求道教導九十一年
――總持寺二祖峨山禅師六五〇回大遠忌を迎えるにあたって

 峨山禅師頂相(總持寺祖院蔵)

郷土史研究家 佃 和雄


佃 和雄(つくだ・かずお)

昭和2年(1927)旧門前町生まれ。
同23年、石川師範学校卒業。門前町、輪島市小中学校教師、櫛比小学校教頭、剱地中学校長を歴任。
門前町文化財保護審議委員会長、門前町郷土史研究会長、輪島市文化財保護審議委員会副会長、全国北前船研究会長。
平成15年(2003)石川県文化功労賞。同22年、輪島市学術文化功労賞。
著書『能登總持寺』『能登總持寺物語』『峨山禅師物語』ほか


幾世の人を救わんと 大きな光と現わるる

 私がどうして『峨山禅師物語』(二〇〇二、再版二〇一三)という本を書くご縁ができたのかということからお話しましょう。私はこの門前町に生まれ、地元の中学校、また輪島市の小中学校の教師をつとめながら、若いころから總持寺について調査し研究してまいりまして、昭和四十七年『能登總持寺』(北国出版社)を出版しました。その二年後、ちょうど總持寺開山の瑩山禅師六五〇回大遠忌の年に、これに加筆した改訂版を出しております。
 その後、總持寺が明治の大火で焼失したため、横浜市鶴見へ移転して八十周年という昭和六十一年に、大本山總持寺の出版部から電話がかかってきました。出版部で発行している月刊誌「跳龍」への執筆依頼です。そのころ中学校の校長をしておりまして、校舎を建てていたことや、研究発表もあり忙しく、二度お断りしたんですが、さらに三度目の依頼を受け、これは引き受けなければと同誌に連載を始めます。それをまとめて、『能登總持寺物語』(北國新聞社)として出したのが平成八年です。
 そうして調べたり、本にまとめたりしていて痛切に感じたのは、總持寺が全国に発展した、その一番の基礎をつくられたのは峨山禅師だったということです。ところが、曹洞宗の高祖道元禅師、また總持寺を開かれた太祖瑩山禅師については多くの本が出版されているのに対し、峨山禅師の本は実に少ない。『総持二祖峨山韶碩禅師』(田島柏堂、一九六五)及び『峨山韶碩禅師』(荒木剛、一九七〇)、『總持二祖峨山禅師』(佐藤悦成、一九九六)くらいしかありません。このうち一般の方を対象にしたものは荒木剛さんの本のみです。ですから、峨山禅師の業績を、できるだけ多くの方に知ってもらうために、分かりやすく書いた本を出したい、そう思ったわけです。
 荒木さんというのは、峨山禅師がお生まれになったのが能登の羽は 咋くい郡河合谷の瓜う 生りゅうという村、その近くの上河合というところにおいでた方で、昭和四十一年か二年ごろですが、石川県五学会連合研究発表会で峨山禅師についてお話をされたことがあります。そして昭和四十五年に右の本を出されたので、送って下さるようお願いしたところ、野々市市で荒木病院の院長をされていたご子息から本が届きました。「実は父が高齢と病気で床についているのですが、ご依頼の件を話したら、是非送るようにといわれました」という書状つきです。
 總持寺というのはずっと末寺が一万六千カ寺余りといわれておりました。それが平成十三年です、明治大学のいまは名誉教授の圭たま室むろ文雄先生が總持寺祖院においでて、二万点以上ある古文書を約十年詳細に調査され、平成二十年に『總持寺祖院古文書を読み解く』という本を出版されました。この本によりますと、天明五年(一七八五)には約一万八千カ寺の末寺があり、わが国最大の教団に発展していたといいます。
 この付近、とくに北陸はほとんど浄土真宗です。全国的には西本願寺派のほうが東本願寺派よりもちょっと多いでしょうか、それにしても西本願寺でも東本願寺でも末寺は約一万カ寺といわれている。いま總持寺、永平寺両方合わせて約一万五千カ寺、その九〇パーセントは總持寺の末寺だという、ですから今でも最大の教団といえますね。その基礎を築かれたのが峨山禅師で、あとでお話する五院制や輪番住職制度をつくられ、多くの弟子を育てた、本当に優秀な禅僧であり、指導者だったんです。

