はなし家修業は
人間修業


桂文珍
(かつら ぶんちん)

1948年、兵庫県篠山市生まれ。
69年、大学在学中に5代目桂文枝に入門。
上方落語界を代表する一人。時代の波を鋭くキャッチするセンスを持ちながら、知性と庶民性をほどよく融合させたキャラクターは文珍師匠ならでは。古典はもちろん、常に時代を切り取った新作も高い評価を得ている。
2008年4月には「なんばグランド花月」にて前人未到の10日間連続独演会を開催。2007年10月から2012年に至るまで47都道府県全国独演会ツアーを3回実施、2010年6月には東京国立劇場にて落語家初の10日間連続独演会を連日満員の内に成功させ、秋の叙勲にて紫綬褒章を受章。
2014年4月からは「桂文珍 独演会JAPAN TOUR.一期一笑.」と題し、ネバーエンディングツアーを開始、全国に笑いの華を咲かせている。
他、主な受賞歴は上方お笑い大賞、日本放送演芸大賞、芸術選奨文部科学大臣賞等。

■DVD・CD
[DVD]桂文珍10夜連続独演会@〜I 
桂文珍大東京独演会@〜I
以上よしもとR&Cより発売中
[ CD ] ソニーミュージック・桂文珍シリーズ@〜S

■著書
『落語的ニッポンのすすめ』『落語的笑いのすすめ』
『落語的学問のすゝめ』『文珍の学問のすゝめ』
『文珍の歴史人物おもしろ噺 ご教訓付』など


人の語る芸ですから、その人柄みたいなのが最後には出ます。
だから、芸を作る前に人間ができていないと具合悪いですな。


祖母とお寺と和尚さんと

 私の実家(兵庫県篠山市)は江戸時代からの家ですんで、古いんですよ。よくありがちな戦後の農地改革で貧乏になった、凋落していった地主というやつで、それのうちの一人ですな。そこの長男ですが、職種を変更してこんな仕事になったんですけど、まあまあ縁があって、これもそうなったんですから、そこを極めていかな仕方ないなちゅうか、それが楽しみというか、そんなのでやらしてもろうとるんですけどね。
 お寺には小さい頃から祖母に連れられて、先祖代々のお墓もございますから、そこへお参りさせていただくような、そんな感じですな。豊林寺さんという真言宗のお寺で、田舎では檀家がお寺を管理するのはなかなか難しいんですけれど、人口も減り檀家の数も減ってますけど、お堂を皆で造りましてね、一時、住職さんらが出て行かれたのですが、またそこに住んでいただけることになりました。子どもさんらも皆、そこで生活をしながら学校へ通うという、そんなことがあって、私はそのお寺の古いほうの時によく祖母とまいりまして、折々の行事に連れて行ってもらったもんです。
 何か数珠繰りみたいのがありましてね、大きい数珠を念仏唱えながら回していくやつですわ。輪になって、地蔵盆のようなもんです。ああいう時に、早くこれが終わったらいいな、おやつもらえるなと、子供はそんなもんですよ。で、面白かったのは、やっぱり退屈なもんですからね、子供は意味が分からんでも、お寺の本堂の上に掛けてある地獄絵図とか、三途の川とかね、そういうものをぼおっとよう眺めてましたなあ。今の和尚さんに、確かここに絵掛かってたやろ言うても、それは若い坊さんやから分からへんけど、檀家の人のほうは皆よう覚えてはりますな。そんなもんなんでしょう、きっと。
 今の和尚さんは小学校行く前から知ってるんですね。その子が今そこの住職になって、それで説教してくれはるんですけど、法事のたんびにしゃべってくれはるんやけど、照れてますな。そら、こんな小さい時から知ってるから、和尚さんになって一生懸命勉強してはるんやろうけれども、まあ、話をするのは節談説教みたいな世界もございますから、それはもうお手のものなんでしょう。話上手な人は聞くのも上手といいます、それで上手に聞かしていただいてるちゅうか、だいぶうまくなったなとか、にやっと笑いながら聞いてるような、そんな感じですな。向こうもやりにくいと思いますけど。
 この年になると、人のお弔いに行くことも多くて法話を聞く機会も多いんですけど、それはもう短くなさったらええのに、長々と説教を始める。何か水を得た魚のようにわあっとやりだして、おいおいとか思いながら聞いてます。ただ、やはり長い歴史のある宗派さんというのは、それだけの年月がたっておりますから、真実に近いところもございましょうし、それはまた真実であったりもするでしょうし、それから檀家の皆さんや、お参りなさった皆さんの祈りが集積されてるような、そんな感じは受けますね。
 今も時々はお参りにまいりますけど、彼岸の時など大体仕事が忙しいんで、そういう時はきょうだいがやってくれたり、和尚さんに来ていただいてやったりという、伝統的に何を疑うわけでもなく、普通にやってますな、それは。どこでもお参りすればちゃんと手を合わすみたいなことは、日常的にやってます。それはやっぱり冒頭申し上げたように、祖母に、やれ今日はお釈迦さんの日やでとかいわれて一緒にお参りした、そういうことの影響かなと思ったりもするんですけどね。

