きぬけばける

若い時には死を考えたことも。
いろんなことがありました。
でもこの齢まで生きぬき生かされて、
今があります。

丸山劫外
まるやま・こうがい

埼玉県所沢市吉祥院住職。昭和57 年得度。
本師余語翠巌老師。早稲田大学卒業。
駒澤大学大学院博士課程後期満期退学。
曹洞宗総合研究センター元特別研究員。
著書:『中国禅僧祖師伝』など。


 この間、仏教青年会から送られて来た冊子を読んでいましたら、お経をあげても自分にはまだ神通力がないので苦しんでいる人を救えないのではないか、というようなことが書かれていました。それは、「まだ」ということではなくて、神通力がある必要がないのではないかと、思うのです。神通力のお持ちの方もいらっしゃるとは思いますが、老僧になれば神通力がでる、というようなことでもないと思うのです。
 未熟な私が言うのもなんですが、人間の私は、心をこめてお経をおとなえ致しますが、いつも仏界の仏菩薩の御助力をお願いしています。仏菩薩の神通力と言ってもよいでしょうか。自分の力で、あの世の人の苦しみを救おうなどと思わないで、私は、基本的には仏菩薩にお任せし、仏菩薩にゆだねながら、人間として力を尽くす、というように考えています。

夜の山中で霊が憑いた

 私は若いときから、断食行とか山越えの行とか、好んで行じてきました(本当はそのような行をすることの必要はないのですが)。あるときは、名古屋の桃源院というお寺の奥の院が、田峰というところのさらに奧にありますが、そこへ一昼夜、寝ないで歩いて行ったりもしました(後に本師となる余語翠巖老師は、奇しくもこの田峰のお寺のお生まれでした)。またこの奥の院の小屋で十日間の断食行などもしたりしました。人っこ一人いないし、電気もついていない山奥の山小屋ですから、最初の晩はさすがに心細かったものです。トントンと狸か熊か、尋ねてきた音がしたりしましたね。それでもお蔭様で一日に湧き水一杯だけは頂戴しての断食行を、無事に完遂することができました。
 その時から、雲は心の友となりました。空を流れる雲をただただ眺めていると、雲からも語りかけてくれそうで、「おーい雲よ」、と語りかけたほどでした。尼僧堂を送行(一般的に言うと卒業のこと)するときも、電車には乗らず、名古屋から長野、群馬を通って埼玉の師匠のお寺まで、歩いて帰ってきたのですが、その時もなかなか経験できないような、素晴らしい出来事を体験させてもらいました。
 尼僧堂に掛搭(修行道場に安居すること)した時が夏だったので、夏に二年の安居期間を終えました。暑い時期ですから、むしろ夜にかなり歩きました。三十年以上前の話で、今ほど世の中は物騒ではありませんでしたから、尼僧一人行脚などということができたのかもしれません。その時はお墓の片隅に寝かせてもらったり、お宮の軒先を借りて寝たりしました。最小限の荷物しか持っていませんので、新聞紙が掛布団です。暑い夏だからできたことですね。
 真っ暗闇から少しずつ夜が明けようという時のあの空の素晴らしさ、灰色から茜色に変わっていくときの雲の大パノラマの素晴らしさは、その後どこでも見ることはできません。それから、あるところでは蛍の群舞、山奥の夜道を歩いていまして、曲がりくねった山道を曲がりましたら、あたり一面蛍の光に囲まれました。とても幻想的でした。蛍の光の中を歩いて、さらなる山奥を行脚し続けたことは忘れられません。夜ばかりではなく日中ももちろん歩き続けましたが、根羽村というところで飲ませてもらった、竹筒で引いてあるお水のおいしかったこと。三十年も前のことなのに、いまだあの時の水のおいしさを思い出しますと、もう一度根羽村にあの水を飲みに行きたいと思うほどなのです。
 ある時は、ちょっと休もうと思って、道から外れた山の中へ入りましたら、周りを白樺の木々に囲まれて静謐な空間が開けていました。そこは本当に神々が集う森じゃないかと、思えるような場でした。思わずそこで祈りを捧げましたね。



