禅に惹かれた人々
道元禅師の教えを辿る 「慕古の旅」


 3年連続で「慕古の旅」に参加された八谷智賀子さん

私にとっては主人を偲ぶ旅でした

 正法眼蔵」の中に記されている言葉「慕古」―その意義について、永平寺貫首、宮崎奕保禅師は、かつて曹洞禅グラフ誌上でこう説かれている。〔「慕古」というのは、文字通り、古を慕う、古風に戻るという意味だが、それはすなわち仏道を実践するということだ。仏道というのは実行すること。実践が伴わなければ、教えは空念仏だ。道元禅師の仏法は、お釈迦さまの仏法そのものを実践実行せよということ〕

 木の芽峠を行く八谷智賀子さん(左)

 京都市伏見区・宝福寺の住職、西垣慶康師が、京都から福井・永平寺までの道程、およそ二五〇キロの徒歩行を行じたのは平成八年のこと。禅の根本道場、永平寺開山のため京を離れ、越前志比庄に向われた道元禅師の足跡を今の世に辿ろうと決意した。
 その六年後、平成十四年には永平寺において、道元禅師七百五十回大遠忌が執り行われた。大遠忌の基本理念は「慕古心」である。「私にとっての慕古の精神は、この道元禅師さまの足跡を踏破するという仏行の実践ではなかろうか。この行脚の旅を修行してこそ、高祖様への報恩行を行ずることに他ならない」  西垣師はその徒歩行を「道元禅師入越足跡・夢街道慕古の旅」と名付け、以降、毎年、宗門内外の人々とともに実行している。

 笈を背負う西垣慶康師

 今年(平成十六年)の「慕古の旅」は、八月の二十六日から九月一日まで、七日間をかけて行われた。京都市中から永平寺まで、例年にない酷暑の中、雨中、晴天、一日一日を歩んでいく。途中には、木の芽峠越えのような難所、山行も控えている。
 旅をするのは、人のみではない。宝福寺の蔵する道元禅師の御頂相(肖像画)も一行に同道される。御頂相を納めた笈の重さは、およそ七キロ。それを一人一人がかわるがわる背負い、道元さまとともに旅をつづけるのである。

過去にとらわれず今、自分が何をしたいのか仏が働きかけて下さる

 今年の一般参加者は二十三名。東北、関東、中部、四国、九州、と全国から参集した。
 その中の一人、佐賀県神崎郡の八谷智賀子さんは、今回で三年続けてこの徒歩行に参加している。
 「ウォーキング協会にも入って各地を歩いていますが、『慕古の旅』は私にとって特別のもの」と八谷さんは話す。
 「厳しい道筋を歩いているうちに皆さんと連帯感が生まれてきて、過去にとらわれず今を大切にーそんな思いが自然と湧いてきます。永平寺に辿り着いた瞬間、それまでの疲れが嘘のように消えて、涙が出るほどの充実感に被われる、こんな感動は、この旅でしか得られません」
 平成九年に御主人を亡くされた八谷さんにとって、「慕古の旅」は御主人を偲ぶ旅でもある。
 西垣師は今年の旅を振り返り、こう語る。
 「皆さんそれぞれの思いを胸に、この旅に参加されています。それをいちいち訊こうとは思わない。行を通じて一人一人が慕古心を持ち、ご自身を見つめて下さればいい。この旅は、生きる哲学を説かれた道元禅師さまの教えを辿る旅、と同時に、大自然の恵みを感ずる旅、そして、自身に問いかける旅といえる。歩きながら考える、自分が今ここで何をしているのか―考えている自分に仏が働きかけて下さる。それはご自身の内におられる仏さまです。旅の七日間を通して皆さんのお顔が明らかにお変わりになる。その表情の変化こそ、仏道の実践を説かれた道元禅師さまが今の世に生きておられる証といえる―」

 目的地・永平寺に着く

 旅の途中、拝登した武生の御誕生寺では、前総持寺貫首板橋興宗禅師さまがお出迎え下さり、一行と歓談された。その参道の途次には、禅師さまの筆で、二五〇キロの旅を終えようとしている一行をねぎらうように、次の書が掲げられてあった。
 − あわてるな 昔はみんな 歩いていた −
 道元禅師も歩まれたであろう「慕古の旅」。西垣慶康師はこの自身の生命とじかに親しむ徒歩行を、「歩く禅」と表現している。

(取材 中村利実)