 地獄絵図

祖院とは二十年越しのお付合い

 私は家があっちゃこっちゃにございまして、祖院の總持寺さんにほど近い門前町なんですけど、あこにも家を建てて、何年になるかな、二十二年ほどになりますね。何でご縁があったかということなんですけど、もともとはあそこは陸続きの北海道的な要素があり、自然が残っていた。それから、人さんが穏やかな人が多くて、ちょっと山の上へあがって行ったところですけど、たまたま売り出していたのが、その名もまんだら村という。そこに輪島塗の職人さんやら、商事会社をリタイヤなさった方やら、さまざまな人が別荘持ちはったりというようなことで。
 年に何日かは能登におりますね。毎年そこで、うちの庭にお客さん集まっていただいて落語会をやったり、祖院の若い修行僧が毎年来てますわ。何で坊さんだって分かるかというと、寒いもんですから頭にタオル巻いて座ってはるんですよ、だからすぐ分かる。頭から冷えるんやろな思って見てるんですけど、修行僧とはいえ若者ですから、寝たばこして火事を出したり、それはもう大変なんですよ。私らも年齢的に管理する側やから、大丈夫か君みたいな、そんな関係で、祖院にはしょっちゅう行ってます。監院さんや皆さん、よく存じ上げてるんです。
 總持寺では毎年、お釈迦さんの涅槃会のあと「いんのこまき」という、何か犬の子を撒くみたいなね、小さいお餅みたいなのをぱあっとお参りに来てはる人にまきはる。昔からの行事でやってるんや思いますけど、それを「いんのこまき」というてはるんです。雪の深い寒い日に、それでお邪魔したようなこともありましたなあ。その時にたまたまタイミングが合いましてね。
 びっくりしたのは、私どもの師匠は先代の文枝なんですが、その師匠を祀っていただいてるお寺さん、阿倍野の安倍晴明神社の裏側にある印山寺というお寺ですけど、それが曹洞宗とは知らずにいたんですね。そこの和尚さんと檀家の皆さんと一緒にバスツアーか何かで行きはった時の写真を見たら、それが總持寺の祖院やったから、ええっと思って。何やごくごく近いところにうろうろしてはるなというか、俺がうろうろしてるのかとか思いながらね。
 能登半島地震(二〇〇七年)ではもちろん、えらい目に遭うたんですけど。うちの家から一番景色のいいところが震源地だったもんですから、美しいものというのはなかなか、危ない。大人になっていくということは、そういう両面を認めざるを得ないということですね。能登の海を眺めながら、穏やかな海もあれば、非常に激しく荒れる日本海の時もあります。そういう荒くれるものと、止水明鏡といいますか、そういうものとが混在しながら前へ進まざるを得ないのやな、てなことを最近とみに思う年頃になりましたね。それはそんなもんでしょう。