 また、行脚をはじめた時からですが、道々、動物の死骸は全部土に帰させていただこうという願をたてました。ミミズだろうが、虫だろうが、鳩だろうが、蛇だろうが、蜂だろうが、まるで私を試すように多くの動物の死骸が道々あらわれたと、表現してもよいほどでした。ミミズ一匹でも土に帰して、また祈りを捧げるというそんな行脚でした。また、道で出会う全てのお墓でお経をあげさせていただくこともしました。雨の降りしきる中を歩き続けもしました。とにかく、二度とできない今よりはだいぶ若いころの経験です。

胸に聞こえる霊の声

 そういう行もしたりしましたから、やはり何かが憑いたのかもしれません。山神鬼神等に帰依するなかれと、道元禅師様はおっしゃっていますが、山の中にはやはり山神鬼神がいるのかもしれません。
 その後、得度の師、浅田大泉老師のお寺から、浦和にある空き寺に留守番で入るということになりました。そこに十年おりましたが、そのすぐ近くに先年お亡くなりになった長井龍道先生がお住まいでした。不思議なことに、長井先生と会う前に、長井龍道という名前と住所が私の手帳の中に書かれていたのです。なぜか、今でもどのような状況で書かれたのか、その記憶が戻ってこないのです。奇しき縁で、長井先生には、浦和での十年間、僧侶として生きていくためにいろいろ教えていただき、指導していただきました。先生も霊感の大変強い方でして、仏界を信じていらっしゃいました。なにより強い道心(仏道を求め、覚りに向かってすすもうとする心)をお持ちでした。この頃、住職としてつくづく思いますことは、道心こそ布教を支える力だと痛感しています。



 さて、霊的交渉の話ですが、浦和の空き寺に入りましてから、あの世の人たちがいつも訪ねてきて、いろんな話をするという体験をしました。その話は耳に聞こえるというものではありませんでした。それは不思議ですが、胸のあたりに声が聞こえました。苦しんでいる霊のほうが多かったので、その苦しみからどうやって抜け出したらよいかという相談といいますか、それに対し私が考え得る限りのことを話すわけです。あの世で、自分だけが助かろうとするのでなく、この世の人たち、自分に縁のある人たちに感謝したり、その人たちを守ろうという気を起こしたりするほうが、苦しみから救われるのではないか、というようなことを話した記憶があります。
 そんな体験の中に、踏切で交通事故に遭った娘さんがいました。私が毎月お参りに行く家の娘さんで、バイクを運転していた時、トラックに巻き込まれてしまったのです。娘さんの霊は、いつもトラックが来るという同じ場面で苦しむと、その苦しみから抜け出られないと言います。そういうものかなと、こっちも教えられたりして、でも、あなたはもうこの世には絶対帰ってこられない、だからそれを受け入れることで、かえって楽になるのではないかしら、というようなことを話しました。
 お母さんがいつまでも悲しんでいるのは、あなたがその苦しみの中にいて、きっとその苦しみがお母さんに伝わっているのかもしれません。お母さんに、安心してという気を送ってあげられるようになってください、もうこの世に帰って来ることはけっしてできないのですから、それを受け入れたらどうでしょうかと。そんな話を交わしているうちに、ある朝、私がその家のお墓の前で手を合わせていましたら、私の右腕がぐうっと上にもちあげられました。すごい力で、渦を巻くようにして私の腕が天に向かって上がっていくような感じでした。きっとお嬢さんは苦しみの中から抜け出られたなと、もう大丈夫だとその時、直感的に感じました。その後、娘さんの霊は一度も訪ねては来ませんでした。

