新春対談 鎌田實&中村治郎
すばらしきかな、人間
健康ごはんで充実した人生を
かたや、脳卒中で知られた長野県を長寿日本一に導き、八面六臂の活躍中、鎌田先生、こなた、九十五歳で完済のローンを背負い、老健施設理事長として奮闘中、中村先生、両者がっぷり四つに組んで……語り合った人間讃歌
中村治郎(なかむら・じろう)
鶴見大学名誉教授。
1929年神奈川県厚木市生まれ。
53年東京医科歯科大学歯学部卒業。医学博士。69年東京医科歯科大学助教授、70年鶴見大学教授となる。
99年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
2000年医療法人社団「愛清」理事長、2001年神奈川県愛川町に介護老人保健施設「せせらぎ」を設立、同施設理事長となり、今日に至る。
鎌田 實 (かまた・みのる)
医師、作家。
1948年東京生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。
38年間、医師として地域医療に携わり、チェルノブイリ、イラク、東日本の被災地支援に取り組む。
2009年ベスト・ファーザーイエローリボン賞(学術・文化部門)受賞。2011年日本放送協会放送文化賞受賞。
ベストセラー『がんばらない』をはじめ、『がまんしなくていい』(ともに集英社)、『この国が好き』(マガジンハウス)など著者多数。『news
every.』(日本テレビ系)、『日曜はがんばらない』(文化放送)にレギュラー出演中。
現在、諏訪中央病院名誉院長。
ゼロからの出発
鎌田 ぼくは三十九年前に東京医科歯科大学医学部を卒業して長野県の病院に赴任したんですが、先生は何年に卒業なさいましたか。
中村 ぼくは東京医科歯科大歯学部の一回生で、昭和二十八(一九五三)年卒業です。
鎌田 ということは、ぼくは二十三年生まれですから、先生が卒業するとき五つということですか。それから先生は歯科の臨床をやらずに、ずっと教育と研究を続けられますね。
中村 ええ、本当は田舎(神奈川県愛川町)へ帰って開業する予定だったんです。それで先輩のところへ行ったら、学校へ残って少し研修を積んでから開業しろって言われましてね。そして、東京医科歯科大学に二十年、鶴見大学に三十年、教育と研究に専念してしまいました。
鎌田 曹洞宗と関係のある鶴見大学歯学部の教授になったのは昭和何年になりますか。
中村 四十五年です。鶴見女子大に歯学部が増設されるという話で、それほど確定的なものではなかったんですが、駒澤大学の教授をやっていた兄が、駒澤と鶴見大学とは姉妹校ということもあって、大丈夫だから移れと。医科歯科の恩師からも一緒に行こうと誘われました。もっともおやじには、医科歯科の助教授っていう職があるのに、できるかできないかわからないところに行くのはよせと反対されました。
鎌田 ぼくも医科歯科大の医学部を卒業して、同級生はみんな医科歯科大の病院とか、虎ノ門病院とか、癌センターとか、東京に勤務するんですね。同級生の中で、ぼく一人ですよ、諏訪中央病院なんていう、地方の聞いたこともない、累積赤字四億円の病院に赴任するのはね。
みんな、ばかだな、おまえ、東京に戻ってこられないぞとか、偉くなれないぞとか言われたんだけれども、ぼくは貧乏だったし、実の父や母がぼくを育てられず捨てられて、貧乏な人に拾われたから、基本的には何もないところから始まっている。逆に言えば死んじゃうかもしれなかったのに、貧乏な人が拾ってくれたおかげで生きるチャンスが与えられた。だから、怖いものがないというか、地方に行ったらもう駄目なんていうことはなくて、どうせ初めは裸だから、駄目だったらまた東京に戻ってくればいいわけで、命まで取られるわけではないから、友だちの心配を振り切って地方に行っちゃったんだけど、面白かったですよ。