修業で大事なのは読み取る力

 そうですね、私どもの世界は、いわば師弟関係の中で成立してるんですけど、最初師匠に入門をしますと、芸もさることながら、日常にぴったりと寄り添うわけですよ。師匠が今何を求めておるのかというようなことを、空気を読み取る力といいますか、目を後ろにも持ってるような神経の行きとどき具合というか、芸のみならず、そういうものが主ですね。ですから、それができない子は途中でやっぱり駄目です。
 そんなことが何の役に立つのかということですけど、実は仕事をし始めますと、今お客さまのお求めになってるものはどの辺なのかと、読み取る力ですね。ぼくはいつも、読み取り、合わせ、引っ張りっていう、三段階といってるんですけど、最初に読み取って、そのお客さんのお好みに合わせ、間尺から内容から合わせて、それで最後は自分はこう思ってるんですよというところまで持って行く。そういう三つの段階をできるのがとても大事で、その基本の基本みたいなことを修業中に学ぶんです。
 たとえば師匠の着てる服を見て、今日は黒の革靴が要るなとか、茶色やなとかいうのをぱっと見抜いて、さっとそれを用意して磨いて、ぴかぴかのを出して、履きやすい状態にしておきます。ぴゅっと並べて置くと、歳行ってますから足がぐらつきますから、ちょっと間を空けて履きやすいようにするとか。今日は黒やなと思ってたら、途中で師匠がまた奧へ入って着替えてしまって、今度は茶色や、裏切られたなとか思いながら、そういうことが自分の中で楽しみながらできるようになると、弟子としては一応の一回目のハードルを越えたというか、そんなことですな。
 そのうちに稽古も始まったりするんですけれど、やっぱり観察力というのはとても大事ですね。周りといかにうまくやっていくかとか、そういうことかな。それと、笑いはユーモリストですからね。一つの考え方だけでなしに、違う考え方があるんだということを、多様性を認めるというような、そういう神経がどこかで育まれるといいますか。面白いなそれは、というようなことを楽しむという、そういうことですかね。
 稽古については、一生つけてくれはらへん師匠もあるんですよ、学びなさいといってね。そういう子のほうが伸びることもありますし、一から百、千まできちっと教えてあげて伸びる子もある。捨て育ちのほうがその個性がぐわあっと伸びる子もありますから、百人いれば百人顔が違うように、みんな違うんです。それで、この子でうまいこと行ったから、そのノウハウをこっちでやろうと思っても駄目なんですね。おだてると良くなる子とか、叱られないと分からん子とか、いろんなタイプがいますんで一概に言えない。その人の持っているものをどう引き伸ばすかということに重点を置く師匠もいらっしゃいます。
 うちの師匠(五代目文枝)は七十幾つで亡くなって、もう九年になりますか、今やったら八十幾つでしょう。入門した時は小文枝で、後に文枝になったんですけど、当時は師匠もまだ若かった、四十代でしたから、それは厳しかったですね。ただ基本的には面白い人でした。何かまじめなようで、どこか抜けていたり、そういうところが今となっては懐かしくもあり、思いますな。不器用な人でしたんで。



芸はその人の人柄がにじみ出るもの

 今は社会性が求められる時代になってまいりまして、昔はちょっとはみ出した人でも、芸人やからええがなっていうところがあったんですね。それが世の中、大変シビアーになって、非常にまじめになってきた、それがいいのか悪いのか私には分からないんですが。ただ、それより以前のことで、社会がどう変わろうが人としてそれは違うんじゃないのという、芸人である前に人として駄目でしょうというのは皆やめさしますね。つまり、それは具合悪いわっていうやつですな。それ以外の失敗は、見方を変えれば面白いなとか、そういうようなことがありますから。
 今の人は易きに流れるんです、楽なところのほうへ入門していきます。そんなやつがうまくなるわけないし、そういう打算的な人は当初はええように見えるんですけど、長い目で見ると、そういう子が皆駄目になっていく、途中で消えます。ほっとっても消えます。だから、どこのお弟子さんっていって、答えを聞いたらもう、ああ、はいはいというような感じになりますね。この子は楽なほうへ、楽なほうへセレクトしていってるなと。つまり、仏教の世界もそうでしょうけど、勉強すればするほど難しくなって、ハードルが高くなって、壁が見えてくるようになります。
 そうなればええんですけど、それを楽なほうへ、低いほうへ流れる子は持たないです。それぐらい厳しい世界ですね。やっぱり最終的に、芸もさることながら、人が語っている芸ですから、その人柄みたいなのが最後には出ます。それがまやかしの芸なのか、本当ににじみ出てくるような、そういう世界なのかということ。だから、芸を作る前に人間ができてないとやっぱり具合悪いし、それで積み重ねていく以外にないというか、そんな簡単には、一朝一夕にはできない。だから時間かかりますわ。
 それと、私ども今の楽しみはというと、私が描いた世界をお客さまが共有なさって一体化する時が一番面白い。そういうふうな場をできるだけ多く持ちたいと思って、独演会でいろんなところへ、全国各地へお邪魔したりしているんです。私今六十五ですが、もうちょっと寿命が欲しい感じがしますね。それは体力もさることながら気力といいますか、あと三十年ぐらい、百歳ぐらいまで行けたら面白いと思うんですけど。
 というのは、この年になってやりたいものがいろいろ出てくるんです。若い時に面白いと思った噺が、今はもう別に面白くないなとか、そんな噺できないと思ってたのが、おお、こんなのが面白いとか、新発見をするんです。その発見をするのがまた面白いというか、話してみて、おお、やっぱりお客さんも面白いと思いはんのやという、そういうことが面白い。そうでないと、だれますからね。ぼくは飽き性だし、だれ性なんですけど、唯一そこを飛び越えられるのは、おお、という発見をすることで何か青春を取り戻したような気がして、面白いなこれはと、急にまた元気が出たりするもんですね。だから、年齢にうまく合うような、噺も何もかもがそろうと、条件が合えば面白がれるんです。
 それは古くは『今昔物語』あたりまで行ってしまうんですけど、その頃に面白いと思った噺が、今の時代も十分通じる。ただ表現の方法が違うとか、伝達方法が違うというようなことで、根本的にはあまり変わってない。ということは、人はそれほど変わってないんですが、取り巻く科学技術やらテクノロジーがものすごいテンポで進んでますから、その間で溺れそうになっている人たちがいらっしゃるんですね。

