正月特集
内山節教授との一時間

不安時代きる
シェアハウスやパワースポット・ブームにみる若者たちの信仰心


内山 節(うちやま・たかし)

1950年、東京生まれ。哲学者。
『労働過程論ノート』(一九七六年、田畑書店)で哲学・評論界に登場。
1970年代から東京と群馬県上野村を往復して暮らす。
趣味の釣りをとおして、川、山と村、そこでの労働のあり方についての論考を展開、『山里の釣りから』(1980年、日本経済評論社)に平明な文体で結実する。
そこでの自然哲学や時間論、森と人間の営みの考察が『自然と人間の哲学』(1988年、岩波書店)『時間についての十二章』(1993年、同)『森にかよう道』(1994年、新潮社)などで展開された。
近著として『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)『ローカリズム原論』(農文協)『新・幸福論』(新潮社)などがある。
NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集長。
「東北農家の会」「九州農家の会」などで講師を務める。
2010年四月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授。


現代人が不安になる三つの理由

――「不安」といいますと、いつの時代でも人間が生きる上での大きなテーマなのでしょうが、今また私たちの周りに漂っている感があるのですが。

 そうですね、現代の私たちが感じている不安には、三つぐらいの理由があると思うんです。一つは非常に現実的な問題ですけれども、これまでいろいろやってきて、そのやり方がうまくいかなくなってきたということから来る不安です。例えば経済もそうですけれども、もう一度経済成長をといっても、もうその基盤がないといいますか、それは働くという場合でも、今大学新卒で大体二五パーセントが非正規雇用になりますので、若い人たちにはそういう昔のような意味での正規の仕事がない。あるいは、若い人たちは年金制度なんかも破綻していくだろうと思っている人のほうが多いでしょう。今までの路線でうまくやっていこうと考えても、その基盤がなくなってきた。では、どう切り替えたらいいのか、それがよく分からない。そこから来る現実的な不安というのが一つあると思うんですね。
 もう一つ、これはヨーロッパで近代社会が形成されたころから言われてきたことでもあったんですけれども、近代社会というのは個人の社会をつくってきた。個人として生きるが故に発生する不安といいますか、人間はそんなに強い動物ではないですから、一人になってしまうと、自分の身を守ることで汲々としてしまう。ところが、自分の身を守ろうとしても、ある意味で守り切れない。そういう不安定なままに生きていかなければいけなくなったという、近代的個人の形成が実は不安な人間を生み出した。この問題は今もなお変わらない。ただ、経済事情なんかがいいと、一瞬それを忘れます。ところが、ちょっと経済事情が不安定になってくると、近代人の持っていた個人の不安みたいなものがもう一度出てくる。そういう問題が一つあると思うんです。
 三つ目は宗教とか信仰という問題です。近代という社会は、社会理論の中から宗教とか信仰を抜いてきたんですね。旧時代は信仰というものが社会理論の中に入っていた、それが近代になってくると、信仰は個人の問題ということになります。もちろん、中世ヨーロッパのようにキリスト教が王権と結んで、支配の力をつくっていくというのはいいことではないけれども、そのころのキリスト教を考えると、それは村の信仰だったといえる。だから、きちっと聖書に裏付けられたキリスト教とはちょっと違うような形で、土着化したキリスト教というものが村々にあったわけです。ですから、今も残っているそうした村の教会へ行ってみると、キリスト教の教義からいえば、こんなのありえないというような絵が飾ってあったりする。 日本の場合も同じで、例えば仏教でも、教団や教義に忠実な仏教が人々の中にあったわけではない。村に行けば村の仏教ですし、もっと言えば、村のお寺とともに人々が生きていた。非常に土着性の強い仏教があったわけですね。そういう地域社会の中にコミュニティーがあって、そのコミュニティーの中に土着化した信仰があった。その形態も、信仰を個人の問題に帰することで、近代社会は否定してしまったということです。
 そうなってくると、私たちは二つのものを失った。一つはコミュニティー(共同体)というものであり、同時に、そこと結んでいた信仰的世界も失った。この二つを失ったときに、人間は不安定な存在になって、そこにある種の不安感が出てくる。近代はそういう不安感をすべて経済発展で解決するというような社会をつくってきたわけですけれども、その経済発展の歯車もうまくかみ合わなくなってくると、コミュニティーを失い、信仰を失ったということがすべて負のスパイラルのような形で、私たちを襲うようになった。そう言ってもいいような気がするんです。