中村 ぼくは二度、命拾いしているんです。一つ目は四歳のときに兄弟三人で疫痢になって、ぼくだけ生き残った。だからおふくろは、勉強なんかどうでもいいから、病気にならないでくれと。それで今度は中学(旧制)に行って、厚木中学ですけれども、勤労動員ですよ、東京大空襲のときに焼夷弾の雨の中にいたんですね。一晩に十万人が死んだでしょう、周りは焼け野原、その中にいてそれでも生き残った。うちは、どちらかというと地主だったんですが、戦後は財産もなにも全部ゼロになってしまった。おやじはシベリアに行って、生きているのかどうか分からない。だから、おふくろがいつも言ってました、何もないのが財産だって。終戦の翌年、医科歯科の試験は受かったんですが、五円の入学金がないんですよ、それで苦労して。
鎌田 入学金五円ですか、たいへんなお金だったんですね、五円が。それから時代がずっと下って、鶴見大学を定年退職されると、先生は研究の生活から、今度は老人保健施設(老健)の理事長になられた。
中村 はい、定年というときに、生まれ故郷の愛川町で次男坊が整形外科をやっている縁もありまして、そこの町長さんから、愛川町には特養(特別養護老人ホーム)はあるけれども老健施設がない。そうすると、寝たきり老人が増えて困るから、リハビリを主にした老健施設をつくってくれと頼まれたんです。リハビリをして家庭に返すという、それを目的とする施設ですね。
だから、自己資金を全てつぎ込んだ上に七十歳で大借金をして、これは九十五歳にならないと返しきれないんです。(笑)そうしたら、今オレオレ詐欺でお年寄りがだまされるでしょう、そういう電話はかかってこないです、うちには。何にもないというのが分かっているから。(笑)
鎌田 ゼロっていいですよね。
中村 いいですね、とくに今はマイナスですから。(笑)医科歯科も焼け野原のゼロ、鶴見大学も、できるかできないかというゼロからのスタート。今度の老健だって、野っ原につくったんですから、ゼロから。でもまあ、おかげさまで家族や地域のサポートを得て、どうにかやっています、生きがいを感じていますよ。
鎌田式健康ごはん
中村 今日は先生には、かつて脳卒中ワースト一位の長野県が、今平均寿命男女とも第一位の長寿県になったという、それには食生活についての地道な、草の根運動的な取り組みがあったと聞いているんですが、そのお話をぜひ。
鎌田 そうですね、長野県に行ったら脳卒中がすごく多くて、不健康で早死にだったんです。ぼくは年間八十回、その地域へ出ていって、脳卒中で倒れないためにどうすればいいか、どんな食事がいいかを考えた。まず減塩だったんです、だけれども、塩分を減らすのは結構難しいんですね。塩は魔力というか、だんだんエスカレートして、刺激を求めるようになる。だから、薄いみそ汁は男の人たちがなかなか納得しなかったので、結局具だくさんにして、汁を減らすようにしました。さきほど申しましたように約四十年前に赴任した頃、みそ汁の塩分二グラムだったのが、今は何と〇・六から〇・七グラムに減っています。同時に、野菜を多く食べるということに全力投球したんです。それによって、高血圧が減り脳卒中が減ってきて、脳血管性の認知症も減ってきた。長野県人は日本一野菜を食べるようになった。
野菜を多く食べるためには、干し野菜にするとか、温野菜にするということを地域の人に教え歩いたんです。これと魚のいい脂を摂るということ、それに減塩の三つで、あと二つ入れるとすると、歩け歩け運動、最近はロコモティブ・シンドロームといって、動くことの大切さが言われるようになっていますね。最後に、免疫力をよくするため、発酵食品のすすめということです。ヨーグルト、納豆、みそ、チーズ、そういうものを食べて腸内環境をよくする。免役細胞のうち六〇%が腸にあると言われているので、腸を元気にして免疫力を上げれば、細菌やウイルスに負けない体をつくることができます。その結果、健康寿命という、介護保健を利用しない、自立している期間の寿命も長野県は日本一になって、癌も減ってきたんですね。精しくは『鎌田式健康ごはん』(マガジンハウス刊)に料理法(レシピ)も含めて書きましたので、参考にしてほしいと思っています。
