シリーズ第五章 行持報恩

道元禅師のみ教え
『修証義』

曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外

 大本山總持寺


第二十六節

此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

◆訳◆

 この菩提心は、多くの場合、南閻浮の人間におこすことができるのである。今我々は、願ってこの娑婆国土に生まれてきて、菩提心をおこす因縁があるのである。釈迦牟尼仏の教えに出会えたことを喜こばずにいられようか。

第二十七節

静かに憶うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、仏の言わく、無上菩提を演説する師 に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ、但般若を尊重するが故に、日日三時に礼拝し、恭敬して、更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。

◆訳◆
 心静かに考えてみなさい、正法がまだ世に流布していない時、いくら正法のために身命を捧げようと願ってもできないことであったが、今日、正法に出会えている我らは、身命を正法のために捧げようと願って当然ではないか。知っているだろうか、釈尊は次のようにおっしゃった、「この上ないまことの覚りを説き示してくれる師に出会ったならば、(註:インドには四姓という差別があるが、そのような)出身を穿鑿してはならないし、姿形で判断してはならないし、その人の欠点を嫌ってはならないし、その人の行いを批判してはならない。ただ般若を大事とするために、毎日朝昼晩その人を礼拝し、敬って、憂い悩む気持ちを全く起こしてはならない」と。

 大本山總持寺

解説

私たちの命は仏の御いのちの現れ、はたらき

 行持報恩という第五章の題が示すように、この章では、釈尊の教えに出会えた恩に報いることは、修行し続けていくことであることが説かれています。皆さんご存知のように、世俗の世界でいうところの修業と、仏教の修行は「ぎょう」の字が違います。技術技能を学ぶことは修業であり、一応取得の目途があります。しかし、仏教の修行には坐禅の恰好ができるようになったからといって、お経を覚えたからといって、それで修行終了ということはありません。仏道修行は無窮です。
 何を修行し続けていくか、仏道修行と一言で言っても、それはなんでしょうか。『修証義』によれば、具体的には「布施、愛語、利行、同事」という菩薩としての願いを行じていくことといえましょう。あらためて今回はその解説はいたしませんが、この四枚の般若を行じる者の心底に、釈尊の教えへの信仰がなくては、道徳になってしまいます。
 道元禅師が正法とおっしゃるときは、つねに坐禅があります。出家者は当然坐禅をすべきですが、在家の方々は日常生活の中で坐禅をなさることは、かなり大変ではないでしょうか。坐禅は仏行ですから五分でも十分でも、できればなさってください。

 大本山永平寺

 さらに、仏教信者として大事なことがあります。それは「般若を尊重すること」といえましょう。般若とはなにか。『般若心経』の般若ですが、こういう言葉自体をかなり説明しなくてはならないところに、仏教の問題があると思います。でも、ともに学びましょう。
 般若とは一般的には仏の智慧と訳されています。しかし、道元禅師の解釈はもう少し違う角度から説かれています。この冊子の読者の方の中には、長井龍道老師をご存知の方もいらっしゃるでしょうが、昨年、長井老師は遷化なさいました。奇しくも道元禅師、瑩山禅師の両祖忌と同じ日でした。私事で恐縮ですが、長井老師には三十年来出家生活の応援をしていただき、本師亡き後大学院に五年間通えたのも、老師の応援多大でした。この度長井老師の遺稿を学ばせて頂き(近日出版される予定とのこと)、道元禅師の般若の解釈が大変深い意味のあることをお教えいただけました。その表現をお借りしますと、般若とは「仏の御いのちの現れ、はたらき」となります。
 この私たちの命も「仏の御いのちのはたらき」であるということ。仏教徒としてあらためて胸にとどめたい言葉です。キリスト教では、人間のみならず天地自然のあらゆるものは神の被造物ですし、イスラム教においてもそれは同じです。仏教では少し違います。
 人間も含め天地自然の万物を、仏様が造ったとは言いませんが、似たようなニュアンスで『法華経』「譬喩品」に「今此三界皆是我有,其中衆生悉是吾子。(今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生ことごとく是れ吾が子なり)」とあります。あらためてこの文言をいただきたいと存じます。
 科学があまりに進歩したり、日本人は無宗教という人が多いかもしれませんが、仏教徒と自らを思う人は、どうぞしてこのわが命は「仏の御いのちのはたらき」であると受け止めていただけたらと願います。そこから知識ではないまことの智慧が湧き出てくるのではないでしょうか。般若とは「ほとけの智慧」という受け取りだけではもったいないことです。

苦悩に満ちた人生でこそ仏の教えに出会うことができる

 「見釈迦牟尼仏」とは、お釈迦様のお姿を見ることではありません。『正法眼蔵』「見仏」巻で『法華経』を受持・読誦・正憶念・修習・書写すること、とも説かれています。また「願生此娑婆国土し来れり」とお書きになっていますが、この主語は「見仏」巻では釈尊ですが、『修証義』では、「私たち」が、願ってこの娑婆世界に生まれて来たという意味に受け取るように説かれなおしています。
 余談になりますが、私が若いころ、誕生日が一日だけ違うオーストリア人に出会い、長く彼女と交流を持ちましたが、出会ったころ、「あなたは日本に生まれると言い、私はオーストリアに生まれると言って生まれてきたの、覚えている?」と言われたことがあります。勿論私は覚えていません。冗談だろう、と思っていましたが、もしかしたら本当かもしれません。ただ私は覚えていませんが。でも、こうして私は、日本において、出家者として仏道に出会え、道元禅師の教えに出会えて、この人生を噛みしめて生きている自らを顧みると、「願ってこの娑婆世界に生まれてきたのではなかろうか」と思えてくるのです。
 南閻浮洲は、インドの須弥山説で説かれるところの須弥山の南にある島で、寿命も短く、決まっていませんし、楽もあるが苦もあり、正邪のあるところとされています。その中でも娑婆は憂いや悩みの多いこの人間社会を言います。しかし、もしすべてが満ち足りていたならば、果たして菩提心を起こすでしょうか。苦悩に満ちた人生であればこそ、人生とはなんぞや、生きるとはなんぞや、と悩み、仏の教えに出会うこともできるのではないでしょうか。そうして、他のために生きることを学び、お互いの命が仏の御いのちのはたらきなのですから、一つ命であることに気づかせてもらえ、生きることの喜びも感じられるのではないでしょうか。
 自利と利他が一つであることを知るのも、この娑婆世界に生き、苦楽をともにすればこそです。満ち足りすぎていないこの人生を喜ぶべきでありましょう。思い通りにならないこの人生よ、有難う、と感謝すべきでありましょう。たゆまずこの道を歩いて行く、掌を合わせつつ生きていく、報恩行持の日々をお互いに生き抜いていきましょう。少々辛いことが多すぎますが。

 大本山永平寺