお弟子のさらにお弟子さんに石頭希遷禅師(七〇〇〜七九一)という方がいました。この禅師は石の上に庵を建てて坐禅をしていたので石頭と呼ばれた方ですが、この方が少年のころ、お母さんに連れられてお参りに行きました。お釈迦様の仏像の前で、石頭少年は言いました、「お母ちゃん、仏様って、手も足も顔も人間と同じだね。ぼくも仏様になろうかな」と。そうして、間もなく少年は出家して、後々にまで名の残る勝れた禅僧になったのです。

 大本山總持寺

道元禅師の教えを灯として他を慈しむ心を育てよう

 これもお釈迦様が人間として生まれてくださった同事行のお蔭といえましょう。もしいかに神通力があったとしても、龍や狸のようであっては、人間は誰しもあのようになりたいとは思わないでしょう。時を超えてお釈迦様とも道元禅師とも私たちもつながっています。今此処で無窮に続いていると言ってもよいでしょう。
 『管子』という中国古代の書物のなかに「海は水を辞せず、云々」という文言があり、道元禅師はここをとりあげて、海がどのような水でも受け入れて海となっていることを同事と説かれています。海には全ての水を受け入れるだけではなく、浄化作用があります。しかし、この件については、道元禅師の時代にはありえなかった現代の悲劇がありますね。原発事故以後の海には、どのような水でも受け入れてしまう悲劇があります。それでも何百年かの時が流れれば、いつかは浄化されることでしょうが。
 同事行の中には、一時は空しく見える事もあるでしょう。天の流れにお任せするしかないことも多いでしょう。
 また素直な人ほど他を受け入れることの方に重点をおいてしまい、自分を殺して他に合わせている人もいますが、それは同事行ではありません。菩薩行はへつらいも媚も入り込む余地はありません。ありたいのは、他を慈しみ苦しみを取り除いてあげたいという願いと実践です。
 仏教を学ぶ全ての人は、この教えを灯りとして少しでも実践して生きていきましょう。私にもなかなか容易な道ではありませんが、教えは灯りです。これが完璧に実践できたならば、あなたも私も仏です。
 道元禅師はさらに次のように菩薩として生きる姿勢を教えてくださっています。
 「ただまさにやわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」と。これならできそうではありませんか。七百年以上の時空を超えて、道元禅師の灯りがあなたにも私にも届いているのです。一生はまもなく終わるでしょう。あなたも私も。灯りを頼りに今日という時を生きようではありませんか。

 大本山總持寺