春彼岸特集
若き僧侶たちよ、大丈夫たる自分になれ


 静岡県焼津市・林叟院住職 鈴木包一老師は、サンフランシスコ禅センターを創設し、米国で布教活動された故鈴木俊隆老師を父に持ち、大本山永平寺では長年雲水の最高指導者としての後堂を勤め若き雲水を教え導いてこられた。
 今は岡山県の洞松寺で西堂師家として外国人僧侶を含めた方々に坐禅指導を行っておられる。
 世界の次世代の僧侶たちにどのような指導をされているのかお聞きした。


前永平寺後堂・
鈴木包一老師インタビュー


鈴木包一
昭和14年9月19日静岡県生まれ、
昭和37年3月駒澤大学仏教学部卒業、昭和37年4月〜39年10月大本山永平寺修行、平成17年5月永平寺単頭就任、同副監院、平成21年10月〜24年10月永平寺後堂。現在顧問。平成25年7月岡山県洞松寺専門僧堂西堂師家に就任。現在は年数回、父であり師匠の鈴木俊隆師(故人)が開いたサンフランシスコ禅センターなどに赴き外国人への坐禅指導。


人格を認めることからの出発

――老師が永平寺の後堂をされておられたとき、安居される若い方々と接してお感じになったことをお聞かせください。

鈴木 よく世間では「昔はこうだった」という言い方がありますが、永平寺についても、昔の雲水はもっと立派だったというような話を聞きます。比べることはなかなか難しいですけれど、昔よりも今のほうがいい面も随分ありますね。大ざっぱに言って、落ち着いてきたというか、優しくなった、人の気持ちもよく分かるようになった。昔はバンカラというか、元気のいい人が多かったですけど、だんだん優しい人が増えています。
 ただ、二百人もいますから、一概にこうだということはなかなか言えません。それでもわれわれ若い頃に安居していた時よりは皆さん表面的には仲良く、優等生というか、そういう子が多い。もう少し元気がほしいと。気力がないというか、そういうことは確かに思いますけど、社会全体がそういうものを作り上げてきて成人となっているのですから、永平寺へ来てからそう出来上がった人間を変えようとしてもなかなか難しい。もっと元気よくなれ、なんていっても無理なところがあります。道心をもって安居している人もいれば、その場限りで利口に立ちまわろうとする人もいます。
 そういう若い雲水に接して、あまり若くない雲水もおりましたけど、一番大切なのはまず人格を認めることであると思う。一人一人をちゃんと見て、どこを認めたらいいかということを一人一人見ることだと思うんです。この人のどこを認めるかというところから出発しないと、関係はできませんからね。瞬間、瞬間、面と向かったその一人についてよく見ないといけない。大変ですが、わずかな時間でも、どこがいいところかを見つけようと努めることからはじめないといけない。名前を覚えることが大事だとは以前から聞いていましたが、年取ってから行きましたから、なかなか覚えられなくて困りました。
 やはり若い人はいいなという、親しみの情感をもって接すること、簡単にいうと愛情というか、そういうものが大切だと思う。若い人が大好きだったですよ、私はね。皆さん、よく言うことを聞いてくれましたから。何かちょっと外れたことをする雲水もいましたけれど、私の前ではあんないい子なのに、何であんなことするんだろうと思いもしました。なかには心が通じないまま送行してしまった人もいましたけれど、悲しいというか、残念というか、もう少し時間があったらよかったのにと思う人もいます。そういう人は忘れられないものです。長い人で五年ぐらいでしょう、短い人は一年です。一年では、ここを直してやりたいというようなものはなかなか現れない。二、三年たつと、そういうものが出てきますけどね。それをどうすることもできずに別れなきゃならないということはたくさんありました。
 私は中学生ぐらいの時から剣道らしきものを始めた、というのは戦後、GHQか何か、剣道を禁止して、それから復活した時代です。高校へ入ったら、もう剣道が認められておりまして、それから大学まで七年、永平寺から帰ってきてからまた三、四年やりました。剣道は「道」、でありますから、全人格的な完成を目的としています。勝ち負けということ、それはもちろんあるけれど、それより内面的な気力とか品格とか、あるいは相手を敬い尊重すること、そういうものを剣道でよく教えられました。これは坊さんにとっても大切なことだと思います。その点では、剣道をやっていてたいへん良かったと思いますね。

