臨床宗教師養成にあたって思うこと

金田諦應


カフェ・デ・モンクの創立者が語る
実践宗教学講座について、
岡部医師について


金田諦應(かねだ・たいおう)

昭和31年4月12日生まれ
通大寺住職
駒沢大学大学院修了
東北大学大学院 実践宗教学寄附講座 運営委員長
日本スピリチュアルケア学会会員
カフェ・デ・モンク主宰


宗教者として被災者に寄り添う

 東日本大震災から早四年が過ぎました。この震災では自分自身が学んできた宗教的フレームが壊れたという体験がありました。剥き出しになった「生と死」「喜怒哀楽」の現場には学んできた教義や宗教的言語では対応できないものが次から次へと出てきました。壊れたフレームの中をどうやって歩けばいいのか、宗教心とか霊性(スピリチュアリティ)というものは一体何なのかと問いと答えを繰り返しながらの活動でした。
 鈴木大拙師は「日本的霊性」という著書の中で「一般に理解している宗教は、制度化したもので、個人的宗教経験を土台にして、その上に集団意識的工作を加えたものである(中略)そしてそれは必ずしも宗教経験それ自体ではない。霊性はこの自体と関連している」と語っています。私達が平常に考えていた宗教的フレームの遥か違う次元に、長い間培われてきた「日本的霊性」があるのではと感じております。
 今回の様に私たちの住む風土が危機的な状況に置かれたとき、その土地が持つ精神風土から生まれ、そして無意識に意味づけされてきたもの、例えば位牌・お数珠とか・お地蔵さんとかが傷ついた心をケアしていく、そういう現場を多く経験しました。それは宗教的な文脈で語られる「救い」ではなく、その人の文脈の中で語られる「救い」なのです。
 津波で亡くなった父親が作った花壇。三年ぶりに花を咲かせたのを見てここで父親と共に生きていく決心をした若い女性。妻、娘、孫を津波で失い、新盆に流した三個の灯籠が風と波にもまれバラバラに流れる。しかし遥か沖合で一つの灯りになったのを見て、あちらの世界で三人一緒に暮らしていることを確信した老人。

「ケアされる人・ケアする人」の関係を越えているのでしょう。

 人間には大きな命の輪の中にアクセスする能力(スピリチュアリティ)が元々備わっていると感じます。宗教者はそれをひたすら信じ、時間と空間が凍り付き未来への物語が見えなくなってしまった方々の心を解きほぐす。上手に聴きながら、気づいてもらう。行きつ戻りつ長い時間がかかるかもしれません。その人が自分自身で受容するのをじっと待つ事が必要なのかもしれません。
 教えを上手に説くというのではない。宗教者として寄り添うということはこういうことなのかという「気づき」はむしろ活動を通して教えて頂いた様に思います。その時すでに「ケアされる人・ケアする人」の関係を越えているのでしょう。

 岩屋寺でのカフェ・デ・モンク活動


 ある時、若い女性から震災で亡くなった方々の霊が身体に入ってきて怖い、死にそうだ、自殺したいという悲痛な訴えがありました。その場合、まず霊を見るという体験そのものが彼女にとってどういう意味があるかという視点から考える必要があります。仏教や、キリスト教ではこの様に解釈しているとか、実証科学の視点から霊が「ある・ない」という議論に入っていくと、実際答えが全く出ない問題です。教学や科学の理論でずたずたに切っていったら、教学や科学の自己満足にはなるかもしれないけれども、彼女の生きる力にはつながっていかないでしょう。彼女が語る出来事の背景にどの様な物語があるか、どのような状態に戻せば通常の生活に戻れるかを彼女中心に徹底的に考える。必要とあれば、彼女の精神的背景(宗教的)背景を考慮しながら宗教的ケアを行う。その女性とは六カ月近く関わり、現在では普通の生活をしております。
 一瞬のうちに多くの方々が犠牲になった被災地では幽霊を見る、亡き人の姿を見るということで日々の生活に支障がある人たちが沢山おりました。病院に行ったら「病気」にされます。おそらく何かの病名をつけられ、薬を処方されて、そのまま悶々とした暮らしをしていくことになるでしょう。しかし時にはお医者様に診てもらいなさいとアドバイスをする場合もあります。であすから注意深く傾聴しそして見極めていく事が大切であり、そして医療者やその他の職種とのチームワークが必要であると感じます。