中村 今のお話で減塩に男たちが納得しなかったということですが、これをいかに説き伏せましたか。
鎌田 男の人たちは、脳卒中は遺伝だと思っていたんですね。ぼくが赴任した茅野市は長野県の中でも脳卒中が多い町だったんです。だから、ばたばたと倒れて、倒れると女の人が介護をする、その介護地獄を隣近所で見ることになりますから、まず女性が、先生の言うことを信じてちゃんとやらないと、結局自分たちが不幸になると思ったわけです。すると、どうせ遺伝なんだから、どうせ死ぬなら死ぬ前に好きなだけ野沢菜を食ったほうがいい、なんて言っていた男の人でも、女性陣の格闘によって、血圧の薬を三個から一個に減らしても前より血圧の数値がいいと、そういう実例が出てきた。
そのうちにぼくたちがデータとしてグラフ化して、二年でこういう成績が出始めましたというのを見せると、男性陣は納得するとすごい、やはり馬力があります。男が納得するようになってから、一気に改善したんですね。
中村 うちの施設なんかでも、男の人で脳卒中という例は多いですね。ぼくも行くたびに食事をしますが、確かに塩気が足りないって気はしますけど、それに慣れてきました。慣れですね。
鎌田 慣れだと思いますね。大阪の国立循環器病研究センターの「かるしおレシピ」という病院食が脚光を浴びていて、本も売れているし、その病院食と同じ作り方をしたお弁当とかが作られると一時間ぐらいですぐ完売なんだそうです。塩が少ない料理に慣れてくると、素材の味が楽しめるんですね。一度塩や醤油や味噌で強く味付けをすると、徐々に舌がまひして、もっと味を濃くしていくという習慣になるように脳が出来上がるんですね。それを一度軽くしてしまうと、今度は塩や醤油でだまされず、素材に神経が行く。タケノコもシイタケもレンコンも、みんな同じ味に染められていたのが、塩を軽くすることで一個一個の素材に楽しみが行くようになる。人間の脳ってそういうふうにできているから、軽塩にして減塩に成功すると、今度は塩辛いのが嫌になってくるんです。
中村 そうですね。そういえば総持寺なんかで、何か会があると精進料理をよく食べるんです。精進料理というのはそういう料理ですね。
鎌田 そう、野菜は多いですもんね。
中村 それで、職業の中で一番長生きはお坊さんなんだそうです。
鎌田 医者は駄目なんですね。なんで駄目なんですか。
中村 医者の不養生は、昔から。
鎌田 優しくて、患者思いで働き過ぎですよね。
中村 しかし百歳を越えても医師として活躍されている日野原重明先生がおられます、先生がぼくの目標なんです。
鎌田實/障害者と旅をはじめて9年になる。ハワイの海で
人生に目的を持とう
中村 ぼくもお年寄りを随分預かっているんですけれども、目的のない老人が多いんですね。リハビリをしていても、ただリハビリだけしていたんではきついです、面白くないですよ。リハビリして歩けるようになって旅行に行こうと、そういう目的がある人はいいですけど。スポーツ選手だってそうですね、リハビリして現役に復帰し、また活躍をしようと思うから一生懸命やっているんですよね。ところが、お迎えが来るのを待っているような人、もうあきらめているような人が結構います。ぼくは歯科医だから、よく食べられるように義歯を作ってやろうというと、もう死ぬんだからそんなのにお金をかけるのは嫌だという人がいる。
鎌田 とんでもないことですね。最後は食べることが一番の楽しみでしょう。いろいろな趣味があっても、残る最後の楽しみは食べることですもんね。
中村 そうです。ちゃんとかめるようにしてあげないといけない。棺に入っても、歯がちゃんとしていないと、ゲソッと痩せて。
鎌田 ちょっと悲しい顔になっちゃいますね。今、先生が言われたように、目的がないと人間ってなかなか難しいとぼくも気がついて、九年前から「鎌田實とハワイへ行こう」とか、今は「鎌田實と東北へ行こう」と、東北を支援する旅もやっていて、九月にも裏磐梯の大きなホテルを借り切って、車椅子の人たちを全国から三百人集めたりしています。そうやって旅をしていると、要介護五だった人が要介護二になったりするんですね。旅をするとか何か目的があると、じゃあリハビリをやろうと。
