新春対談 家庭教育を考える
少子高齢化時代の子育て


〜今、子どもが危ない〜

加藤千佐子 VS 佐藤達全


失敗や嘘をついてしまった時、弱い自分をかばってもらえる子どもはどの位いるでしょうか。
親の優しさは子の優しさを生み、過度の厳しさは反発や、反抗心を生むことを親は知る必要があります。
家庭は、学校でできない人間育成の場ですと、親子関係の危さを心配される両先生でした。


佐藤達全(さとう たつぜん)

駒澤大学大学院博士課程満期退学。
現在、育英短期大学教授、鶴見大学短期大学部講師、曹洞宗・群馬県常仙寺副住職。
著書『典座教訓』(教育社)、『食の名言辞典』(東京書籍)、『道元・日々の生きかた』(大法輪閣)、『仏教を歩く』(朝日新聞社)、暮らしの仏教Q&A担当。


加藤千佐子(かとう ちさこ)

日本女子大学大学院児童学専攻課程終了。
現在、作新学院大学女子短期大学部教授・とちぎ生涯学習文化財団理事・栃木県子ども読書活動推進協議会会長など。
著書(共著)『幼児・児童期の教育心理学』(学術出版社)、『育ちあう家族』(宣協社)、『父子関係の心理学(翻訳)』(新曜社)他。


編集部 最近の新聞には、子どもの暴力事件が非常に多いということが取り上げられています。戦後教育が進む中で、このような事件が歪みとして出てきています。教育には、学校教育や社会教育などいろいろありますが、身近なところでは、やはり家庭教育というものがとても大事なことではないでしょうか。

加藤
 いわゆる「キレる子ども」が増加しているという問題があります。どうして子どもがたやすくキレてしまうのか、家庭教育や発達心理学から考えてみましょう。
 二〇〇二年国立教育政策研究所が公表した「キレる子どもの生育歴に関する研究」で分かったことは、キレた子どもの八割は、親の不適切な養育態度が要因で、厳しすぎるしつけなどの「過度の統制」「過保護」「放任」の順でした。かつては、過保護や過干渉や放任がいけないと思われていましたけど。
 この厳しすぎる「過度の統制」とは、何でしょう。約束を守れなかったり時間に遅れた子どもたちが「ごめんなさい」とあやまっても、子どものやるせない気持ちに添うのではなく、親の言うことをなんだと思ってる、自分をこんなに待たせた、と言う具合に大変激怒して、徹底的に叱る。そういう親にかぎって日ごろ子どもに模範的な行動をするどころか、食事の用意もせず長電話したり、言うことに一貫性がないなどお粗末のようです。
 本来子育ての目的は、「子どもの持っている性格や能力」を慈しみ育て開花させることにあります。多くの親達は一生懸命愛情深く育てているのですが、子どもの個性を尊重するというよりは、「こういう子どもになってほしい、そのためなら私は何でもしてあげます」という親ですから、勢いしつけが過剰に厳しくなるのでしょう。厳しすぎるしつけ、思いどおりにコントロールしようとすることが、キレる子どもにしてしまうのです。

佐藤 長崎の中学生が小学生を殺害した、あの事件もそうですね。お父さん、お母さんが非常に厳しい家庭でした。こういう子どもにしたいということで、型にはめようとしていたのではないでしょうか。

受け止めてあげる教育を

加藤 大人だって、失敗したときには慰めてほしいし、言い訳をきいてほしいのです。人間は未熟ですから、間違ったり、嘘ついたり、失敗だらけ。弱い自分を親から「いいんだよ、仕方ないさ、大丈夫」とかばってもらえる子どもはどのくらいいるでしょう。優しさは優しさを生み、過度の厳しさは反発や反抗を生むのです。子どもは親から行動様式と心を、毎度学習していますから。
 例えば、お手伝い途中でお皿を割った子どもに、「ごめんね、お母さんがそんなに持たせたからね」と言いたいですね。伸び行く子どもに、多少の矛盾や言い訳も片目つぶってきいてやり、やんちゃも許す、ゆったりした親の態度が大事です。

佐藤 学校も問題ですね。学校というのは、以前はゆとりがありました。そういうところで、子どもが自分でいろいろなことを体験しながら、「これは何だろう」と発見したり、疑問を持ったり、友達と解決方法を考えたりしていく。そういう場所であったはずです。ところが、今はそうではなくなってしまいました。非常に過密なカリキュラムの中で、子どもも先生もゆとりがない。

加藤 「ゆとり」が重視されていたかと思えば、学力アップのために、教科書から発展して学習させるなど、目まぐるしく教育内容とレベルが変動して、教師も子どもも追い詰められていますね。