 大本山總持寺祖院

長き修行の旅終えて 師の修導をたすけつつ

 峨山禅師といいますと、まず思いつくのは求道心の強いお方だったということです。それは母親の影響ではなかったか。母は妙心大姉といいますが、なかなか子どもに恵まれなかったので、何とかよい男の子が生まれますようにと文殊菩薩に一生懸命にお祈りし、そして峨山禅師をお産みになったといわれています。そういう信仰心の篤い母のもとで育ち、禅師が十一歳のとき羽咋郡の教院(これは密教寺院と思います)へ入ったという話も伝わっている。十六歳になると比叡山延暦寺へ入り、修行と勉学に励みます。
 それから六年がすぎたころ、どうも天台宗では飽き足らないというか、そういう考えもあったと思うんですけれども、のちに總持寺を開かれる瑩山禅師が京都のあるお寺へおいでているという話を聞き、禅師のもとを訪ねた。そして禅師に、「いったい禅とはどういうことなのか。天台とどこが違うのか」と、いわば論戦ですね。論戦を挑んだのに対し、瑩山禅師は微笑をもって答えた、ただにこにこ微笑むだけであったという。
 これは峨山禅師が二十二歳のときです。瑩山禅師は何も答えなかったが、その態度に心を打たれ、そしてまた自分の修行、勉強が足りないということが分かって、比叡山へ戻り、さらに修行に励まれたといいます。その二年後、加賀の野々市の大乗寺においでた瑩山禅師のもとを訪ね、正式に瑩山禅師の門下にしてほしいと願いでて、快く受け入れてもらうことができた。はれてお弟子さんになったわけです。
 大乗寺で修行に明け暮れていたある日、瑩山禅師から「月が二つ(両個)あることを知っているか」と問われた。ところが峨山禅師には分からない。一つしかない月が二つあるとはどんな意味なのか、それを分かるために二年かかったといわれています。二年ほどたって峨山禅師二十六歳のとき、いつものように一心に座禅をしていると、瑩山禅師がそっと近づいてきてポンと、警策でしょうか、肩をたたかれたときに、ふっと分かったといいます。
 もちろん、どんなふうに悟ったのか、記録には残っていないんですけれども、私の考えでは、月が二つあるといわれた意味は、実際の月と、池なら池あるいは川なら川、あるいは自分の心に映る月という、この二つですね。目に見える月と、自分の心に感ずる月といったらいいでしょうか、これは私の解釈ですけれども。
 そうして勉学、修行に励んでいたものの、求道の人・峨山禅師です、まだ足らないといいますか、瑩山禅師にお願いして今度は諸国行脚の旅に出ます。日本各地を回って、曹洞宗の布教をしたり修行をしたり。そのときに五哲とか二十五哲というお弟子の方たちとの出会いがあったんじゃないかと思います。三年の諸国行脚ののち、また瑩山禅師のところへ戻り、正和二年(一三一三)、羽咋の永光寺を開かれた瑩山禅師を支え、伽藍の建立など骨身を惜しまず働きます。

 峨山禅師書跡(兵庫県永沢寺蔵)