中村 目的とか趣味とかがないとなかなか難しいですよ。ぼくも写真やオーディオに凝ってるものだから、旅行に行ってたくさん撮ってくるとそれに音楽をつけて、家内がそれを編集してDVDにするんです。八十四のじいさんと八十のばあさんがDVDを作って、患者さんに分けたり市の観光課に送ったりしている。
鎌田 趣味があるということは大事ですね。ハワイへの旅行ということで今回も障害のある人たち、車椅子の人たち七十人と一緒に行ってきましたが、一番の高齢者は九十五歳、この人は肌も何も若々しくて、お化粧しているのと聞くと、「いえ、化粧水も使ったことがない」という。「ただ、人生は楽しまなければいけないと思って、今年はサンディエゴに行って、パラオに行って、香港に行って、今回先生との旅があるというのでハワイに来た」というんです。
だから何事にも好奇心を持って、風景を見たり感動したり、ちょっとしたものを食べたときに、おいしいなと思ったりする人は、いつまでも若々しい感じがするんでしょうね。
ぼくが障害者の人たちと九年付き合って学んだことは、人間の心の不思議さといいますか、今度もハワイで結婚式に立ち会ってほしいと頼まれたんですね。新婦は四十歳、頸椎損傷で手足が動かない、車椅子の生活であり、なおかつ大腸癌があって、肝臓に転移しているんです。誰からも見捨てられそうな女性なのに、二十六歳の若い男性が彼女のことを好きになった。確かに美人とはいえないかもしれないけれど、笑顔がものすごくいい女性です。四十歳で頸椎損傷で大腸癌があって肝臓転移、どれ一つとってもめげちゃいそうなのに、その人はめげていなくていつもにこにこしている。その二十六歳の夫になる若者に、「はじめから苦労することが分かっているのに、なんで一緒になるの」と言ったら、「会社でストレスがあっても、この人の笑顔に会うとものすごく気持ちが楽になる。この人の面倒を見ていると、もう一回しっかり働かなくてはいけないなという気になる」という答えです。
人間って、こういうことができるんですね。ぼくは見ていて、誇らしい思いでいっぱいになる。もう一例、これは関西の方で七十八歳の男性です。奥さんを癌で亡くして、寂しくてつらくて一人暮らしが嫌になった。そのときに奥さんが元気だったころ、夫婦で援助していた、一人の小児まひの車椅子の女性がいたんです。そこで、この寂しさを防げるかもしれないと、誰か違う女の人をパートナーにしたのでは死んだ女房への裏切りみたいになるから、女房も一緒にサポートしていた女性だったら許してくれるんじゃないかと、結婚すると言ったんですね。
ところが息子たちが反対して、おやじの人生だから好きなようにしていいけれども、後でいろいろ問題が起きると困るから結婚だけはやめてくれという。それで「分かった。でも、一緒に生活する。それから、この人に失礼にならないように、何人かの友達にはちゃんと一緒に生活するということを宣言する。隠れるようにして暮らすのは嫌だからな」と言ったら、息子たちも「籍を入れないのなら賛成する」と、披露宴だけやった。
その人とは五年の付き合いになりますが、ぼくはハワイに一緒に行ったときに、それを告白されて、「あなた、偉いね」って言ったら、「ぼくは彼女がいてくれて、お世話させてもらっているうちに、自分の寂しさが減ったんです」と。
人間というものはこんなに、誰かのために役立ちたいとか、誰かのためにお世話してみたいと、そういう思いがあるものなんです。だから「鎌田先生、そんなに忙しくしているんだから、ボランティアももうやめてもいいんじゃないですか」と言われても、こういう人たちを見ていると、なかなかやめるわけにはいかないんですね。
『がんばらないけどあきらめない』
鎌田 實[著]
集英社