 在りし日の岡部健医師

看取り先生・岡部健医師のこと


 震災後、東北大学文学部宗教学科が事務局となり、宗教・医療・福祉・学者関係の方々が集まって「心の相談室」が作られました。「カフェ・デ・モンク」も緩やかに連携しました。その中に私達の活動をじっと見ていた在宅緩和ケアの岡部健医師がおりました。先生は主に末期癌患者の在宅緩和医療に先進的に取り組んでこられた方です。残念ながら先生はご自身も癌に患い、二〇一二年九月二十七日、六十二歳で亡くなられました。
 岡部先生は在宅の看取りの中で、社会学者と共同して「お迎え現象」についての科学的データを集めておりました。お迎え現象というきわめて個人的な物語を、科学の手法を使って分析し、「迎え現象」を終末期医療の大切な出来事として位置づける試みをされました。
 お迎えというと、これまでいわゆる医学的な譫妄状態とされ、真正面からは受け止められなかった経緯があります。ところが先生は、そういう現象が実は人間の死に向かっていくときの魂の痛み(スピリチュアル・ペイン)を和らげてくれる仕組みとして体に刻み込まれているのではないか、そう位置づけようとされました。
 それは二〇一二年八月二十九日NHK「クローズアップ現代」で取り上げられました。先生はその番組に出演する予定でしたが、すでに体力が衰えていたため、東大名誉教授大井玄先生がピンチヒッターとして出演されました。
 岡部先生が亡くなる一ヶ月前の事です。大井先生が岡部先生のところへご挨拶とお見舞いに来られるという事で、私と高橋悦堂師が岡部先生に呼ばれて同席しました。高橋悦堂師は「カフェ・デ・モンク」で一緒に活動をしていた宗侶です。先生はご自分の死に向き合いながら私達の活動に同行し、苦しみ悩みながら「生と死」に向き合っている様子を見ておられました。先生は私達に、「これからは若いお坊さんたちが死に臨む場所(看取りの現場)にいなくてはいけない。だから金田君、おれの最後の臨終の儀式をやってくれ。」悦堂師には、「おれは間もなく死ぬ。僧侶としておれの死にざまを見ていてくれ」ということを言われました。
 悦堂師はそれからずっと先生の自宅に通いました。最後の十日くらいは泊まり込みになったと思います。私は常に車に法衣を用意しておりました。悦堂師から「今日、逝かれるかもしれません」と連絡があります。すぐに駆けつけてみると、先生はベランダで煙草を吹かしております。「先生、お迎えはまだですか」と聞くと、「いやあ、来ねえな」と。「どうですか、風景は。先生は真っ暗闇に落ちていくと言われましたけど、今、何色が見えますか」、「グリーンだな、自然だよ」。この様な本当にぽつぽつとした会話が数回続きました。
 そして最後の日が来ます。私は東北大で会議をしておりました。悦堂師から「先生、今は安定しています。医師も社会福祉士、介護の人も帰りました。私も自坊に着替えを取りに帰ります」という連絡を受けました。私も大学での会議の後、自坊に帰りました。そして先生は皆が帰った一時間後に逝かれました。奥さんがまな板をとんとんと叩いて夕食の用意、息子の耕君が夜の介護のためにシャワーを浴びていた。そのまな板の音とシャワーの音を聞きながら逝ったのです。あれほど臨床宗教師だとか、チーム医療とか言っていたのに、亡くなるときは家族だけだったのです。でも考えてみれば、それは理想的な亡くなり方かもしれない、それが人間岡部健のダンディズムかもしれないですね。見事でした。