村人の信仰と若者の信仰心

 ぼくのいる上野村(群馬県)では、宗派としては天台宗と曹洞宗のお寺のみで、どっちにしても村のお寺なんですね。田舎はどこでもそうでしょうけれども、共同体で支えてきたお寺です。現在はどちらも無住寺になってしまって、遠くにいるお坊さんが何かあれば来ることになっていますけれども、村のお寺の雰囲気がなくなって、村の人たちの間では評判が悪いというのが今の状況です。それでも、お坊さんがいなくてもお寺とともにあった行事はちゃんと行われているわけです。そういう中で、どう見ても仏教とは関係のなさそうなものも入っているので、自然信仰的なものも色濃いですし、地域にある山の神信仰とか水の神信仰とか、観音信仰とか阿弥陀信仰とかいろいろありますけれども、そういうものを含みながら展開していく。
 それは天台とか曹洞という教義からすると変なものがいっぱいあるわけで、だけれども、そうやって人々が生きてきて、そういうものに包まれながら自分たちの生きる世界をつくってきた。ただ、山奥の村ですから、それは受け継がれて守られてきたということですけれども、ちょっと都市的な雰囲気の場所になってくると、大体そういうものは消えてしまっている。そこのところも、もう一度検討し直さなければいけないのではないか。自分たちのコミュニティーの中に土着的な信仰みたいなものがあって、そういうものを通して人々が結び合っているという、その形をこれからどう評価するかというのは、結構重要な気がしています。それは人間が生きていく上で、ある種の信仰のようなものが不要なのかという問い掛けでもあるわけですね。
 今、面白いと思っているのは、若い人たちの信仰心が高いことです。ただ、それは既成の形ではないので、はっきりいうと、信仰心は高いけれど宗教性はないという感じ。だから、自分のうちがどこの宗派の檀家かもよく知らないというのが普通ですけれども、にもかかわらず、例えば山の神信仰だとか、水の神信仰だとか、そういうようなものに触れることに熱心なんです。例えば、上野村でゼミ合宿をやっているんですが、滝行といってもほとんど滝遊びという感じがしますけれども、これが大変人気があります。
 そういう例を見ていると、不安な時代という中で、若い人たちは信仰心を取り戻そうとしているのではないか。ただ、それは既存の宗教と全く関係がないような感じで展開している。あるいは、そういうところに既存の宗教が手を伸ばせなくなっているというほうが正確でしょう。本来、「宗教」も「信仰」も明治の翻訳語で、伝統的な日本にはなかったものです。ただ仏との結び付きとか、あるいは神との結び付きとか、その奥に自然があったりして、そういう神仏と結び合いながら自分たちの共同体をつくっていくという世界があった。それは近代人が語っている宗教とか信仰とはちょっと違ったものだと思う。
 若い人たちはそういう昔の形に近いようなものを取り戻そうとして、それが形としては自然信仰になって現れたり、あらゆる宗派を平等に見ていくような、例えば親鸞も読むし道元も読むという、宗派なんかに全然とらわれないという形で何かをつかもうとしている、そう思うんです。現代の不安というものを考えると、繰り返しになりますが、現実社会が立ち行かなくなって将来の流れも見通せないという不安、それから近代的個人社会が持っている根源的な不安、それと何らかの意味でいわば信仰的なものを失った時代の不安といいますか、多分三つの不安が相互に関係を持ちながら今来ているのかなと思っています。

