読者からの質問に答える(3)
嫁としゅうとめは最高の修行相手
古今東西、なぜか嫁としゅうとめは仲の悪いものと相場が決まっているようです。でも、一体それはなぜなのでしょう。どうしたら嫁としゅうとめは仲良くなれるのでしょうか。読者の川端雅江さんとそのお嫁さんの高子さんの質問に、今回は愛知専門尼僧堂堂長・青山俊董師に答えていただきました。
青山俊董
昭和8年、愛知県生まれ。
駒澤大学大学院教化研修所を経て、51年から愛知専門尼僧堂堂長。
人間はみな自分がかわいい
読者(しゅうとめ) 私は子供のころ、お嬢さんお嬢さんと言われて育ちました。そのせいか、この年になっても、我が強くおごりの強い性格が直りません。どうしたら落ち着きのあるやさしい人間になれるのか教えていただきたいと思っております。
青山 今、日常生活で気にかかっていることがあるのですか?
読者(しゅうとめ) はい、じつは嫁としゅうとめの問題なんですが…。
読者(よめ) 私が家の次男の嫁です。母と同居しているのですが、ほんの三日ほど前にも、私は私なのだからとお母さんの言うことを撥ね付けて、口も利かなくなってしまいました。内心では、いがみ合いたくはないのです。不満を口に出してしまった瞬間はいいように思うけど、その後が苦しい。傷つけたくないのに、つい自分の感情だけで乱暴な言い方をしてしまったりするのです。
青山 人は誰でも、自分が一番かわいいものです。それはどうしようもなく強い本能です。人間はみなどろどろの我愛(エゴ)のかたまりなんです。嫁しゅうとめの関係に限らず、その我愛が満たされなかったとき、人間はさまざまな問題を引き起こします。わが身がかわいいという思いが傷つけられたり無視されると、ぐずって、仕返しをしたり相手を傷つけてしまう。実際、世間のいろんな問題を深く見据えてみると、国家問や宗教同士の紛争にいたるまでみな、人間のそうしたエゴが根底に横たわっています。
わが身を試しとして
読者 ほんとうにそうだと思います。そういうどうしようもない我愛を、私たちはどんなふうにしたらなくせるのでしょうか?
青山 仏典にこういうお話があります。お釈迦様の在世中のことですが、お釈迦様の熱心な信者だったパセーナディ王が、ある日しみじみと自分を振り返って、妃のマッリカにこう言うんです。「振り返ってみると、私は誰よりも自分が一番かわいい。わが子やおまえを愛しているといっても、最後ぎりぎりのところでは自分よりかわいいものは見いだせない。お前はどう思うか」と。するとマッリカもまた、「私もやはり自分が一番かわいいのです」と答える。そこで二人は、不安になって考え込んでしまいます。そういう気持ちをもつのはお釈迦様の慈悲の教えに反しているような気がしたからです。そこで二人は祇園精舎へ行って、お釈迦様にこのことを申し上げます。すると、お釈迦様は、こうおっしゃった。「あなた達の言うとおり、人はだれでも自分よりかわいいものを見いだすことはできない。まずそのことをごまかさず、しっかり見据えなさい。それが修行の第一段階だ」と。
読者 自分が我愛のかたまりだと見据えるのがどうして修行なのですか?