 林叟院の本堂

道元禅師のことば「自受用三昧」

――そういう若い雲水に接して教え導かれるときの指針といいますか、指導の方針ということをお話いただければ……。

鈴木 なんといっても良き僧となれかし、いい坊さんになってもらいたいということを常に思っていました。心の博い、威張らない、欲張らない僧となってもらいたいと願っていました。高祖様の教えをよく聞けば、名利を捨てるということがまず大事だとお示しです。今こうして私たちが坊さんでいられるのは、昔の人たちがどれだけ清貧に甘んじ、清らかな生き方を守ってきたか、そうやって蓄えられた力が私たちに及んできて、今があるんですね。私たちがそれをいいことにして使い果たし、徳を損んじてしまえば、後の人たちが困るわけです。だから若い人たちに望むことは、そういうことに敏感な坊さんになってもらいたい。皆さんから尊敬される、あるいは信用される坊さんになってもらいたい。それからでないと、布教も済度もできませんから。
 また、よく道得ということ、あるいは得道ということをいいます。道を得るということ、または道(い)い得るということ、つまり「表現できる」ということです。どっちの方向へ行ったらいいかということが分からないと、坊さんになっても何していいか分からない。住職になって何もしないのは、何をしていいか分からないからですね。自分が住職になって、檀家の人や世の中の人と一緒に仏道を行く時に、こっちの方向だということがはっきり分からなければ一緒に行くことはできない。悟りを開くとかいっても、まず第一に、どっちの方向にそれがあるかということは、教えてもらわなければいけないでしょう。教えてもらったら、それを自分で実践できなければいけないのです。
 それは高祖様のおっしゃる「自受用三昧」という、修行そのものが、坐禅なら坐禅そのものが目的地であるということで、それをしてここからどこかへ行くというのではなくて、ここが目的地、安穏の所であり、ここへ向かって今まで来たんだという。そして、これからもここに向かって行けばいいのだという満足、安心、それがよく押さえられないと、人に坐禅をどのように説いていいか、あるいは自分でどのように納得していいか分からないわけです。高祖様は何をおっしゃっていたか、あるいは太祖様がどういうふうに導いていたかということを、いずれ若い雲水たちもだれかに伝えていかなければいけない。よく言うんですよ、若い人に。あんたもすぐに「師匠」と呼ばれるようにならなきゃならないんだから、何があっても大丈夫だという自分になれとね。
 それから鑑をもつということ、それはもちろん道元様、瑩山樣、お釈迦様の生き方を鑑にするということは大切なことでありますけれども、しかしもっと近くに、比較的まねのしやすい鑑をそばへ置いて、ああいうふうになりたいなと常に思う、それがないと困ります。自分の師匠、先輩がどのようにやってきたかということ、私も若い頃に出会った人を考えると、ああいう坊さんになりたいなというものを感じましたからね。ということは今、住職をしている私たちがしっかりしないと、育ってきている若い雲水たちが困ることになるかもしれないということです。
 これまでの仏祖が苦労されたその恩に報いるのに他の方法はないから、坐禅というもので仏祖とつながっているんです。他につながる手だてがない。仏祖に対するつながりがそこにあるから、われわれは坐禅をする。皆さんは今、足が痛くて嫌だと思うかもしれないけれど、坐禅があってよかったと思える瞬間がいつかは来るから、その時に仏祖への恩返し、坐禅をすればその恩返しができるという方法がちゃんとあるわけです。坐禅は釈尊が私たちに伝えたというけれど、これはやっぱり人間が人間らしくなった瞬間から自然発生的に出てきたもの、それを釈尊がきちんと形にして私たちに伝えられたのです。
 ですから過去無量の仏たち、諸仏といいますが、釈尊を含めて大勢の仏たちが坐禅をしたのです。その坐禅を今でもすれば、一人でも二人でも世界中で坐禅をすれば、これもまた無量の仏が坐禅をすることになる。その流れを受けて、未来もまた限りない仏たちが坐禅をする。このひと時の坐禅がたいへん大きな、よく昔のお師家さんたちは尽十方といったけれど、世界を埋め尽くす坐禅の世界がある。確かに、そういうことを完全に自分のものにできるかどうか分からないけれども、その方向だという、坐禅というのはそういう世界の話なのだ、「行」なのだという、そういうことを分かってもらいたいと思っています。

