お葬式を考える

佐々木宏幹
駒澤大学名誉教授・文学博士

1930年、宮城県生まれ。
66年、東京都立大学大学院博士課程単位取得満期退学。
曹洞宗総合研究センター主任研究員。


須田道輝
曹洞宗 天祐寺住職

昭和4年、茨城県生まれ。
24年、沢木興道老師に就いて出家。
31年、駒澤大学仏教学部卒。
水野弘元師に嗣法。



葬式で死者を送る、その死という現実、人間は必ず死ななければならないという恐れから、慈しみの文化が発達しました。そういうものから人間は感情を乗り越え、理性的にものを考えるようになりました。知の文化、情の文化は、お葬式なしでは考えられない由縁です。


お寺と自然、心の結びつき

佐々木 序論として考えますのに、このごろ若いお父さんお母さんが増えてきました。それで、特に二十代から三十代のお父さんお母さんですと、日本の伝統的な文化のオリエンテーションがうまくできていません。子供が非行などの行動に出たときに、どうやってたしなめていいのか分からない。そういう状況になっているようです。
 例えば、十代半ばの多感な子が人を殺して、人が死ぬのを見たかった、というような事件も起きています。人の首を母校に飾るという事件が起きたりしています。それは異常で例外的な事件かというと、その予備軍がどうやらたくさんいるようです。新聞の社会欄を見ていたら、子供から「お父さんお母さん、人を殺して何で悪いの。嘘をついて何で悪いの」というような質問をされて、両親は困った。「悪いのは悪い」と言ったら、「全然答えになってないよ」と、子供の方が冷静に「人を殺して何で悪い、答えられるなら答えてみろ」と言ったという話です。そのあたり、これは東京だけの現象なのか、それとも須田老師の住んでおられる諫早のような地方においても、そういう子供の問題は目につくのでしょうか?

須田 いや、それはもう、私たちも毎日の生活の中でそういうことを聞いたり、またテレビで放映されたりして十分知っております。田舎の方でも、やはりこういうような現象が起こりつつあります。ただ、私が田舎に住んでいてとてもいいなと思うのは、自然との触れ合いがあるということです。命の触れ合いがあるんです。それがやはり人間に、無意識的に影響を与えているのではないでしょうか。

佐々木 おっしゃる通りです。

須田 都会というのはすべてが人造です。私は、合理主義というのはエゴだと思います。例えばAからBまでという距離の中で、まっすぐ高速道路で行って、ただ早く安く着くという、そういう目的だけ。それはエゴだと思います。合理性というのは大変いいような言葉ですが、よく考えてみれば知性のエゴです。なるべく早く、無駄を全部省いてしまって到達しようという、そういう意識だと思います。
 合理性というものはすばらしい、科学的に割り切るのはいいことだということで、人間はそこに何か優越感を持つんですね。都会と田舎で、やはり都会の人は優越感を持っています。田舎は合理性が薄く人情に厚いから、劣等感を持っているわけですよ。しかし、あまりにも合理化された人生観は、もうお金で何でも買うという合理主義になって、そういうものが子供たちにも非常に影響を与えたんじゃないかと思います。

佐々木 非行児が出てくるとか、両親が子育てに自信が持てなくなる。その基盤には、大都市ほど自然がなくなって、自然のさまざまな生き物に触れて学ぶ機会がなくなったということですね。これが一点だろうと。それから、地方には自然があるのだから自信を持てばいいのに、地方の人は大都市のような合理主義がいいというような社会感を持っている。その総和が、今みたいな教育への影響にも出てくるということですよね。
 今でも自然を、普通の生活のレベルより多く持っているのは、お寺とお宮だと思います。そこではセミが鳴いていたり、雑草が茂っていたりします。そういうお寺を子供のために活用するということを、もっとしていいんじゃないですか。

