道元さまの思い出(20)
孤坐淵黙の一生 その二
――永遠の教え
歴史ルポライター 深見六彦
聞き取れないくらいの小さな声で「まだ夜は明けぬか」と寂円は言った。枕辺の義雲はどきりとした。すでに銀杏峰の頂は朝日に輝き、周囲は明るくなっている。お師匠さまは視覚を失われているのだ。義雲は口を耳元に近づけ「夜明けは間もなくでございます」と囁いた。寂円はあごをわずかに引いて頷くと、また深い昏睡に落ちていった。
寂円は死を予感していた。この数日間、自分の意思で体を動かすことがまったくできなくなっていた。視界も閉ざされていたが、うろたえることはなかった。如浄さま、道元さまのお傍にもうすぐ行けるのだと思うと、かえって心が浮き立つようであった。寂円の脳裏には、お二人の姿が走馬灯のように浮かんでは消える。特に二十五年もの間お傍に仕えた道元禅師の笑顔は寂円の気持ちを落ち着かせてくれる。小白村で初めて会った時の若さあふれる笑顔、寂円が弟子にしてくれと頼んだ時の困ったような笑い顔、日本へ単身渡り建仁寺を訪ねた時に迎えてくれたあたたかな笑顔、鎌倉への道中で見せた心からの笑い、二人で月を愛でた時のやさしい笑顔――思わず寂円は「道元さまぁ〜」と叫んでいたが、もちろん声にはならない。そういえば最期のお顔も微笑を浮かべておられた、と寂円は夢うつつの中で思う。
五十歳を越した頃から体の不調を訴えるようになった道元禅師だが、建長五年(一二五三)に入ると病状はますます重くなった。床に伏せることも多くなり、心配した檀越波多野義重の強い勧めで京都の医師団の治療を受けることになり、八月五日に上洛した(第18回参照)。京都高 西の洞院にある覚念の屋敷に到着したのが十五日。覚念は道元禅師の俗弟子で、永平寺の財政面における重要なスポンサーでもあった。
寂円でございます。治療の甲斐も無く道元さまがご入寂されたのは、二十八日の早暁寅の刻(午前四時頃)でございました。京都に来られてほんの十日あまりのことでした。その悲しみはまさに筆舌に尽くしがたいほどで、懐奘さまは悲嘆のあまり気を失われてしまいました。東山赤 の小寺にて荼毘に付されたのち、道元さまのご遺骨が永平寺に戻られたのは九月十日のことでございました。京都への旅は悲しい思い出になってしまいました。
寂円は承陽庵の塔主として道元禅師と共通の先師である如浄禅師をお祀りしてきたが、この日以降道元禅師も合わせて祀ることになる。その後のことはこれまでに記してきた通りであるが、寂円は思う。禅師は永平寺で天寿を全うされたかったのではなかろうかと。京都へ行ったことを悔やまれたのではないかと。
「ぎ、う、ん」という寂円の口の動きに、義雲はあわてて身を寄せた。見守る義雲に寂円は声を振り絞り、「ああ、大宋国に帰りたい」と言って絶命した。薄れていく意識のなかで、自分ながらこれはいい言葉だと思った。モンゴルに乗っ取られた中国へ帰りたいわけではない。あの懐かしくも誇り高い宋国への郷愁であった。寂円は日本に来たことを悔やんだことなど一度もなかった。むしろ良かったと思う。それにつけても銀杏峰に抱かれたこの深山のなんとすばらしいことよ。
正安元年(一二九九)九月十三日、愛弟子義雲や犬吉、牛兵衛たちに見守られて、寂円は遷化した。九十三歳、弧坐淵黙の一生であった。寂円は永平寺第五世としてお山の荒廃を建て直した義雲を育て、大本山總持寺開山瑩山禅師には重要な宗教体験を与えた。永平寺が今日在るのも、曹洞宗が大宗派に発展したのも、寂円の功績といえよう。
ところで、四十年にわたり寂円の侍者として雑事のすべてを任されてきたあの犬吉と牛兵衛が、その後どうなったのか誰も知らない。
(完)