道元さまの思い出(19)
孤坐淵黙の一生 その一
――いのち燃え尽きようとも
歴史ルポライター 深見六彦
この連載もいつの間にか五年近い歳月が流れた。春の坐禅岩を訪ねたあの日から、寂円とともに道元禅師のエピソードを拾いながら師弟の深い心の絆を語ってきたが、気がついてみると、寂円も九十歳を迎えようとしている。寂円の人生を一言でいえば、独りぼっちで静かに坐す――孤坐淵黙の人生といえよう。
宝慶寺は苦行の伝統を絶やすことなく続いてきた修行寺である。いわゆる私たちが考えるふつうのお寺ではない。無檀家で周辺には人家もなく、まさに修行だけに明け暮れる寺である。その修行も生半可なものではない。とくに豪雪に埋もれてしまう冬季は、それこそ身を切るような厳しい修行が四か月も続く。如浄禅師から道元禅師、そして寂円禅師へと受け継がれた只管打坐の精神は、今でも宝慶寺に息づいている。
大自然のなかにひっそりと存在するこの宝慶寺の法灯を、今日まで引き継ぐことができた最大の功労者は、第二世義雲の努力であろう。義雲は伊自良一族の出身といわれる。道元禅師が入寂された建長五(一二五三)年十二月生まれというのも不思議な縁を感じる。比叡山での修行を経て建治二(一二七六)年、二十四歳の時に寂円の弟子になった。晩学といえよう。そのとき寂円は六十九歳。妥協を許さない寂円の厳しい坐禅修行の噂は比叡まで届いていた。義雲は仏道の真を寂円のもとで学びたいと思った。宝慶寺を訪ねて入門を乞う義雲をじっと見据える寂円の脳裏には、如浄禅師の前で頭を垂れる道元禅師の姿がだぶって見えるのだった。以来二十数年、義雲は寂円の傍を片時も離れたことはなかった。
その年は春が近くなっても雪が降り続いた。例年だと少しずつ雪が融け始めようというのに、かえって積雪量が増した。寂円は八十九歳になっていた。さすがに体の衰えは隠しようも無く、坐禅岩までの山道は義雲が背負った。雪が降り続くと坐禅岩は小さな雪山に変身する。時間を定めて犬吉や牛兵衛が除雪するのだが、それでも寂円がすっぽりと雪のなかに埋まってしまうこともしばしばあった。そのようなとき、掘り出された寂円は仮死状態になっていて、みんなで寺まで担いで運び、ぬるま湯を張った桶に身を浸してそっと体をさすって、体温を上げなければならないほどであった。
永仁三(一二九五)年のその日も、松明をかざして義雲たちが夕闇濃い坐禅岩に辿り着くと、そこは大きな雪山になっていた。横殴りの吹雪の中を掘り進むと、寂円は坐禅行の姿のまま凍っていた。「お師匠さまああ〜」という義雲の叫び声が雪に吸い込まれて消えた。
寂円でございます。
ずいぶん永く生きてきたものだなあと思います。中国洛陽で生まれ如浄さまのもとで学んだのち、道元さまに弟子入りして日本国へ来て以来、たくさんの方々と喜怒哀楽を分かち合ってまいりました。しかし、すでにその方々とこの世でお会いすることはできません。やはり永く生きすぎたのでしょうか。道元さまはじめ如浄さま、波多野義重さま、伊自良知俊さま、懐奘さまたち、そのほか多くの人が待っておられるあの世とやらに、そろそろ旅立ちたいものでございます。
寂円は弱気になっていた。あの日以来体調は悪化し、この数年は床の上に坐るのでさえやっとであった。弟子たちの献身的な介護を受けてはいたが、高齢からくる体力の衰えはいかんともし難いことであった。自分自身を思うようにコントロールできない歯がゆさで、寂円の生への執念は燃え尽きようとしていた。
(以下次号)