須田 そうですね。それはもう大事なことだと思います。私のところもやはり山の中のお寺ですけれど、境内だけは昔のままにしておこうと考えています。一時「ふるさと運動」というのがありました。しかし、「ふるさと」というのは一体どこだろうかとも思う。例えば諫早に戻ってきたら、もう立派なビルができていたりして、変わってしまっています。その中で変わらないのが、お寺と神社です。ふるさとの原点というのは、そういう歴史のつながりのあるところです。私は、お寺に来た人が、何十年ぶりで来たけれどもそのままだった、何かほっとするという、そういう空気を感ずるということを心掛けているんです。それには、やはり子供がなるべく来てくれるお寺でなければいけない。ですからうちでは、施食会のときにはご飯を出すんです。簡素な食事ですが、それで来る人は家族全部で来るんですね。子供もいっぱい来るんです。

お寺は仏さん、ご先祖を拝んで 心の感性の奥底で感じさせる場

佐々木 ああ、いいですねえ。

須田 その子供たちは檀家の内孫外孫やその友だちが多いんです。それでも、ご飯を食べたら、もうお祭りが楽しみで、町へ飛び出して行くんですよ。それがとてもいいことと言いますか、大変うれしく思っています。だから、子供の来るのをものすごく歓迎しているんです。多分そこに、お寺との繋がりが出てくるんじゃないだろうかと。

佐々木 それから、お寺さんというと、やはり仏様とお葬式の問題があります。お寺にはお墓があります。環境が整っているだけではなくて、お寺は仏さんや先祖さんのいる場所でもあるということで、先程の環境と結び付いた重要性がありますよね。

須田 そうですね。お寺と一般の人々の心の結び付きというものをいかにするか。それが、これからの課題だろうと思います。人情とか何かというよりも、何かもっと別の、自然を背景にした触れ合いというものが大事な感じがします。

佐々木 お寺というと、保育園や幼稚園を開いているところも多いですね。そういうところでは、子供に対して合掌の仕方とか、ののさまの意義というものを教えています。そのときに、更にまた、まだお寺には残っている自然からも学ぶことができる。幼稚園・保育園というのは、さっき言ったような「人を殺したり嘘をついて何で悪いの」というような問いに対して、それは「悪い」ということを理屈で教えるのではなくて、仏さん、ご先祖を拝んで、その事をどこか心の感性の奥底で感じさせる場です。そういう意味では、保育園や幼稚園の役割というのは非常に大きいと思いますね。

須田 そうですね。子供の時に何か教えないと。だからうちでは孫なんかに、手を合わせることをまず練習させるわけです。

佐々木 いいですねえ、それは。

須田 合掌するという姿を、不自然でなく自然にできる。そういう環境を育てたいなあと思うんですよ。

葬儀がヒトの知を生み出した

佐々木 私どもは仏教ということになると、すぐ縁起や空などという教理を頭に置いてしまいます。その教理の仏教に対して、現場の仏教、生活化された仏教というのがあります。民族によって違いますけれども、例えばタイやビルマの仏教は功徳を積む仏教ですから、一生懸命功徳を積んで、来世はいいところに輪廻転生したいと考えます。それに対して日本人は、亡き両親であるとか祖父母を仏さまのもとに送って、そこで安心していただくということが仏教の役割でした。仏教への道案内の役を葬式がしたと思うのですが、どうでしょうか。

須田 そうですね。私も若い頃は、もう坐禅以外は非仏教なんだ、お釈迦さまの教えではないんだと思っておりました。けれども民衆と触れることによって、むしろそれは逆だと考えるようになりました。例えば現代の中国では、生活禅というものが起こっています。生活に密着しない禅は形而上学的な禅に過ぎない、という反省から生まれてきています。
 私は、「菩薩禅」というのを高揚しなくてはいけないと思っています。今まで私たちが道元禅師から代々伝えてきた精神は「如来禅」「祖師禅」です。如来禅はいかなる禅よりも高いんだという意識できたわけです。それはいいんですが、いざ民衆、人間、現実の自分自身を考えたとき、すくなくとも私は如来禅にふさわしい出家者ではないと思います。だから「菩薩禅」というものを考えています。そういう意味の一つとして、葬式というものはあるのではないでしょうか。ですから、お経を唱えた後、私のところでは五分間でも瞑想させるわけです。それで読経と坐禅をミックスしています。

