読者からの質問に答える(4)
私たちはすでに仏様の世界に生きている!
前回に引き続き、愛知専門尼僧堂堂長・青山俊董師に答えていただきます。質問者は名古屋市在住の木村初子さんと川端雅江さんです。
青山俊董
昭和8年、愛知県生まれ。
駒澤大学大学院、教化研修所を経、51年から愛知専門尼僧堂堂長。
著書『般若心経ものがたり』彌生書房他多数。
老いをどう迎えるか
読者 私も老いを意識する年齢になってきました。どんな心がまえで老いを迎えたらいいのでしょうか。
青山 人生の最後にどういう事態が待っているかは、誰にも分かりませんね。私の知り合いの絵描きさんは奥さんを先に亡くされて、独りぼっちで、しかも最後は目が見えなくなり耳も聞こえなくなった。モグラみたいな生活ですとおっしゃっていたけど、つらかったと思いますね。しかし、それをちゃんと受け取って、ぐずらず姿勢を正していかなくてはいけない。誰しも人生の最後に一番厳しい修行が待っているのです。
考えてみれば、人の一生というのはいろんなおもちゃを持ち替え持ち替えしながら気を紛らせているようなものです。幼児のころはガラガラで遊び、少し大きくなると機械遊びとか自動車遊びとかスポーツとか趣味をおもちゃにする。あるいは異性がおもちゃの対象になることもある。成人すると今度は金儲けや出世、ときには学問的な研究がおもちゃになる。中高年になると名誉とか権力というおもちゃを追い求める。人間の一生はおもちゃ遊びです。
それでも、おもちゃを持ち替え持ち替えして、紛れているうちはまだいい。しかし、人生の晩年にはどんなことをしても紛らすことができない、一切のおもちゃを取り上げられる日が必ず来るわけです。いやでも自分自身と向き合い、自己と対決しなければならないときがくる。そのとき初めて、人間が本当の意味で深まるのです。ですから常日頃から、すべてのおもちゃを放り出して、自己と対話する鍛錬をしておくことは大切です。
読者 それは坐禅の精神とも通じるものでしょうか。
青山 そうです。道元禅師は、「仏道をならうというは自己をならうなり」とおっしゃっています。わがままな日常の私を自我といい、教えに照らされた真実の自分を自己という。その自我と自己との対話が大事だということです。
読者 私は無性にいらいらした時は鏡を見ます。そしてあなたはどうしたいのって、私自身に聞くんです。何でいらいらしているのか一生懸命考えるんです。そうすると原因が分かって、それは自分のわがままだと気づく。そして自分に向かってむちゃくちゃひどいことを言うんです。するともう一人の私がしゅーんとなって、すみませんというんです。
青山 いいですね。自分と自分との対話というのはとても大事です。
聞くということの難しさ
読者 私は生涯学習アドバイザーというボランティア活動をさせていただいています。カウンセリングの研修会でもまず自分と自分の対話をするということを教えられました。そして次にはクライアント(相談者)のお話にひたすら耳を傾けるのですが、その「聞く」ということがまた難しいのですが。
青山 そうですね、カウンセリングというのは、どう聞くかということにすべてがかかっている。まず自分が空っぽになって聞かなければいけない。でも、それがなかなかできない。それについてこういう話があります。ある雲水が修行の悩みを訴えて禅師の部屋を訪ねた。禅師は雲水にお茶をふるまってお話をされていた。ところがそのうち、ふと話をやめて、まだお茶がいっぱい入っている茶碗にさらにお茶を注ごうとされた。雲水がびっくりして、「禅師様こぼれます」と言ったら、禅師は、「まずそのお茶を飲み干せ。お前の頭は自分流のものの見方でいっぱいだから、人の話を聞くことができない。まず空っぽにしろ」とお叱りになった。これが第一段階ですね。