シェアハウスの意味

――コミュニティーが失われていく中で、若い人たちに信仰心が芽生えているというお話ですが、それはどういうところでお感じになりますか。

 ぼくは立教大学、キリスト教がつくっている大学に籍を置いていますが、キリスト教でも信者の高齢化が問題になっていて、若い人に継承されない。一代で終わってしまうキリスト教徒が多いようで、日本の場合、どうしても三十万人の壁を突破できないという問題があります。今後、キリスト教教団は三十万人どころか、もっと減ってしまう可能性がある。仏教の場合でも、全体で見るならば檀家の制度も崩れてきているし、何らかの形で教団化しているものに対して親しみがなくなっているということは確かでしょう。だからといって、信仰心が失われてよほど運のいい人でもひいおじいさん、ひいおばあさんぐらいまででしょう。ところが歴史はずっとあって、自分の祖先というだけではなく人々が土を耕したりしてやってきた、そういうものの先端に今自分がいるという、そういう感覚が少し回復してきた。自分以降ということになれば、こちらもまた人間の歴史という点ではずっと続くわけです。そうすると結局、認識し得ない過去の人たち、認識し得ない未来の人たち、そういうものとのつながりの中に私がいるという、そういう感覚なんかも今ちょっとつかみ直したくなっている。それはある種の信仰心につながる、と言ってもいいということですね。
 立教大学でも、クリスチャンの学生はそんなに沢山いるわけではないということはありますけれども、むしろ日本の伝統的な自然信仰というものへの関心のほうが高いと思います。というのは、自然を信仰しながら生きてきた過去の人たちの歴史があり、それを否定してきた歴史があって、今私が生きているという、そういう一つのつながりを回復したいという思いがあるんですね。だから、つながりという問題は友達や家族とつながる、いわば水平軸のつながりと、もう一つ垂直軸のつながりがあって、それは永遠の過去とのつながりでもあるし、永遠の未来とのつながりでもある。その水平軸と垂直軸の二つのつながりの交差点に自分が生きている、そういうものが確認できないと、どこかに不安感があるということに気づき始めたということかなと思っています。

家族を大事にする若者たち

 今の若い人たちは家族を大事にするという傾向が強くて、それが逆に裏目に出ると、何らかの事情で離婚ということになったり、あきらめ切れないという人たちも出てきてストーカー行為に及んだり、そういうマイナスの面も起きているわけです。ただ、家族を大事にしたいという気持ちが今、割に出てきている時代だと思っています。ところが、生活の実態が、家族らしい家族を形成することとはかけ離れていて、朝夕の食事を一緒に食べないし、一緒に話もしない、そういう時間が持てない生活になっている。家族が家族らしいということは、家族らしい生活実態がないといけないわけで、それが成立し得ない場合が圧倒的に多いということです。
 日本の家族制度を考えた場合、戦前というところまで言い切っていいかどうか分かりませんけれども、少なくともある時期ぐらいまでは、家制度といってもいいということですね。家制度というのは、家に家業があって、家を通して家業を継承していく制度です。そういう仕事の継承性といったものが今は見えなくなっている。そういう社会が人間を幸せにするのかどうか、これも検討課題になってきた。それは家でなくてもいいけれど、何らかの形で仕事が継承されていくということが社会の中で見えているという、そういう在り方を考えないと、本当に不安定な個人を絶えず大量生産するというだけになってしまう。
 教育の面でも、家庭内教育はほとんど崩壊しているし、地域の教育は完璧に崩壊、だから学校教育だけが引き受ける、あとはせいぜい塾とかがそれを補完するみたいな形になっていて、ここにもう無理があるということです。だから、教育問題も家庭とは何なのか、家族とは何なのかを問い直さなくてはいけなくなって、一方ではもちろん地域とは何なのか、コミュニティーとは何なのかを問い直さなくてはいけない。それを全体でやっていかないといけない時代だということですね。
 家族制度のほころびがかなり見えてきたところで、さっき言った、若い人たちがシェアハウスをつくったりしてやっているのを見ていると、あれは新しい家族制度の成立かもしれないという気がする場合もあります。そう言い切っていいのかどうかは別として、そんな雰囲気はある。というのは、血縁は全くない人たちが数人で暮らしていて、よく助け合うし、それから後で別れ別れになっていくときがあったとしても、多分つながりはなくさないでしょう。そういうものを持っています。
 それから例えば、家財道具なんかでも、テレビが一台だったりするわけです。今だったら、普通の家庭でもテレビが各個室にあったりするというのに、一台のテレビをみんなで集まって見ている。チャンネル選びで意見が割れたときには、うまく調整するという、そういうやり方はむしろ昔の家族に近い。車も一台をみんなでうまく使い回すとか、あと遊びに行くときには、みんなで行く場合が多くなっています。そうすると、これはひょっとしたら新しい家族の形態と言えるかなという気もしないでもない。これは断言できませんけれども、何かちょっと新しいものがそこにあるなという気はしています。

