『徒然草』と仏教のおしえ

河崎清作(かわさき・せいさく)

1943年、福井県生まれ、福井大学電気工学科卒。
海上自衛隊勤務を経て、現在、社会福祉関連事業のNPO 法人理事を務める。


諸行無常のおしえ

 仏教の思想を特徴づける三つの基本的な主張を三法印といい、それは「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とされる。このうち諸行無常とは、あらゆる現象はすべて移り変わってとどまることがないことをいう。
 『徒然草』には、第四十九段に「人はただ、無常の身に迫りぬることを心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり」、第五十九段に「命は人を待つものかは。無常の来たる事は、水火の攻むよりもすみやかに、逃れがたきものを」とあり、そして第百三十七段に「鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり」と警告するのである。

慈悲のおしえ

 歴史上の四大聖人の一人とされる釈迦は慈悲を説いた。『徒然草』百二十八段では「大方、生ける物を殺し、いため、たたかはしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害のたぐひなり。よろずの鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、……身を愛し、命を惜しめること、ひとへに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なかざらんは、人倫にあらず」と。
 次の百二十九において「すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤いやしき民の志をも奪ふべからず」と、人の心を思い、慈しむことの大切さを説いている。

勧善懲悪のおしえ

 中国の唐の時代、白楽天がある禅僧に仏教とはいかなる教えかを訊ねたとき、禅僧の答えは、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是処仏教」
 というものだった。意味は、悪をなすことなく、善いことを行って、自己の心を浄める、これが諸仏の教えである、と。白楽天は、こんなことなら三歳の子供でも分かることではないか、というと、三歳の子供でも分かるが、八十歳の老人でもできないだろうとたしなめられたという。
 日常生活で、どういう言動をなすべきか、なすべきでないか、『徒然草』では多くの例を挙げて説明する。第百六十七段に「人としては、善にほこらず、物と争はざるを徳とす。……一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物にほこる事なし」。第百七十段「さしたる事なくて、人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、とく帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。…… その事となきに、人の来たりて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし」。
 そして第二百三十三段「よろづのとがあらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かずうやうやしく、言葉すくなからんにはしかじ」、何事にも誠意をもってあたり、人を差別せず、礼儀正しく、余計な口をきかないのがよいというのである。

少欲知足のおしえ

 仏教では執着を離れ、欲望を抑えることを説く。『徒然草』第百二十三段に「思ふべし、人の身に止むを得ずして営むところ、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。……医療を忘るべからず。薬を加へて四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす」。
 この具体的な例が第百二十五段に語られている。兼好法師の知人、平宣時の話として、宣時が若いころ最明寺入道(北条時頼)に呼ばれる。着ていく物がないと悩んでいると、使いが来て、そのままでよいと、そこで普段着で訪ねると、一人で飲むのがさびしいから呼んだのだと、時頼は、銚子に粗末な器をもって出てきた。何か肴になるものがないか、宣時にそこらへんを探してくれというので、彼は隅々を見て回る、台所の棚にちょっと味曽のついた小皿があった、こんなものがありますというと、時頼は「事足りなん」と、心よく盃をかわしたという。

   (引用は新潮日本古典集成『徒然草』による)