私の人生、いつも音楽があった
第2回 女性ジャズ評論家の誕生
湯川れい子
湯川れい子(ゆかわ・れいこ)
音楽評論家・作詞家
東京生まれ。
1960年ジャズ評論家としてデビュー。
作詞家としても活躍。
1972年ころより音楽療法について関心を深める。
NPO法人日本子守唄協会会長・日本音楽療法学会理事。
聞き手 西舘好子(にしだて・よしこ)
東京生まれ。
劇団こまつ座・みなと座、リブ・フレッシュを設立。
日本子守唄協会理事長、遠野市文化顧問などを務め、子育て支援に資するために活動中。
http://www.komoriuta.jp
冗談にまぎらした兄の最後の思い
西舘 当時、女優志望でいらした湯川さんのこと、お母さんにはどういうふうに映ったでしょう?
湯川 母としては当然不安だったと思います。いつも二言目には、とにかく結婚してね、でしたから。幸福な結婚をするのが女性の幸せだと。だから若いうちに赤ちゃんを産んでほしいとか、それが母の望みだったと思うんです。
でも同時に、母は自分が手に職がなくて、私を育てるのに本当に心細い思いをしましたから、女性もいざという場合、夫と死に別れたりしたら、子供を育てるぐらいの経済力は持ってほしいと。だからあなたも手に職を付けなさいと言われて、私は高校を卒業して、二年ぐらい洋裁学校に通ったんです。
西舘 洋裁で身を立てようと。
湯川 いえ、何かのときのために、一応スーツくらいは縫ったりはしたんですけど。母にとっては、女優なんていう商売は河原乞食でしたから。
西舘 それはそうでしょうね。
湯川 信じ難いけれど、母の妹やそのご主人とか、親族が何人か集まって話し合っていました。ちょうどそのころ、久我美子さんが出てこられた。
西舘 あの方は侯爵家の出ですね。
湯川 ああいう、世が世ならば……という人が今は女優さんになる時代だから、どうしても私がそういう仕事をしたいというのならいいんじゃないかと、親族のお墨付きをいただいて独立プロの女優になったわけです。最初に山田五十鈴先生のところへ伺った時は母も一緒でした。それで、独立プロに二年間ぐらい預けられた。
西舘 やっぱり末っ子には好きなことをさせてやりたいと、甘かったわけでしょうか。
湯川 そうですね。どこかで母は、あんなに絵が好きで、音楽が好きだった長男のことを、戦争中は情けなく思っていたようなんです。次男はバリバリの軍人を目指して一生懸命勉強したのに、長男は米沢の祖父母のもとでのんびり育って、アコーディオンが好きで、乗馬が好きで、母からみるとちょっと情けなかったんでしょうね。
西舘 戦後になって、変わってきた。
湯川 はい。後悔していたようです。私が母に、上の兄が戦場に行く時、最後にお母さまに何と言って出ていったんですか? って聞いたら、ばかなことを言って、あの子は、最後の最後まで冗談を言って出ていったのよ、と。玄関で靴を履きながら、もし僕が髪の縮れた真っ黒な、目のくりくりっとした子供を連れて帰ってきて、その子が、ばばちゃま!と言っても卒倒しないでね、というのが兄の最後の言葉だったといいます。
でもそれは、兄としたら自分がどこの戦地に行くか、もう分かっていて、フィリピンで死ぬんですけど、南洋に行くことは分かっていて、それもはっきり言えなかった。兄のモチベーションとしては、一度は行きたかったヤシの実の流れてくるところ、という思いがあって、それがせめてものことだったのでは、と母に言ったんです。兄としては、せめてもの言葉だったと思います。でも、母はそれを本当にばかな冗談だと思ったんでしょうね。
家のキッチンで原稿書きしている姿
ダンスホール金馬車での出来事
西舘 それから、ジャズとの出会いははじまるのでしょうか。
湯川 ええ、そのころ現代俳優協会の事務所が銀座にあったので、そこへはよく顔を出していました。お仕事のこととか、勉強に行ったりしていたんですけど、今のデパートの松屋近くに金馬車というキャバレーがあって、金馬車の前を通って松屋の先をちょっと築地のほうに曲がったところにその事務所があったんですね。金馬車は夕方の五時四十五分ぐらいまでダンスホールになる。
西舘 当時はダンスホールはブームで流行しましたものね。
湯川 そう、ちょうど日本にマンボが入ってきたころです。細いマンボズボンの若者たちが沢山。五〇年代の終わりで『太陽の季節』のころ、私が高校二年とか三年の時です。現代俳優協会の新人女優四人のうちの一人が築地の有名な老舗のお嬢さんで、当時最先端のファッションモデルという、そういう仕事もしている八頭身の美人でした。その人とよく一緒に事務所に行っていましたが、彼女がちょっと踊らない?