臨床宗教師養成に余命をかける

 先生が癌の告知を受けたのは二〇一〇年、大震災の前の年です。「高い山のやせ尾根を歩いているような気持ち」と、先生はその頃の心境を書いておられる。実際に自分は今生の中にいて色々と考えている自分がいる。けれども、死というのは何だろうか。そこには全く道標が見えない、暗闇に落ちていくようだ。先生の中で信念とか心情とか変化していき、死に行く人にとっての道標が欲しいと考えるようになっていた。そういう最中、三月十一日の大震災が発生したのです。
 震災では岡部医院の職員さんも死んでいます。その職員は自分の受け持ちの九十幾つの人をケアしていた。「地震になって津波が来ると、そのまま逃げればいいのに、あいつ、また患者のところに戻ってその患者を二階に上げて、そのまま自分は流されたんだよね。なんでこの子は死んだのか」、そういう問いかけが先生の中で始まる。一体、人間というのは何なんだ、ああいう瞬間には、自分の命も人の命もないような、そういうところに、ぱっと行ってしまうのではないか。そういう考えがだんだん深まっていったようです。
 もともと先生はタナトロジー研究会というものを主宰しておられた、死についての学問です。人間の死をどのように考えるか、おのれの死、他人の死をどう迎えるかについての学際的な研究で、哲学者や倫理学者、宗教学者、お坊さんも含めて三十人くらい集まっていたでしょうか。その研究会での経験や自分自身に迫り来る「死」、大震災での出来事を通し死の側からもう一回価値観を組み立てるというか、死という最終点から文明を見ていこうという、そのような考えに行き着いたと思います。
 緩和医療の経験から、医学には限界があるということに気づいておりました。例えば霊的(心の)悩み、そういう分野に医者は対応できないのです。医者としての限界を知ったことで医療と宗教の間の大切なつなぎ役としての臨床宗教師がいたら、医療現場は助かると先生は考えた。なぜかといえば、宗教者は看取りの負のエネルギー、死に向かうエネルギーを祈りの力で自然界に、大きな命の中に拡散させていく力を持っていると、宗教者が被災地で活動する様子を観察し、そして確信したのだと思います。
 臨床宗教師の構想は震災後まもなく口にしておりました。「でも先生、ちょっとそれは早いな」と申し上げました。まず被災地の支援が第一でしたし、それに資金の用意、大学とのコンセンサスも出来ていない。しかし考えてみたら、先生の命は本当にわずかしか残っていなかった訳で、在宅医療の先駆者として看取りの現場で宗教者とタッグを組む。この仕事を終えて生から死に向かいたかったのだと思います。

 戸倉海岸での大震災49日追悼

東北大学実践宗教学 寄附講座の開設

 私たち僧侶のように代々同じ土地で活動している者は、地域文化だとか地域のスピリチュアリティというのでしょうか、あるいは固有の死生観というものが言葉で表現できないほどに体の中に染みついていると思います。幽霊を見たとか、お迎えが来たとか、どのお坊さんも経験したり聞いたりしていると思います。
 死に向かっているおばあちゃん。「おしょうさん実はさ、最近何年も前に死んだじいちゃんが出てきて何かしゃべっていたんだ。なに言っているかよく分からなかったけど」そのとき、「よかったね。じいちゃんはあっちの世界でばあちゃってっかもしれねえから、ちゃんと綺麗にしていかなくちゃな」みたいな感じでやるじゃないですか。そういうことを穏やかに言えるのは地域に根差した宗教者しかいません。看護師さんとか福祉の人ではできないことです。そうやって地元のお坊さんに手を握られたら、死にゆく人はもちろん、家族も安心するでしょう。そこが岡部先生の欲しかったところなんですね。宗教者は霊的ケアのプロであると、それを先生なりに認めてくださった。
 ただし、これは特定の地域社会の中ではそれで済みますが、臨床宗教師というのはホームグラウンドだけでなく、アウェーにも出ていかなければならない。また異業種である医療関係者や福祉関係と組むということを前提する以上、連携の仕方(ルール)を学ぶことが必要です。
 そこで臨床宗教師の養成プログラムを作成する為、キリスト教の臨床牧会教育の歴史、あらゆる分野のチャプレンの働き、医療チームの一員として関わる様々なスキルの研究、その現場での役割を創造できる感性の開発、更に布教活動と一線を引くための倫理綱領の作成、現時点で想定されるあらゆる研修分野について検討し、大震災の翌年四月、東北大学大学院文学研究科の中に、「実践宗教学寄附講座」を設置し、同時に臨床宗教師の研修がスタートしました。但しこれは完成されたプログラムではなく、研修を進めながら同時に日本の社会制度・宗教界の状況を研究しながら少しずつ変更を加えて発展させるものです。
 三年間という期限の限られた講座でした。幸い二年の延長が決まったところです。この三年の間、六回の臨床宗教師研修を行い、のべ九十五名の宗教者が研修を受けました。彼らはいま各地で活動を始めています。ただ寄附講座ということで、お金が集まらないことには存続できません。様々な分野の方々に寄付を募りに歩きました。実績も少なく海のものとも山のものともつかない講座に資金を提供してくれる組織・団体は本当に少なくて、何とかやりくりしているというのが現状です。
 しかしながら、医療界や福祉関係の方々らは私たちの期待以上に賛同の声を寄せて頂いております。確実に日本社会は新しい宗教の動きに注目しているのを感じます。
 命を賭して実現を夢見た岡部健医師。そして東日本大震災で亡くなった二万人の方々への想いが浄財となって世界中から寄せられました。その浄財に支えられている寄附講座です。この講座が更に続くことを切に願い、各方面からのご支援をお願い致します。