本当に必要なものとは何か

 それをもう少し落着いて穏やかに、よく見てください、要らないものだらけですねということ。つまり数とか量が多いのがベストだという時代が長い間あって、今はもうそれはいいと、それよりも精神性が高いとか、気持ちがいいとか居心地がいいとか、そういうもので豊かさを共有できる時代になっているんです。そういうものを求める時代にすうっと変わってるのに、まだそこのテクノロジーの進歩との間で溺れそうになっているのを見ると、また溺れているのを見ると、気の毒に思いますね。
 よく考えたらそれは要らんなと、この年になったから思うのか、何かちょいちょい思いますな。これ要らんのんちゃうかとか思う。人を幸せにしてくれるような、便利な道具はいいんですけど、その道具に振り回されたり、今までは道具だけだったのに、今度は何かインターネットができてからはバーチャルなものに実体があるかのごとくやってる。それは何とかハッピーになろうということでしょうけど、インターネットには悪意のあるものもありますから、それをふるい分けなければいけないというのは気の毒ですな。
 つまり、そっちの進歩が激しくて、倫理観とか価値観とか法的整備とかいうものが遅れて、ついて行ってないんです。それで、いつも何か失敗があってから、慌てて法律作るみたいな現実ですもんね。前もってそれを言うてると変人扱いされたりしましょう。まあでも、田舎の亡くなった祖母なんかのことを考えてみると、そういうものを遠巻きに見てますな、やっぱり。飛び付かないですね。冷静に見て、本当にこれは自分に必要なものだろうかというようなことをまず考える。
 昔の人はそれができたんですね、嗅覚もええし、動物的な勘が働いたのかな。人間には進化してる部分と、逆に劣化しているところと両方あって、最近の人はインターネットとかスマホで調べ物はばっとできるんですけど、深く考えてないとか、その知識を得るためには、ちょっと体を使って調べたほうが面白いということが分からない。ちょっと問題やなと思ってはおるんですけどね。まあまあ年ですわ、そんなことを思うのも。
 最後に、今回お話をするきっかけとなった、高校の時の同級生で声楽家の平和(孝嗣)君のことにちょっと触れておきましょう。彼の実家のお寺(兵庫県篠山市・琴松寺)が曹洞宗だったことは今度初めて知りました。というのは彼のエリアと私どもの実家は離れていて、そのお寺を訪ねたことがなかったんですね。ぼくは音楽部の部長をやってたんですけど、彼は非常にいい声をしてまして、合唱団でバリトンだったか、バスやったか、うたってくれました。聞いたら、お寺さんの息子やいうて、ああそれは、あの声でお経上げてくれたらええなと思ったようなことがございました。
 彼はその後、音楽の道に進んで東京芸術大学へ入り、それから国費でオーストリアへ留学して、帰国後は声楽家として、また熊本大学の教授を長い間務め、今年定年になりましたかな。もともとそういう音楽の家の生まれでないし、田舎のことですからピアノが家になかったんですね。だから、学校のクラブで使っているピアノでずっと練習して独学で勉強したという、そういう努力家だった。
 その彼がピアノの稽古をするというんで、平和君だけにそんなクラブのピアノを独占させてよいものかというような意見が、部長の私にあってね、まあ意見は意見として聞きますけど、彼にはそういう背景があり、そういう道がはっきりしてるということも分かってるんだから、いいんじゃないの、それぐらいみんなで応援しようよ、というようなことを話したことがありますね。何か懐かしいですな。ついこの間のように思いますけど、随分たちました。

 (二〇一四・三・二六、大阪・なんばグランド花月にて)