 いつでも坐れるように置いてある坐蒲。たとえ5分でも

引導法語を大事にしたい

 そんな経験が具体的に幾つかありました。私は、今ではその霊的な交渉の経験をさせてもらったことは、僧侶として有難かったと思っています。
 法事の大切なこと、勿論、ご葬儀の大事なことを、実体験をとおして教えていただいたと思っています。人間は、亡くなれば、荼毘に付されてお骨だけになりますけれども、まだこの世に近いところにあると、それは昔からそう言われているわけですし、本当にそうだと思います。特に引導法語は大事だと考えています。亡くなっていく人に対して、この世で生きたことの称讃といいますか、本当によく生きられましたということをお伝えする。この引導法語ほど大事な法語はないだろうと思っています。
 それでも、その年までよく頑張りましたということと同時に、やっぱり残された遺族の悲しみもありますから、若くして亡くなった方であれば、両親に、それまで育ててもらったことに感謝申し上げ、四十九日の間はそういうことができるそうですから、そうなさってください、というような言葉も入れさせていただくときもあります。本当に未熟ではありますが、お見送りするお一人お一人に、それぞれの方にたむける引導法語を作らせていただいています。
 残念ながら自殺をなさった方のご葬儀もさせていただいたことがあります。老衰や病気をきっかけにお亡くなりになった方々と違い、自殺なさった人は死後も大変だろうと思うので、毎朝、朝課の時に観音様にお願いして、時には少し反省してもらいたいことや、悲しんでいるお母さんたちをお守りできるほどのエネルギーになってくださいとか、いろいろとお伝えしてもらっています。自死の娘さんの三回忌の時でした。その日の朝、自分の弟子になる人と朝ご飯を食べながら、いつも玄米なのにその時は珍しく白米でしたので、白米はおむすびにして食べるとおいしいわね、などとわざわざ言いました。
 そして法事の前に、そのお母さんとお茶を飲みながらの話のことです。「今朝、娘の夢を見ました。どういう話か分かりませんが、方丈さんと娘が新幹線に乗って、二人でにこにこしておむすびを食べていたのです」と言われるではありませんか。それを聞いて、私は、ああ、もうこの娘さんは大丈夫だなと感じたのです。

自殺したいと思っている人たちへの伝言

 つくづく二十代、三十代で自殺してしまうのは、もったいないと思います。勿論何歳でもです。それだけ純粋な人かもしれないけれど、だけどそれを乗り越えたら、また違う目で、いろいろなことを見ることができるのではないでしょうか。純粋に生きれば生きるほど、通り越した時に、あの時はああだったのだと分かることがあり、そのことのお蔭で、人生はさらに味わい深いものになるのではないでしょうか。
 私の話になりますが、なぜ、名古屋から行脚して帰ってきたかということを、この「曹洞禅グラフ」の読者の方に、正直話させてください。実は、尼僧堂の安居時代に、何回か起きたある事件の犯人に知らない間に仕立てられていたという事件が私を行脚にかりたてたわけです。今ではそのおかげで育てられたと思っています。三十年以上たった今でも、口外することははばかられそうですし、当時も尼僧の恥だからと、男僧の師匠にも一言も言いませんでした。
 しかし、どんな社会でも、思いがけない落とし穴もあり、死にたくなるようなことも渦巻いているということの一つの例として書かせていただくことをお許しください。でも、死なないで、どんなに悔しくても、生き抜くことだと思います。たった一度のこの命なのですから。そして、また、今、私は今まで経験したことの無い、さらなる難題を抱えています。一枚の書類の方が、人間の意志よりも強いという理不尽なことに直面しています。いかにしても寺を守りたいという私の意志、人間の意志のほうがいかに強いかということをかけて、裁判も辞さない思いでいます。人間の信頼の脆さをいやというほど味わっているのです。でも、死ぬわけにはいきません。もしあなたが人の裏切りにあって、苦しんでいるとしても、死なないでね、生きましょう。私も自分からは死にません。死にたいほどですが、時が流れ流れて死が訪れるまで、頑張って生き抜きましょう。
 でも、あなたに言いたい。頭で考えているだけでは駄目です。私が行脚したように、少しでも歩いたり、体を動かして、体中に「死にたい毒素」がまわってしまわないようにしなければ、死の誘惑には勝てないかもしれません。そうして、信頼できる人に相談に乗ってもらうことです。でも、もしも、もしも、一人もあなたを理解してくれなくても、天に向かって叫んでください。天はあなたの味方です。
 私は、そろそろあの世のお迎えが来るころになっても、人にしてよい親切と、してはならない親切が分からなかったという自分の至らなさが招いたことの代償を、今苦い薬として飲まされています。私も死にたいような経験をしていることを告白することで、少しはあなたのお役にたったでしょうか。