佐藤 何かをしなければいけない、というところに追いこまれているような気がします。そういう中で、子どもたちが本当に学校生活が楽しいか、今日も行こうという気持ちになっているかというと、どうも疑問に思います。
 外から知識を注入していくだけが教育ではなくて、一人一人が持っているものを引き出さなければいけません。人間はそれぞれ違って当たり前ですから、この子にはどういう輝くものがあるんだろうとか、この子のいいところは何だろうかということを、親や先生が見つけてあげてほしい。それを伸ばしていくような働きかけをすることが、一番大事だと思います。ところが現実は全く逆の方向で、どんどん詰めこんでいくと、子どもを追いつめてしまいます。それがだんだんたまって、あるところまで行くとキレる。そういう状態が起こっていると思います。

加藤 子どもは社会の過剰な抑圧を素早くキャッチして、キレるという悲鳴をあげて大人や社会に警告を発しているといえます。

佐藤 それで子どもが家に帰ってくると、今度は親が、こういう子になってほしい、こういう能力をもっと身につけてほしいと、どんどん期待を押しつけています。それは過剰な負担で、本当に子どもにとって、家庭も安らぎの場ではなくなってしまっています。
 私は、命というのは本質的に二拍子だと思います。生きるためには呼吸をします。息を吸って吐(は)いて、吸って吐(は)いて。そのバランスがうまくできていて、初めて生きられるわけです。入れっぱなしでも駄目です。出しっぱなしでも駄目です。これは、ほかの行動すべてにも当てはまります。緊張したらリラックスする、動いたら静止をする。
 ですから、曹洞宗の坐禅なども、手と足を組んであとは何もしない。何も考えない。ただ坐ればいい、と言います。私は、これはすごいことだと思うんです。というのは、手と足を組んでいますと、何も行動できないわけです。しかも、頭の働きも何もしない。二拍子という考え方からいくと、人間はふだんいろいろ体を動かしている、あるいは何かを考えるという、外に向かって意識を働かせているわけです。けれども、そういうのを全部止めて静止状態になる。これが、命を生き生きと輝かせるためには大事なことなのではないか、という気がするんです。
 さっきの子どもの状態にしても、学校で過密な状態で一日を過ごしているわけです。そうしたら、家に帰ってきたときに、今度は無条件で受けとめてもらえる。それなら、私は子どもは大丈夫だと思います。

加藤 子どもを無条件で受け入れることができるには、親自身が「自分の存在は、まあまあこんなもんじゃないか」というゆるやかな満ち足りた確信があるからできるのです。「これでいいさ」という自己受容の納得は若い親には苦手かもしれません。
 身の丈にあった幸せや夢の尊さに落ち着けず、いつも他人のすることが羨ましくて仕方ない。わが子に自分の果たせなかった思いを重ね合わせて、良い子に、よい成績で、よい会社に、と飽くなき目標にまっしぐら。親の過剰な期待、干渉、過保護は、あるいみ現代の虐待です。
 地域社会でこうした親の閉塞的で孤独な親業感に苦しんでいる家庭を支援する必要があります。乳幼児の育て方、子どもの居場所作りなど、親業のOB、OGの中高年が地域でネットワークを組んで、お役だちしたいですね。

編集部 お話を伺っていて思いましたのは、学校教育と同じ価値観を家にも持ちこみ過ぎてしまっている、という問題です。いわゆる社会や学校というものが、勉強しなければいけないことを押しつけています。ですから家庭では、子どもをそこから守ってあげなければいけない。家庭でしかできない教育、人間育成をしなければいけない、ということです。そのことを、家庭は学校と違うところなんだということを、子育ての真っ最中のご両親に「そうだ」と思っていただかないと、なかなか難しい感じがします。

加藤 そうですね。家庭に学校や社会の価値観を持ちこみすぎですね。受験で騒がれている偏差値が家庭にまで浸透しています。
 小学校四年生に作文を書いてもらったら、「うちのお母さんは、テストを見せると、僕の点数を見るより、ほかの子の点数を聞く。僕がいい点だと易しかったのね、だ。悪い点だとだめね、という。やだやだ」と書いてくれました。
 この母親には相対評価の偏差値しか頭にないのです。昨日より今日、今日より明日の、子どもの絶対値の変化にお付き合いして、「良かったね」「また頑張ればいいさ」と助言したいですね。

佐藤 ほかの子どもなり、ほかの家なりと、比較の上での位置づけしかできないんですね。一番大事なのは、その子がどうなのかという本質を見ようとする目のはずなのに、それがない。その子のいいところを伸ばすにはどうしたらよいかを考えようともしませんし、その子をしっかり受け入れるということも少しもできていません。