そして次には「聞けないと聞け」ということがある。奇妙な言い方のようですが、澤木興道老師がこういう言い方をされた。どういうことかというと、たとえば耳の不自由な人が立ち聞きをするということがある。自分は聞くことができないのだと自覚していれば立ち聞きをしようなんて思いません。ところが聞こえないのに聞こえると思っている人は立ち聞きをしようとする。そして何でも自己流に聞いてしまう。あの人が悪口を言ったとかいってひがむ。私たちは自分にほんとうに聞く耳が備わっているかどうか、まず考えなくてはならない。聞いていると思っていても、じつは自分勝手な聞き方しかできていないことがほとんどなのです。
道元禅師は、「お師匠様が法を説いくださっていたころ、自分にはそれを理解する耳も目もなかった。年月が過ぎて、ようやく耳と目が備わったときにはもうすでにお師匠様はこの世におられない」といって嘆いておられる。道元禅師にすらこの嘆きがあるのです。澤木興道老師は大事な教えは繰り返し繰り返し耳鳴りがするほど聞けとおっしゃった。しかも何度聞いても初めて聞く思いで聞けと言われた。これは難しいことですが、そのくらい「聞く」ということは大変難しいことなのです。
『般若心経』の功徳と真意
読者 最後に、『般若心経』についてお伺いします。主人の母ががんで余命いくばくもないという時に、ある人が晒に『般若心経』を書いてお見舞いに下さったことがあります。それを患部に当てて、『般若心経』の功徳で痛みを取って下さいとお祈りしたら本当に痛みが和らいだということがあります。『般若心経』に書いてある「色即是空」といったことばは難しくて私にはよく分かりませんが、こうした功徳をどう考えたらいいのでしょうか。
青山 そういう具体的な行為を通して、人間の心の持ちようが変わることは確かにあるでしょうから、それはそれでいいとは思います。しかし、『般若心経』の精神を一言でいえば、たった一度の人生を、仏様の光に導かれることによって最高に幸せな生き方をしましょうということです。
もう少しくわしく言いますと、『般若心経』は正しくは『摩訶般若波羅蜜多心経』と言います。「摩訶」は「大、多、勝」などと訳され、「般若」は仏様の正しい智慧、「波羅蜜多」は「到彼岸」つまり「彼岸に到る」と一般には訳されています。しかし、修行してボツボツよい世界、理想の世界、仏の世界にゆくというのではなく、始めからそうなっている世界、気づく気づかないにかかわらず、始めから仏の大きな手の真只中、彼岸の只中にあっての起き伏しであったんだと気づくということでしょうね。
最後のほうに出てくる「羯諦羯諦」ということばも同じです。これはサンスクリット語をそのまま中国語に音写したものですが、この「羯諦羯諦」は未来形と過去形の両方の訳があります。未来形は、「さあ素晴らしい世界へ行きましょう行きましょう」となりますし、過去形は「素晴らしい世界へすでに行っている」となります。本来、文法的には過去完了形ですから、すでにそうなっているということでしょう。どちらも大切ですので、私はそれを「授かりに気づく」と訳しています。すでにそうなっていることに、ああ、そうであったかと気づかせてもらうのです。
ところが、私たちはそれに気づかない。仏様の世界、悟りの世界などというのは、どこかはるか遠くにあるものだと思っている。そして日々、自我(エゴ)を振り回して周りを傷つけ、自分自身もますます苦しみの人生を重ねていく。
ではどうしたら、私たちはすでに仏様の世界、悟りの世界の只中に生きているということに気づかせていただけるのか。それには先程来、お話に出ているようにまず「聞く」こと。仏様のことばを何度も何度も聞く。そしてつぎに「自分との対話」ですね。仏様のことばを「聞く」ことによって、自分のなかに自我とは別のもう一人の真実の「自己」が芽生えている。その自己と対話する。そして仏様に引っ張っていただいて、今ここを最高の生き方の場とするように歩みを切り換えていく。
「歩々白蓮開く」という言葉があります。仏様に導かれることによって、私たちはすでに仏様の世界に生きていたのだということが分かってくると、日々の一挙手一投足が美しく輝いてくる。泥中に咲く蓮の花のようにあなたの一歩一歩が仏様の世界を美しく飾ることになるのです。それこそが『般若心経』の心でしょう。
読者 心に染みるお話をほんとうにありがとうございました。