透徹した目と心をもちたい

 友人たちを見ていると、楽に生きているように見える人たちでも、話を聞いてみると、一人残らず何らかの苦労をしてきていますし、現にしている人もいます。いろいろな失敗もしていたりしますね。誰でも、人間である限り、到らないところがいっぱいあって、失敗もいろいろと重ねながら、でも、このままでは死ねないぞという、それですね。
 私自身もいろんな失敗をしてきました。さらに恥を申し上げますが、結婚を約束した人がいたのですが、婚約を破棄したことがあります。その方には、申し訳ないなと思っておりましたが、後に、その人は私と結婚しなかったことによって、かえって素晴らしい女性と出会ってご結婚なさっていることを知ったということもあります。この頃は、振られたとか、思いが叶わないと、相手の女性を、グサリとするような人もいますが、思いの叶わなかった相手は、自分にとって実は不適任だったということで、もっとピタリの女性に会うための通過点だったのよ、と、私は声を大にして言いたいのです。
 また、恋愛だけではなく、ある時に自分の思うとおりに道が開かなかったとしても、それはその人にとって長い目で見れば、その方がよかったということになることが多いものです。自分の思うとおりにならなくても、「腐らないで生きる」ということはすごく大事だと、若い人には特に言いたいのです。素直に引き下がったとき、かえってもっと自分にとって、素晴らしい道が開ける、ということを伝えたいと思います。
 私が大学を受験する頃は、受験戦争の激しい頃で、志望の教育大に落ちましたけれど、早稲田へ入ることになりました。そのお蔭で早稲田ならではの、交友関係が今でも続いていまして、私の宝です。映画研究会や馬術部にも籍をおいたこともあり、その当時の友人たちとも交流は続いています。鈴木さんや吉田さんや山田君という友もいますが、皆さんがよくご存じの吉永小百合さんは馬術部の一年先輩でして、今でも一年に一度はお会いする会があります。
 さらに、私の本師がご遷化されましたので、その末寺の住職をしていましたが、末寺にはいられないと見極めまして、駒澤大学の大学院にも入りましたし、曹洞宗総合研究センターの宗学研究部門という研究所に入らせていただくこともできました。ここでもまた道をお教えくださる素晴らしい法友に出会うことができました。宗研に入ったことによって、いろいろなところで文章を書かせてもらう縁もいただけました。人間の計らいを越えた何かがあると思います。一つの道が閉じても、別の道ありです。

 韓国の李青苑先生作。先生の作品は「ほほえみの仏陀」とよばれている

 道元禅師様は坐禅、坐禅とおっしゃってくださっていますが、道心のない方向違いの坐禅をしていては、かえって人間としての道を見失う場合もあるのではないでしょうか。常に聞法をしなければ、他との調和を欠いた頑固坐禅になってしまうかもしれませんので、気をつけなくてはならないと思います。今、私自身はなかなか坐禅する時間がとれません。でも常に坐布を身近に置いて、気楽に坐れるようにしてあります。時間があった時に、さっと坐禅するようにしています。しかし、坐禅よりも、いつも長靴をはき、日焼けしないように帽子をかぶって、境内を跳び歩いています。
 自分の僧侶としての最後の勤めとして、住職をまかされたお寺をいかにして護持し、維持し、運営していくかということに、いつも心を砕いています。さらに百歳の母の介護、七匹の猫の家族の世話、掃除洗濯炊事の日常、さらに加えて今は降りかかってきた難題と戦いながら日々を送っています。
 ある程度本音を語らなければ、読者の方々にとって、お役に立たないのではと思い、恥をさらけださせていただきました。皆様は私のような愚かなことはなさらないと思いますが、なにがあっても最後まで生き抜きましょう。それでこそ、死にきれると言えると思うのです。皆さん、頑張りましょう。