佐々木 お坊さんが布教するにしろ寺院の経営に当たるにしろ、只管打坐を基盤に置いた如来禅は、自己のためには大事ですよね。しかし、あらゆる檀信徒に如来禅をしなさいと言っても、職業を持っているから無理です。そうすると、「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願する」という、大乗菩薩の願いに立った菩薩禅が必要になってくる。その菩薩禅と、心からお葬式を主祭するお坊さんの姿とは重なるということですね。

須田 そうです。葬式禅といいますけれども、例えば、ネアンデルタール人がお葬式をしたときに、花束を捧げたという。私、それを知りまして、いわゆる慈しみの文化の発生だと思っているんです。

佐々木 そうなんです。慈悲なんですよね。

須田 それと同時に、やはり葬式をしていますと、毎回毎回、葬式をするたびに死者に出会っているわけです。その時に、人間というのは、死というものを考えたために知の文化が生まれたのではないだろうかと、ふっと考えたことがあります。葬式で死者を送る、そこで慈しみの文化が発生し、死という現実、人間は必ず死ななければならないという恐れ、そういうものから知性というものが発展した。だから、知の文化、情の文化も、これはお葬式なしには考えられないことじゃないだろうか、と。

佐々木 確かにそうですね。お坊さんは生身の死者と出会って、余人にできないことをしてあげる。その専門家だろうと思っております。ところがこのごろ、死がだんだん見えなくなりました。昔の子供たちは、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがだんだんと青ざめてきて、がくんときた。何だろうと思ったら、辺りの人がわあっと泣く。それを見て、死んだんだ、亡くなったというのはこういう状況なんだということを見る機会がありました。それが今は病院が間に介在し、機会が失われてしまいました。そのあたりはどうでしょうか?

須田 やはり田舎でも、葬祭場ができたために、僧侶ですら直接死と出会わないんですね。昔だったらお墓まで行って、埋めるところまで見ているわけですが、そういうものがなくなった。何か汚いものでも何でも、飾って美しくしようという飾る文化になってしまいました。覆い隠して、ただ涙を流すというだけで、本当に死と出会っていないんですね。観念的な涙で終わらせてしまっている。

佐々木 そうなんですね。今、難しいのは、死が見えなくなったということだけではありませんね。近代的知で見てしまうので、もう死んだらチャラになって、何にもないと、教育の中であまりにも教わり過ぎています。それが「人を殺して何で悪いのか。死んだらみんな終わりじゃないか」ということに繋がってしまう。葬祭文化はそうではなくて、死んだ人も、また延長してあの世での生活がある、という考えです。この世で不幸だったかもしれないけれど、あの世では幸せな生活を送って下さいという、慈悲の心、願いが葬式という営みになるんです。そこに葬儀社が入ることによって、それからお坊さんが何か手段化されることによって、だんだん本来の機能が果たせなくなったとすれば大問題だと思うんです。

須田 大問題ですね。葬式の形がいろいろ変わってきているでしょう。都会なんかでも、音楽葬をやってみたり、友人葬をやってみたりという。お寺としての役割も、だんだん薄められてきているような感じがするんです。

佐々木 人間だけがあの世とこの世というものを区分していく。あの世というものを発見したことによって、人間の知も発見されたのではないか。この視点に、私は大賛成です。ネアンデルタール人は、死んでもなお花を上げれば、死者は喜んでくれると思った。ということは、彼らは既に猿類じゃなくて、人類になった。その証拠がそこに出てきているわけなんですね。あの世とこの世を発見したのは知である。人間が人間らしくなったのは、死者を葬ることによって初めて知が開発された。ですから、我々はこの世だけなんだ、この世でいい生活さえすれば死んだ者はどうだっていいという、そういう文化が、冒頭のような子供たちや、おかしな社会を作ったと思いますね。

須田 そうですね。表の現象だけをとらえれば、現代は豊かになりました。しかし人間に厚みがなくなったわけです。やはり一くわ掘れば土、表面だけではなくて、大地にそういう層があるということ。宗教家は、その地中に相当する部分を教えていかなければいけません。

佐々木 ええ、本当にそうです。