 お寺の境内にあるご神木

葬儀は死者のためのもの

 今パワースポットがブームになっているといいます。あのパワースポットとは何かというと、自然とのつながりが感じられる場所、あえて言えば、自然の霊力が強い所と考えられる。何かそこに行くと、自然の世界と自分が今つながっていると感じられる、そういう場所がパワースポットで、考えてみると自然信仰なんですね。そこに立つと自分が自然とつながって生きていることが感じられる、そういう自然信仰みたいなものがあって、それが成立しているわけです。これはかなり土着的なというか、古い日本の信仰形態の、ちょっと現代的な回復みたいな一面も持っているといえる。
 また例えば、死後の魂について、あるかどうかという質問への回答を統計で見ると、若い人ほど「ある」と答えています。ただ、「ある」と答えた人も、一〇〇パーセント信じられますかという質問をすれば、恐らく九九パーセントの人が、「よく分かりません」という話になると思いますが。これもどういうことかというと、死んだ後も魂があるということを信じたくなっている時代、つまり死んだら終わりということではなくて、その後もつながりがあるんだということを信じたくなっている時代、そういう時代が来ていると思う。
 ぼくは日本思想史的なことも教えておりますので、時々質問をされます。お葬式に行ったら、お坊さんがお経を上げてくださって、その後ちょっとお話をしてくださった。お葬式というのは死者のためにやるわけじゃなくて、生きている人たちがけじめを付けたり、心の整理をしたり確認するために、お葬式というのはあるんですよと、お坊さんが最近よくおっしゃると思いますが、これは正しいんですかという質問です。ぼくは「間違いです」と答えます。お葬式はあくまで死者のためにやるので、生きている人のためではありません。ただ、死者のためにやっているけれども、それが結果として生きている人たちの心の整理につながったり、けじめになる、それはもちろんあり得ます。
 伝統的な考え方では、死者にまず、あなたが死んだということを伝えるということであり、そして安心して成仏していいんだ、後は自分たちがしっかりやっていくからと、それをきちっと伝えていくという形態がお葬式なので、生きている人たちの気分整理のためだったら、パーティーでもいいことになってしまう、お葬式という形態を取る必要はない。こういう話をすると、若い人たちは納得する人が多いですね。お坊さんたちはあまりに現代的なお話をされ過ぎる、古い考え方を言っては駄目だろうと、自主規制し過ぎだという感じがあります。宗派によっては、死者の魂はありません、死後の世界はありませんと言い切ってしまう。ところが若い人が求めているのは、昔からどういうふうに考えてきたんですかと、そういうことを知りたがっているわけです。
 若い人たちの信仰心ということですが、例えばお葬式の場合、年齢の上の人たちは、やっぱりお坊さんを呼ばなければとなるけれども、じゃあ信仰心があるかというと、もちろん信仰心を持ってやっている人もいるでしょうが、お坊さんを呼ばないと格好がつかないとか、戒名を付けないと格好がつかないというような感じでやっている。そういう人たちに比べると、お葬式があってもお坊さんを呼ばないかもしれない、戒名も付けないかもしれないけれども、若い世代のほうが、素朴な信仰心みたいなものを回復してきている、ぼくはそう思っています。