青山 人間にとって自分のエゴが満たされないということは苦しいことです。そこで、邪魔をするものに仕返しをしたり傷つけたりしてしまうのが常です。そうではなく、その苦しみをじっと噛み締め味わう。傷つけられた悲しみ、無視された痛みを大事にする。その痛み悲しみの重さをごまかしてはいけないということです。それをしっかり味わうことによって、自分だけではない、人間は誰しも自分がかわいいのだ。他人を傷つけたり無視したりすると、私がそうであったように、相手は深く傷つき苦しむ。自分が傷つけられたくないように、あの人もこの人も傷付けられたくないのだということが分かる。お釈迦様はよく「わが身を試しとして」とおっしゃっていますが、自分の身になって相手を思いやる。それが修行の第二段階です。
我愛を転じて慈悲に
そして最後の段階は、だから己をいとおしむ者は、他を害してはならない、不殺生、不害を実践しなければならないという仏教の慈悲の精神にいたるのです。仏教の慈悲は、たんに人にやさしくしましょうといったものではなく、ひとりひとりの本能である我愛、自分が一番いとしいという思いを転じることによって得られるものだということです。この厳しさが仏教の深さなのです。
読者 我愛を転じて慈悲とするというのは、先生のご本にあった泥中に咲く蓮の花を連想させます。
青山 そうですね。蓮は泥の中から、あの美しい花を咲かせる。私たちは泥は汚いといって嫌うけれど、泥がないと蓮は咲かない。ですから泥が大事なんですが、かといって忘れてはならないことは、泥イコール蓮の花ではないということです。私たちはエゴという泥をきらいます。家庭の中でも、夫婦、親子、兄弟、嫁しゅうとめの間に、しょっちゅう泥が渦巻いている。できれば目を覆って逃げ出したい。あるいは自分自身の中から吹き出してくる泥もある。人間は条件次第ではどんな犯罪でも起こしかねない存在です。あるいは国や社会に渦巻いている泥もある。しかし私たちは、泥を嫌うのではなく、それを質的に大転換させて花を咲かせなければならないのです。
たとえば、『次郎物語』を書いた下村湖人に、こういう詩があります。「あなたと私は、バラの園を歩いていた。あなたは言う、バラは美しい、けれどもとげがある。私は言った、バラにはとげがある、けれども美しい」。
一本のバラを見ながら、ひとりは、バラは美しい、けれどもとげがあると、とげの方に目を注いでいる。一方は、バラにはとげがある、けれども美しいと、美しい花の方に目が注がれている。この詩の言いたいことは、何にでも誰にでもいいところがあるのだから、いいところを見ていこうではないかというのが一つでしょう。
ですが私が、もう一つ、この詩で見ておきたいのは、とげを出すエネルギーも、花を咲かせるエネルギーも、命のエネルギーとしては一つなのだということです。別なものではない。角を矯めて牛を殺すようなことをしてはならないということです。欲というものもイコール悪ではない。欲を自分の方にだけ向けてエゴになるとき、それは煩悩になる。ところがその欲がすべての人を救おうという誓願の方に向きを変えたとき、これが仏・菩薩になる。煩悩即菩提(悟り)ということばもあるようにそれは、どちらも同じエネルギーなのです。もちろん、ここでも忘れてはならないのは、泥イコール蓮の花でないように、煩悩イコール悟りではないということです。煩悩をなくせば悟りが得られるとふつう考えがちですが、そうではなく煩悩を転じたところに悟りがある。蓮田の泥と同じで、煩悩のないところに悟りもないのです。
転ずるということの意味
読者 その転ずるというところがむずかしいですね。
青山 百八の除夜の鐘をつくといいますね。百八は人間の煩悩の数、夜は正しい教えの光に照らされないための闇の人生を象徴するわけですが、そこで大切なことは、除夜といっても除いてしまっては駄目だということです。夜、つまり煩悩、泥ですね。それを嫌い除いては駄目なんですね。泥が大切。これを質的に大転換して肥料にすることにより、みごとな花を咲かせよの教えが、泥中の蓮華の教えです。そこで問題は転ずるということですが、それには教えに、光に出会わなければ転ずることはできません。
仏教は因果論といいますが、因と果だけではない。縁が大切。縁を変えることで果は変わる。たとえば草木染めをするのにスオウという同じ材料を使っても、縁としての培染を灰にすると赤色に染まり鉄ですると紫色になるんです。ちょうどそのように、苦しみという因は一つ。むしろこの苦しみのお蔭でアンテナ が立ち、教えに出会う。教えを伝える人に出会うこと、これがよき縁ですね。これによって泥が転じて肥料となり花を咲かせ、闇が転じて光明の正月を迎えるというのですね。
昔は恚Cづけよ揩フ仏からの贈り物と気づかして頂けたとき、苦が拝める。そのとき苦は光明を転じているといえましょう。
読者 すばらしいですね。転じるというのはそういうことなんですね。
青山 お嫁さんもしゅうとめさんもお互いにこの世でめぐり合った最高の修行の相手なんですからね。
読者 ありがとうございます。私たちもぜひきれいな花を咲かせていきたいと思います。