總持のみ寺継ぎ給い み法栄えと祈らるる

 元亨元年(一三二一)、瑩山禅師は總持寺を開くことになりますが、それについては不思議な話が伝えられています。櫛比荘(いまの門前町)には諸岳寺という真言宗のお寺があった。住職は定賢律師といい、元亨元年四月十八日の夜、夢をみたという。観音様が夢枕に現われて「羽咋の酒井保の永光寺に、瑩山という立派な禅宗のお坊さんがいる。その瑩山様にこの諸岳寺を譲りなさい」という夢です。
 その五日後の四月二十三日早朝、永光寺の瑩山禅師が夢をみるんです。日が違うので私は不思議に思うんですけれども、「(いま總持寺のある)鳳至郡櫛比荘の諸岳寺の住職が寺を譲りたいと、そう言っているので譲ってもらうように」と。不思議な夢なので占ってもらうと、「このお寺は仏法の縁が充実した霊場である。自ら仏法を盛んにすれば、その名声は内外にあまねく広まるであろう」というお告げです。
 このお告げにしたがって、瑩山禅師は櫛比荘の諸岳寺へ入ることになった。そして、永光寺から六月八日においでた瑩山禅師と、お迎えに出た定賢律師とがばったり出会ったのが、總持寺の西方一・五キロの羯鼓林という峠といわれています。以上が、瑩山禅師自ら書かれた『總持寺中興縁起』の内容ですが、あの場所からみて、瑩山禅師は羽咋から船で鹿か 磯いその海岸に着かれたのではないかと考えます。
 そのときに峨山禅師も一緒に永光寺からおいでたんだと思います。また開創のときの言い伝えですけれども、元亨二年、後醍醐天皇から「總持寺は二つとないすばらしい寺院であるから、このたび曹洞宗の出世道場に任命する。紫衣を着て皇位の繁栄を祈願するように」という綸旨をいただいたという。そして瑩山禅師はわずか三年で峨山禅師に總持寺を譲られ、酒井保の永光寺へ隠居して、その翌年、正中二年(一三二五)に五十八歳で亡くなられたといわれています。
 總持寺についてはもう一つお話しておきたいことがあります。それは北方の和田山山頂にある坐禅石のことで、「両尊坐禅石」と刻まれた一メートルほどの石柱と、その横に開祖瑩山禅師と二祖峨山禅師が坐禅をしたと伝えられる、二つの大きな石が並んでいます。いまは周りに木が茂っていて眺望はよくないんですが、かつては總持寺や門前町、また西方には日本海が見えました。昭和三十年代でも、真下に總持寺祖院や八ケ川の平野を眺めることができたんですね。瑩山禅師と峨山禅師は、その坐禅石に並んで坐禅をされたこともあったと、私は思っています。
 宗教学者の山折哲雄氏は日本海に沈む夕日の美しさを称揚し、「日本人の海に対する信仰として、日本海の落日の美しさが、日本海沿岸に住む人々の心を揺さぶってきたのではないか。永平寺の山の禅に対して、總持寺は海の禅というとらえ方ができるのではないか」といわれたことがある。どういうことでしょう、私なりの受け取り方ですが、山の禅は厳しく海の禅はやさしいと、そういうことだけではないと思う。
 能登の海を考えましても、海には凪の日の静かな海と荒れ狂う厳しい海とがあります。穏やかなやさしい面と、荒れた厳しい面と両方ある。

 和田山山頂にある両尊坐禅石(手前、峨山禅師)

 それと海は広い、広い心を持つ。それは人間にも当てはまることです。山折先生の提言も、そういうことも考えた上でのものでしょう。それに、私が思うのは、總持寺は平野に位置しています。つまり周囲に、門前に住む人々に開かれた寺であり、山の禅に対しては、里の禅といえるのではないか。開かれた禅の寺として全国に展開することができたのではないか、私はそう思うんです。

諸嶽の峰に育ちたる 峨山禅師のみ弟子たち

 峨山禅師の人となりを示す第二点は、偉大な指導者、教育者であったことです。まず五人の優秀なお弟子さんを育てた、五哲といわれる人たちですね。太源宗真、通幻寂霊、無端祖環、大徹宗令、実峰良秀という五人のお弟子さんで、それぞれ總持寺の境内にお寺を開きます。五院といいますが、五哲の順にお寺をあげますと、普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、それに如意庵の五つです。五哲たちはそれぞれに門弟をもつと同時に、總持寺の境内だけでなく、全国各地に末寺をつくっていきます。
 さらに峨山禅師は二十五哲という、たくさんのお弟子さんを教育しました。無底良韶、順正蔵主、無際純證、無蔵浄韶、月泉良印など二十五人の俊才たちです。つまり、曹洞宗の根本道場として總持寺の名が高まり、峨山禅師を慕って各地からお弟子さんたちが集まった。このお弟子さんたちもまた各地に末寺をつくる、というふうにして總持寺が発展していったわけです。
 峨山禅師のすぐれた施策と思うんですが、總持寺発展に利したのが輪番住職制という、いまあげた五院の住職が交代で總持寺の住職を務めるという制度だったといえます。これは禅師の亡くなる二年前の「置文」によって定められました。「峨山韶碩の門下は、嗣法の次第をよく守り、五院の住職が住持すべきである。重要なことについては、相寄って協議すること」と、一部の人や派閥によって独占されないように、また重要事項は合議制で決めなさいということですね。
 以来この輪住制は明治三年(一八七〇)まで五〇四年間つづきました。一人の住職が何年務めるかは時期によって異なり、三年を一期とすることもあれば、半年あるいは三カ月一期、さらには一年を五人で交代するとか複雑な制度だったんですが、天正十五年(一五八七)の改革で任期一年、その一年を七十五日ずつ五院の住職が交代で本山の住職になる、と決められた。ですから、瑩山禅師から数えて明治初年の大仙和尚は何と四万九七六六世になります。
 年一回の住職の交代は最初、峨山禅師の忌日の旧暦十月二十日でしたが、これはもう輪島では雪の季節になりますから、瑩山禅師の忌日八月十五日に変えられた。そして輪住の務めを無事に終えた祝宴で歌われたのが「とどろ節」というものでした。室町時代初期から歌い継がれてきた古い民謡で、輪島市無形民俗文化財ですので、ご紹介しておきます。

