シリーズ第五章 行持報恩
道元禅師のみ教え
『修証義』
曹洞宗総合研究センター(宗研)特別研究員 丸山劫外
大本山永平寺
第三十節
光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり、然あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。
◆訳◆
時の過ぎゆくのは矢よりもはやく、人の命は朝露よりもはかないものだ。過ぎてしまった一日を再び取り戻せるような、いかなる勝れた手段もありはしない。正法に目覚めないで百年生きたとしたら、残念というべき時の送り方であるし、悲しむべき身体のありようである。たとえ、百年の間は、感覚的なことに振り回されきって生きたとしても、そのうちの一日でも、真剣に仏道修行したならば、百歳の一生を取り戻すだけではなく、次の百歳の生までも、救うことができるほどなのである。(であるから)この一日の生命は、尊ぶべき生命なのであり、尊ぶべき身体なのである。この仏道を行ずることのできる身心を、自ら愛するのがよいし、自らも敬うのがよいのである。私たちが仏道修行を行うところに、諸仏の修行が現れるのであり、諸仏の大道が行き渡るのである。そうであるから、(たとえ)一日の修行であっても、これこそ、諸仏の種となり、諸仏の修行がたもたれていることになるのである。
第三十一節
謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。
◆訳◆
よく諸仏というが、それは釈迦牟尼仏のことなのである。釈迦牟尼仏とは即心是仏(宇宙の命の根源そのものが仏)のことをいうのである。過去現在未来の諸仏が、仏となるときには、必ず釈迦牟尼仏と同じになるのである。これが宇宙の命の根源そのものが仏ということなのである。即心是仏とは、誰のことかということを、身を以てよくよく深くきわめて明らかにしなくてはならない。これこそが仏恩に報いることになるのである。
大本山總持寺
解説
一日の修行でも諸仏の種となる ともかく身を以て仏道修行を
今回で、『修証義』解説の最後になります。『修証義』が私たちに伝えたい究極のメッセージは、「仏」についての教えにつきるといえましょう。仏は遙か彼方に拝むものなのでしょうか。
それぞれの人生、ほとんどの方は、一生懸命生きてきた、とおっしゃるのではないでしょうか。それをいたずらに百歳生きても惜しいし悲しい、と言われたとしたら、猛反発をなさるでしょう。しかし、この「徒に」という意味は単にボーッと生きた年月を道元禅師がおっしゃっているのではなく、単にこの身を喜ばすことに夢中で、お金儲けやら仕事のことしか考えなかったり、グルメとかいっておいしいものを食べ歩くことだけに夢中になったり等々、これが「声色の奴婢」の意味ですが、とにかくこの命がこの世にあることの真実に思い至らないで生きることをさしています。
お寺のことは、もう少し年をとってからでいいよ、という方に時々会います。一応その方も、命が終わりになるころには、多少仏心を起こしたいと思っているのかもしれません。しかし、「光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し」です。この無常をしみじみと思えたなら、あなたは本当に幸運とさえいえるのではないでしょうか。物質的に恵まれてもそれは幸運とは決していえません。たまたまの巡り会わせの状況にしかすぎません。たとえ、一生懸命働いた結果だとしても、巡り会わせにすぎません。 真の幸運は「光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し」、このことが心底思えた時です。しかし、思えていない人に思え、思えと言っても、これも空しいことです。そう思えるには、どうしたらよいでしょう。
とにかくこの身を以て仏道修行をいたしましょう。お寺の門をたたいて、坐禅修行ができれば、まことに最高のチャンスです。近くにお寺がなければ、永平寺でも總持寺でも常に坐禅希望者を受け入れてくれますし、女性ならば愛知専門尼僧堂、富山専門尼僧堂という僧堂があります。
大本山永平寺
人の営みは仏の世界の起き伏し この命も仏の現れよう
さて、お釈迦様がなぜ諸仏という複数なのでしょうか。もろもろの仏、菩薩も含め、一切お釈迦様の教えから生まれている教えそのものだからといってよいでしょうか。さらにこの世に実際にお生まれくださった釈迦牟尼仏は、釈迦牟尼仏という個人崇拝を超越して法そのもの、教えそのものを意味しています。即心是仏という表現をよく耳にしますが、この「心」は千々に乱れるわが心、などといいますが、その心ではありませんからご注意ください。この乱れてる心が仏なのか、と解釈されますととんでもないことです。この「心」は「宇宙の命の根源そのもの」という訳をとっておきましょうか。「万物を存在あらしめているおおいなるエネルギー」といってもよいでしょう。あなたも私も心を持っているという表現がありますが、感情と「心」を取り違えないようにしましょう。私が私あらしめられているのは、この「心」のお蔭、あなたがあなたあらしめられているのは、この「心」のお蔭、これを仏教(釈尊の教え)では「仏」というのです。
私の師匠は「無限の命がこの有限の命に現出しているのだ」と、よくおっしゃいました。この有限の人間、いや、人間のみならず猫や犬や鳥や草でさえ、無限の命のあらわれであり、この世に現出した命無くして、無限は現れようがないとさえいえましょう。
道元禅師は『正法眼蔵』の中で「遍界の弥露は夢なり」とおっしゃっています。遍き世界に現れた全てのことは夢である、という意味ですが、この夢は、単にはかない夢という意味ではなく、道元禅師は「夢中」とは「仏国土」なりといわれています。
人間の営みも、仏の世界での起き伏しであり、この命も仏の現れようなのです。そのことに気が付かないでうかうかと生きてしまうことを、「徒に」生きるというのです。
キリスト教では、「この命は神がお造りになった命」といいます。仏教では「この命は仏の命そのもの」と表現させていただきましょうか。
人間であられたお釈迦様を仏として拝むことは、勿論のことです。そして「ほとけの命そのもの」であると、わが命を実感することができたとき、本当に釈迦牟尼仏の教えに対して、恩に報いることができたといえるのです。
私のお寺の檀家さんの一人に、子どもの頃から大変苦労なさった方がいます。今では悠々とお暮しですが、先日しみじみとこう言われました。「生かされているんだなあ」と。九十歳近い高齢でも、この人が凛として生きているのは、根底にこの自覚があるからだと思いました。自ずと自分の生活だけではなく、人助けもいろいろとなさっています。
こういう生き方がしたいではありませんか。それでこそ、それこそしみじみとこの命を幸運と思える生き方ができるのです。
しつこいようですが、頭で考えただけでは、心からの自覚はできません。身を持って行じてください。坐禅! それができればベストです。「南無釈迦牟尼仏」とお唱えくださるのもそれもよしです。心静かに手を合わせるのもそれもよしです。
「光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し」。お迎えの時を伸ばすことは誰にもできないことなのです。実はこの世が夢なのか、それを話す時間はもうありません。お互いに、しみじみとした日送り、命への感謝を持って日送りができますように祈ってやみません。
長い間のおつきあいまことに有難うございました。なにがあっても挫けずに、手を合わせつつあの世まで。皆さん、どうぞ御機嫌よう。
大本山總持寺