平成十七年 謹賀新年
大本山永平寺貫首 宮崎奕保
光陰は逝水に似たり
(こういんは せいすいに にたり)
みなさま、あけましておめでとうございます。「年々歳々人不同」と申しますが、今年も又百五歳という新しい年を迎えることが出来ました。老衲、常々申しておることですが、道元禅師さまの仏法は仏教ではなく仏道です。
お釈迦さまのお示し下さった天地宇宙の真理の教えが仏教であることは誰でも知っています。しかし教えを頭で理解し、知識として知っているだけではそれは観念の仏教です。「教え」は何の爲にあるかと言えば、実行する為にあります。その実行の姿が「只管打坐(しかんたざ)」です。中にはこの忙しい時に、手を組み足を組んで黙って坐っているのは時間の無駄だと思う人もありましょうが、そういう人程、時間を何の為に費やしているのかと言えば、私利私欲の為に費やしているものなのです。道元禅師さまは私利私欲が起こったら「妄想に坐禅させる」と言われました。体をととのえ、息をととのえて坐って下さい。やがて妄想が負けてどこかへ行ってしまいます。私たちの心はいつも小刻みに揺れ動いています。これを念と言います。今という字に心と書いてあります。『正法眼蔵有時巻』に、道元禅師さまは「存在するすべては時間である」と説いておられます。「今今と今を求めて今は無し。まというときはいはすでになし」。私たちは今を生きています。人間の寿命もこの一念の中にあります。これを無常と言います。動きづめに動いてます。常という一瞬の隙間もありません。どうぞ、たとえ三分でも五分でも、坐って下さい。時間と空間が一つになって仏道を行じていく、それが坐禅です。
大本山總持寺貫首 大道晃仙
常坐其中
(つねに ごちゅうに ざす)
謹んで平成十七(二〇〇五)年の新春をお祝い申し上げ、皆さまのご多祥を心よりお祈りいたします。
私たち人間を含むもろもろの存在は、仏法という真実によって貫かれ、そのはたらきの中に生かされています。「其中(ごちゅう)」というのは、仏法のその大きなはたらきのことです。言葉による説明ではこのはたらきそのものを十分に言い尽くせないために、「其中(そのなか)」と表現します。
「如是(かくのごとし)」「恁麼(このように)」などの禅語も同様の表現の言葉です。
また、墨絵によってこのはたらきを表すと円相(えんそう)になります。
坐禅とは、個人の小さな計らいを投げ出して、全身心をその大きなはたらきにゆったりと任せ切ることです。「一切の妄情を断絶し、一実の真心を現成せば、迷雲収り晴れて、心月新たに明らかならん」と太祖瑩山禅師は、『坐禅用心記』の中で坐禅のすばらしさを端的に示しておられます。
頭だけで物事を理解する姿勢とは遠く掛け離れたすがたです。ぜひよく味わってみて下さい。
皆さまにとって、本年がよい一年であることを重ねてお祈りいたします。