お坊さんのイメージは住職の生活の仕方から

――老師はここ林叟院では一ご住職でいらっしゃるわけですけれど、お檀家の方や一般の方々とはどういう接し方をされていますでしょうか。

鈴木 私は住職するまで、若い頃は非常に気の短い人間だったんですけれど、檀家の人と接しているうちに、だんだん気が長くなりました。そうでしょう、人と接すると、こんなに気が長くなって、自分で言うのも何ですが、大したものですよ。私の父親(鈴木俊隆師)、師匠も気の短い人でしたが、よその人の話では、あなたの師匠は気が長くて、怒ったのを見たことがないという。いつもにこにこして、飄々としていると言うんですが、うちへ帰ってきたら気の短い怖い人だった。気の短い人が気を長くしているというのが、これが値打ちのあることじゃないですか。そこに深さというものがあるんじゃないですかね。
 檀家の人は、あなたのお父さんも、あなたもあまり欲のない人だから私たちは安心だなどといいますが、二人ともそんなに無欲で淡白な人間であるとはいえません。欲張りと欲の少ないことと、この境目のところはそんなには離れてないんです。だけど欲張りでなく威張らないということが檀家の人にとっては、いい坊さんの一つのイメージですね。住職がどういう生活の仕方をしているかということが、非常に大切なところでポイントの一つだと思います。わずかなことですから声高に欲をかくな、と言うことはできませんけれど、ちょっと考えてもらいたい。坊さんなら、もうちょっと考えてもらいたいなと思うことが多々あるんですね。

 林叟院の境内

外国人は禅のどこに引かれるのか

 今、岡山の洞松寺で西堂という役目をやっています。そこでは月に一回、接心をやっておりまして、安居僧は二十五人くらい、参禅者が五、六人。約三十人のうち半分は外国人、そのうちの半分はヨーロッパ人です。朝参といって、朝、お茶を飲んでお煎餅を食べるんですが、それが終ると『随聞記』を読む。順番で一人ひとつずつ読みます。その時には日本語で読んで、英語で読んで、フランス語で読んでという、『随聞記』の輪読は毎日というぐらいやっています。私が居る時には『弁道話』の話をして、それを通訳していただいております。よく聞いてくれますよ、よく分かってもらわないといけないので、私も一処懸命、努めさせてもらっています。
 外国人は禅のどういうところに引かれるのか。私の父親がアメリカへ行った時はいわゆる禅ブームのはしりで、鈴木大拙博士の『禅と日本文化』という本などで禅というものが知識として広まっていた時代、サンフランシスコへ行きまして、桑港寺の入口のドアへ紙に坐禅をしているから坐りたい人はどうぞと書いて貼っておいた。そうしたら、当時のヒッピーといわれた人たちが随分集まったといいます。昭和三十五年の話です。それから既に五十数年たった今も、当時、坐禅やあるいは朝の行持やら作務やらをしていたのを、まったく同じようにやっているわけです。ヨーロッパでは弟子丸(泰仙)老師の流れの方たちがおられるし、いろんな流れで世界へは坐禅が広がってますね。

大安心の世界は坐禅から

 今、『弁道話』で生死の問題のところへ入ってきたこともあって、死んだらどうなりますかということを聞きに来た人がいます。高祖様は、死んで魂が残るということはないとおっしゃっている、人間の心と身体がばらばらになって、魂だけ残ってしまうということはないということです。残り物は何もないから安心できる、残り物があると、かえって大変でしょう。体がなくなれば心も魂もなくなってしまう、だから私たちは成仏できるんです。確かに、何もなくなってしまうことに対する不安ということがあるかもしれないけれども、人によっては残ってしまうことへの不安というものもあるのではないですか。
 死後に何かが残るのではという不安ですね。人によっては、それがあっちゃかなわんと思う人もあるでしょう。残り物があったのでは大変で、残り物が何もないという大きな世界がそこにあるということ。残り物も何もない世界に私たちが行けるという、それが本当の大安心の世界だということです。自分とか他人とか、そういうものを超えた世界がある。それに帰るということ。それは言葉で言ったり、文字で書いたりしても、それは観念でしかない。何によってそれを実感するかといったら、やはり高祖様のおっしゃる只管打坐という、坐禅をすることでそれが体験できる、それを現実にするのが坐禅だということですね。