 めでためでたの若松さまよ 枝も栄えるハア葉も茂る
  (合唱)枝も栄える葉も茂る 善哉、善哉
 能登の門前すじかい橋を  死なぬ一期にハア渡りたい
  (合唱)死なぬ一期に渡りたい 善哉、善哉
 とどろとどろに上堂の太鼓  鳴って続いたハア緋の衣
  (合唱)鳴って続いた緋の衣 善哉、善哉
 ひびく鐘の音千歳にこめて 町の誇りをハア寺で持つ
  (合唱)町の誇りを寺で持つ 善哉、善哉


国のはてまで永遠に 弘むる基いとなり給う

 もう一つ、峨山禅師の偉大なところをあげますと、非常な健脚であったこと。禅師は總持寺と酒井保の永光寺と、両寺の住職を兼ねていたことがある、六十五歳のときです。この二つのお寺の間の距離が十三里(約五十二q)とも十五里(約六十q)ともいわれていました。しかも平坦な道ではない、山あり谷ありの道です。禅師は永光寺で早朝三時ごろお勤めを済まされると、この六十キロ近くの道を駆け抜けるようにしておいでて、昼ごろには總持寺へ着かれてお勤めをされたという。この道はいま峨山道と呼ばれ、この道を歩くことを峨山越といわれる。
 以前、NHKで比叡山の千日回峰行を取材放映したことがあります。このとき、千日回峰行に挑まれたのは五十三歳の酒井雄哉師でしたが、七年間で毎年日を決めて計千日の荒行に耐えるんですね。回峰行の間、毎日午前零時に境内の二つの滝で身を清めた後、一時間のお勤めをして、午前一時半、自坊を出発、四十キロの道のりを途中二六〇カ所の礼拝所で礼拝を行いながら、午前九時半、自坊に戻るとすぐ本堂へ入って一時間、昼のお勤めをする。この行の間は毎日の睡眠時間三、四時間、一日二食の粗末な精進料理です。このときの記録はこの番組のディレクター和崎信哉さんが本にまとめています。
 私は初め、峨山禅師が早朝出発して六十キロ近くの道のりを昼までに走破するとは、そんなことができるか疑問に思っていましたが、現代につづく回峰行を考え、禅師が若いころに比叡山で修行したことを思い合せると、右の伝承は本当だといってよいでしょうね。それに禅師は体格もよくて、六尺近い身長があったという。約一八〇センチです。その禅師が九十一歳まで、当時としては大変な長寿で、求道の生涯を全うされ、わが国最大の教団となる總持寺の基礎を築かれた、と私は思っています。私は門前町主催の峨山道巡行に、昨年で四十五回円成しています。
 最後に、私の『峨山禅師物語』について、お話したいことがあります。この本は平成十四年、道元禅師七五〇回大遠忌の年に北國新聞社から出版したんですが、このとき当時總持寺祖院の監院をされておいでた江川辰三禅師に序文をお願いしたところ、快くお引き受け下さいました。そして峨山禅師の六五〇回大遠忌(平成二十七年)を三年後にひかえた一昨年の五月でしたか、大本山總持寺の出版室長をされている山口正章様(布教教化部長)から連絡があり、大遠忌の記念事業の一つとしてこの本を復刊して下さるという。
 大遠忌は五十年に一度の大きな行事でありますし、それだけでも感激いたしましたが、さらに再版にはかつての江川監院老師に、曹洞宗大本山總持寺貫首として序文をいただくことができたという、感激の極みです。また山口布教教化部長にも「再発刊に寄せて」という前書きをいただき、身に余る光栄と思っています。そして表紙を変えたり、口絵も少し変えたり、本文も加筆し昨年三月、大本山總持寺出版部刊行の本として世に出ることになった。『峨山禅師物語』の不思議なご縁の話として付け加えておきます。

(談)

(小見出しは峨山禅師讃歌より引用)

 總持寺祖院経蔵(石川県指定文化財)