と私を金馬車に連れて行ったんです。
忘れもしません、浜口庫之助さんと東京キューバン・ボーイズがステージに出ていて、ハマクラさんが歌っていました。そこで私はダンスも知らないし、そんなところに入るのは初めてで、白いテーブルか何かに座っていたら、男の人が、踊らない? と私を誘うんです。彼に付いて一緒に何とかマンボを踊ったり、ジルバを踊ったりして、その人と話をしている時に、君は何をしているの、というから、独立プロの女優だと。『太陽のない街』とか『蟹工船』の話になって、進駐軍の政策で末端神経をしびれさせるような、こんなジャズなんかに夢中になっていていいのかしら、というような話を私がしたのね。
高校生の、もう本当に頭でっかちの、生意気盛りでした。私はスタニスラフスキー・システムの教えなどを受けて、俳優というのは思想の伝達者だと堅く信じていて。それで私は思想の伝達者としての影であっていいと、だから今井正先生の作品だったら、路傍の死体でもいいから使ってくださいみたいな。そんなふうでしたから、結構独立プロのそういう色に染まっていて、マンボズボンをはいたお兄さんにそんなことを言ったんです。
そうしたら彼が本当に顔色を変えるぐらい真剣な顔をして、ジャズっていうのはそんなものじゃない。ジャズはアフリカから強制的に連れてこられた黒人たちが、血や汗や涙で作り上げた、アメリカが生んだ唯一の芸術なんだ。君は本当のジャズを聴いたことがあるのか、と言う。びっくりして、ないと言ったら、じゃあ聴かせてあげるからおいで、と本当に引っ張って行かれるようにして、有楽町の駅前にあったコンボという小さな四畳半ぐらいの小汚い店に連れて行かれたんです。
「スウィングジャーナル」に原稿を書き始めた頃
モダンジャズの洗礼を受ける
湯川 ガラス戸を開けて入ったら、バリバリ耳をつんざくような音で、入り口のガラスの窓にはハイ・ファイ・セットと書いてありました。初めて三十三回転のLPが出たころです。お店に入ったら、ずらっと黒人の人たちが座っていて、みんな夢中でジャズを聴いています。私がそれまで聴いたことのない音楽が流れていて、その彼が、これがジャズだと。今ニューヨークとかシカゴで新しく生まれている、即興演奏を主体にしたバップというモダンジャズだと言うんです。
ジャズの生命は即興演奏であり、白人のために、ダンスを踊るためにやっている演奏がジャズだと思ったら大間違いだと言う。えー、そうなんだと、そこで初めて私はモダンジャズの洗礼というか、ノックアウトを受けてしまって、ジャズにも、その男の子に夢中になるのも時間の問題、すぐ夢中になってしまうんですけど、彼が一生懸命私にそうやってジャズを教えてくれた。ちょうど生まれて間がないモダンジャズを、私は夢中になって聴くようになるわけです。
その小さなお店、本当に四畳半ぐらいのところには渡辺貞夫さんもいらしたし、秋吉敏子さんも来ていたし、大橋巨泉さんなんてまだ早稲田の大学生で、ほお歯の下駄を履いて腰に汚い手拭いをぶら下げていらしていました。まだみんな無名で、その後演奏家になったり評論家になったりという人たちが、米軍の兵隊さんが持ち寄ってくるモダンジャズのレコードを聴いていたんです。それで私も独学で勉強するようになって、十九歳の時にジャズの専門誌「スイングジャーナル」の読者論壇というページに投稿するんです。
西舘 それが初めてのジャズ論。
