舎利礼文

曹洞宗総合研究センター特別研究員 丸山劫外


訓読

一心に、万徳円満なる釈迦如来の真身舎利と、本地の法身と、法界の塔婆に頂礼したてまつる。我等が礼敬したてまつれば、我が為に身を現し、入我我入す。仏の加持が故に、我は菩提を証し、仏の神力を以て、衆生を利益す。菩提心を発し、菩薩行を修し、同じく円寂に入る。平等なる大智に、今将に頂礼したてまつる。



 あらゆる徳を完全に具足なさった釈迦如来の舎利(遺骨)、そして本地の法身(真理そのもの)と、法の智体(真理のあらわれ)を象徴している塔婆に、一心に額ずき最上の礼をもって礼拝を捧げます。このように私たちが礼拝恭敬しましたら、私のために(仏が)姿を現して、私と一体になり、私をして仏に入らしめてくださるのです。
 仏の加持力によって、私は無上の正覚(正しい覚り)を証得させていただき、仏の神通力によって、衆生を利益するのです。(仏の神通力のお蔭で)私は菩提心をおこし、菩薩行を修め、仏とともに同じく円寂に入らせていただくのです。平等なる大智である仏に、今まさに私は最上の礼拝を捧げるのです。


解説

 このお経の作者は、不空三蔵説や、弘法大師説もあります。私も『舎利礼文』については論文を書いたことがありますが、おそらく真言密教系の日本の僧であろう、と推察しています。「入我我入」という文言は、密教における三種秘観の一つとされる、入我我入観に基づいています。弘法大師がお書きになった『秘蔵記』には「本尊の三密(身口意)と吾が三業(身口意)とが入我我入すると観じること」と書かれています。一心に釈迦如来を信仰礼拝し、お説きになった真理を礼拝し、真理を象徴している塔婆(卒塔婆)を礼拝すれば、「仏と一体の境地になる」ことができるというのが入我我入観です。これは、道元禅師が『正法眼蔵』「生死」巻で、「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて…(略)…生死をはなれ仏となる」と、お書きになっていますが、「仏のいえに投げ入れる」ことは「我入」で、「仏のかたよりおこなわれる」は「入我」と通じるところがあると、私は思います。
 仏の前に謙虚に、一心に、自らを投げ出して礼拝するとき、そこに信仰があり、そこから信仰が生まれる、とさえ言えるのではないでしょうか。
 仏教は、禅も、決して哲学ではなく、真理への信仰、それをお教えくださる仏祖(釈尊ばかりではなく祖師がた)に対しての、謙虚なる信仰からはじまるといえましょう。
 真理はけっして釈尊が造りだしたものではありません。
 大智禅師という室町時代の禅僧が書いた「仏成道」という偈頌の中に、「道始成」の三文字があります。これを一般的には「道始めて成ず」と読まれてきましたが、私の師は「道始めより成ず」と読み下しています。真理はすでに厳然として成じているのを、人間釈尊は、難行苦行の末にそれを悟って、それをお説きくださった覚者です。
 釈尊の舎利は、はじめ八分割されてインドの各地にまつられていました。その後、変遷を経て日本にも、名古屋の日泰寺などに、本物の仏舎利がもたらされています。
 釈尊の舎利を礼拝する舎利信仰は、中国においては、唐代・宋代に盛んに行われました。日本においても、すでに聖徳太子の時代にもありました。しかし、この舎利は正真正銘の釈尊のお遺骨だけではなく、高僧の不思議な神通力ででてきたとされる宝石や、また実際の舎利を納めた仏塔で祈った宝石なども舎利とされています。かつて中国の阿育王寺にお参りした時、仏舎利をまつっているというので、長い行列に並んでやっと仏舎利を拝ませていただきましたが、それは「水晶」でした。
 素晴らしい仏像を観たり、舎利を観たりするだけでは、信仰のあらわれとはいえませんが、舎利やそれを納めた仏舎利塔の前で、一心に礼拝するところに釈尊への帰依を表すことができるのです。日本の仏教寺院では、額づいて五体投地のお拝をしている参拝者の姿をほとんど見かけませんが、中国でも韓国でも、仏教寺院では、在家の信者の方々は、ほとんど五体投地の礼拝を捧げている姿をよくみかけます。

 東京都稲城市にある読売ランド仏舎利塔

 『舎利礼文』は、菩提心をおこし、菩薩行を行じることができるのも、大いなる仏の加持力や神力に対して、身を以てひれ伏すことによるのであることを、端的に示してくれているお経です。『舎利礼文』を読誦するだけではなく、礼拝に導かれていかなくては、実行を伴わない絵に描いた餅になってしまいます。
 仏の御命のあらわれであるこの身を、それを教えてくださった仏の御前に感謝の礼拝を捧げるとき、自らも救われ、他をもともに救われる仏国土が現出することを、このお経は教えてくれているといえましょう。
 因みに、この仏舎利をまつった仏塔信仰から、日本における五輪塔や板塔婆が建てられるようになりました。五輪塔も板塔婆も、宇宙の構成要素(地水火風空)を表し、板塔婆は、裏には大日如来の梵字が書かれたりします。この板塔婆一本に宇宙を表し、先祖への供養の気持ちを形に表すことにつかわれています。

 塔婆が多く建てられているお墓

 『舎利礼文』は、道元禅師を荼毘に付した後、懐奘禅師等がこれを誦したという伝承から、曹洞宗でも大事にされているお経です。坐禅は紛れもなく大事な行ですが、五体投地の礼拝行も、身を以て修行するとき、本当に仏に対しての信仰の心を頂くことができます。
 誦する功徳も無いとは言えませんが、行じる功徳は本当に大きいです。本年も苦しいことがあっても、仏の御前に礼拝しつつ乗り越えさせていただき、清々しい経験の積み重なる一年でありますように。