加藤 親も子どもと一緒に成長したいですね。育児は育自、教育は共育ですよね。

つながりの中で生きている私たち

加藤 地域の教育力についてですが、かつて学校は地域の篤志家が資財を寄付して学校作りをしてくれた時代がありました。私たちも学校に対してもっと関心を向けてみましょう。学校評議委員制度もありますが、大袈裟でなく、学校に役立つことを探してみましょう。さりげなくおすそ分けでもいいですし、児童・生徒の顔を覚えて声をかけるのはどうですか。

佐藤 いいと思います。ただ、それは、待っていても駄目でしょう。行動を起こして、すぐに結果が出ることは期待できないけれども、根気づよくやり続けることが大切だと思います。

加藤 私は常々「四輪駆動の子育て」と言うのですが、それは家庭、学校、職場、地域という輪があってぐるぐる回り、その真ん中に子どもが存在し、それぞれのエリアが力を出し合い、バランスが重要です。問題が起こるとすぐに欠陥探しや責任転嫁です。それはもうよして、連携や協働しましょう。職場にも子どもが入り、働く父親の姿に触れたり、地域のおばさんとして、学童保育のお手伝いしたり、自治会でのお祭りは子どもに企画させるとか、ぜひ試して見てください。

佐藤 人は家庭の中だけでは、生きられません。地域とも、学校とも、みんなつながって生きているということを、私たちが本当にどれだけ分かっているか。仏教では命のことを、一つしかない、変化していく、それと同時に、つながっていると考えています。命は自分だけで存在しているのではなくて、みんなつながっている。いろいろなつながりの中でしか生きられないのが命なんです。
 ところが、子育てをしているお母さんの意見だと、「人に迷惑をかけないような子どもに育てたい」とよく言うんです。でも、私はこれはちょっと違うと思うんです。人と関わらないで生きることはできません。人のお世話にならないで生きることはできないんです。

加藤 お世話になっていいんです。母親学級で申し上げるのですが、「誰でも最初は育児が苦手、辺りかまわずSOSを連発して、お世話になりましょう」と。

佐藤
 人に迷惑をかけないんだから人のことは知らないよ、というのが、今の日本の傾向なんです。そうではなくて、人のお世話にならなければ生きられないんだから、できることはやってあげる。そういう気持ちを育てていくことで、大きく社会が変わっていくような気がします。

加藤 ボランティア精神ですね。「手足使って、手間暇かけて、心のおすそ分け」できる喜びを、親子で味わいたいですね。

佐藤 他人のためにしたことが、実は、それによって得るものが非常に多いのです。しかし、他人のためにすることは、損をするんじゃないかという意識も強いのです。他人のためにすることによって、自分が育ててもらえる。感動させてもらえるのだということを、もっと子育て中のお母さんに発信していかなくてはいけないし、まず、自分がやらなくてはいけないのです。

編集部 やはり仏教の布施の教えが、奉仕の心につながっているのですね。

佐藤 当然そうです。そういう教えが、仏教の中にたくさんあります。

編集部 仏教は、発達心理学とか、医学、教育学など、すべてにつながっていく教えなんですね。

加藤 発達心理学も家庭教育も心のありようを求める学問ですから、宗教や倫理学や哲学同様、仏教とも深くつながりがありますね。

命というものが、
いかにかけがえのないものかを
家庭でしっかりと教えてほしい


佐藤 私はいつも、仏教というのは命の教えなんだ、と話しています。命というものも、自分の命と思っていますけれども、生まれることも、成長も、老いも、死も、自分でコントロールできません。生かされている命です。その限られた命をどう生きていくか、という実践の教えです。

加藤 命を見つめて、大切にするところともつながりますね。親が植物を育てたり、小動物と接する中で命の大切さを子どもは学びます。餌を忘れたらハムスターが死んでいたとか、植物に水をやらなかったら枯れてしまったとか、そんな経験が大切です。美しい命の輝きをずっとつなげていくために、人間はどのようにかかわっていったらいいのかということを、家庭でふれあってほしいですね。

佐藤 今、学校では、宗教教育の問題はいろいろと議論があって、なかなか難しいですね。でも、家庭ならできるわけです。例えば仏教を通して、命というものが、いかにかけがえのないものなのか。そういうことを、親が子どもにきちんと教えていってほしい。おじいちゃん、おばあちゃんから親に伝わって、子どもに伝わっていく、ずっとつながっていく命というもの。そして、動物も、植物も、人間も、みんなかかわりあっている、つながりあっている命というものの姿。こうしたことを、しっかりと伝えていくことが必要なんです。そういう教育がないと、命を本当に大切にするということになっていかないんですね。