湯川 はい。初めてでした。それが採用になって、湯川れい子というペンネームで出した私の原稿が読者論壇に二回ぐらい載った。それにファンレターがたくさん来たんです。名前から女が書いていることは明らかですから、若い女がジャズについて勢いのいい文章を書くなんて、まだ本当に先端のことだったんでしょうね。それもまた小生意気な文章で、そんなジャズの聴き方は間違っているとか、生意気なことを書いていたんです。そうしたら、もう亡くなられましたけれど、やがて有名なジャズ評論家になられた岩浪洋三先生が、そのころまだ二十五歳ぐらいの同誌の編集員で、うちに電話がまだないころに電報をくださいましてね、一度お目に掛かりたいといってこられた。
それで新橋の編集部までとことこ行ってお会いしたら、君、本気で書かないかいと言われて、もう二つ返事で書きます、と。
西舘 そのジャズ評論が音楽評論家への入口になったわけですが、作詞活動はいかがでしたか。
湯川 作詞はもっとずっと後で、それから五年くらいたってからです。
プレスリーとビートルズ
湯川 もうそれからは、「マンハント」とか「ハヤカワ・ミステリーマガジン」とか「男子専科」とか、アメリカの「ダウンビート」の日本版とか、そのころの雑誌にどんどんジャズ・エッセーを頼まれるようになります。と同時に、今度はラジオのディスク・ジョッキー、DJをやりませんかと。
西舘 当時、女性でそういう人はいなかったでしょう。
湯川 ええ、まだアナウンサーの時代でしたから。それでラジオの番組も持って、半年か一年たつころには週に二、三本担当していました。それだけじゃなくて、五三年に日本テレビが開局します、六〇年ぐらいにはフジテレビが出来たのかな、ちょうどそのころ、ラジオの番組がテレビに移行しちゃうんです。ラジオのほうは予算がなくなって、そんなにスターをそれまでみたいに使えなくなるんですね。だから、自分でレコードもそろえて、自分でしゃべるというのは希少価値というか、便利だったんでしょうね。
大橋巨泉さんとか青島幸男さんとか、それまで構成作家だった人たちがご自分でしゃべるようになった。そんな中で、私みたいにプレスリーからパット・ブーンから、五〇年代のポップスからと聴いている人はあまりいなかったからでしょう。自分で苦労してレコードも集めていましたから、そういうものを自分で全部構成してしゃべっていたんですね。
西舘 まだ二十代のころですよね。
湯川 はい、そうです。
西舘 いい時代でしたね、考えたら。パイオニア的存在で出発できたのですね。
湯川 ですから、本当に苦労したということがないんです。日本でテレビが茶の間に入ってきたのは、東京オリンピックからで、ちょうどその同じ年に、ビートルズが世界デビューしています。若者がギターを弾いて歌って、それが社会的に認知されるようになったのは、日本ではビートルズからです。その前のエルビス・プレスリーはラジオでしか日本に入ってきませんでした。プレスリーがロックンロールというもので出てきて、アメリカに文化的な革命とも言えるような、黒人と白人の間の壁を蹴飛ばしてしまうというようなことは、実は同時代に日本には入ってこなかったんですね。
西舘 そうですね、ロックって何ですかと聞かれて、プレスリーは私の生き方だと答えたという、それはすごく印象に残っています。
湯川 ですからロックが認識されていなかったということで、ビートルズが日本に来た時に、武道館を貸してもらえないという大事件が起きたんです。そのころは、エレキを聴くと不良になるとか、神聖な武道のための殿堂である武道館をロックなんかに貸すことはできないとか言われて大変でした。そこから数えてから、もう半世紀ですものね。
(以下次号)