柳緑花紅

木魚の置き場所


作家・福聚寺副住職 玄侑宗久
(『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞)


 春は「ものうい」なんてことを聞く。何をするにも「ものうい」人もいるようだが、越後の良寛さんは、「生涯、身を立つるに懶(ものう)し」と詠った。その後は「騰騰(とうとう)、天真に任す」とつづく。ここでの「懶し」はべつに春だからというわけではなく、良寛さんはいつであれ、ぼんやりとあるがままの「天真」を行じたいのであり、それを世間知に合わせて部分的に役立てるのは嫌だと、明言しているのである。
 あくまでも生命の本体である「天真」を養うことこそ大事であり、そのためには「昼行燈(ひるあんどん)」と呼ばれた青年時代も、ここでは肯定されている。おそらくこの詩は、五合庵に住んだ晩期、五十代後半のものだろうと、唐木順三氏は推定している。
 天真という言葉からも判るように、この詩の背景には良寛さんの大好きだった『荘子』の思想が感じられる。庄屋の後継ぎとして役に立たなかったからこそ「無用の用」を為すことができるのだという、僧侶としての自負さえ感じられるのである。
 同じ頃の話だと思う。良寛さんが良くお経をあげにいく家の子供がいたずらして、仏壇の前にあるべき木魚を玄関先に置いていたらしい。すると良寛さん、玄関先で木魚を叩きながらお経をあげだした。面白い、となって次のときは縁側に置くと縁側でお経をよむ。つまりどこでも木魚の置かれた場所でよんだらしいのだ。
 これはそう簡単にできることではない。しかし一見「アホ」のように思えるこの逸話にこそ、大愚良寛の真骨頂がみえる。つまり良寛さんにとって仏さまとは、仏壇のなかに押し込めてあるような存在ではなかった。どっちを向いても、どこにでもいらっしゃる存在だったのである。
 道元禅師も詠んでいるではないか。

 峯の色 渓の響も
 みなながら 我が釈迦牟尼の
 声と姿と

 あっちを見ても、こっちを聞いても、すべてがお釈迦さまの姿や説法に思えるというのである。きっと良寛さんにとっては、手毬で遊んだ子供たちも仏さま、説教を頼まれた甥子も仏さまに見えていたのだろう。
 それにしても大愚というのは凄い。私など、やはり木魚を所定の場所に戻してからお経をあげるだろう。しかも良寛さんはこんな説明は一切しない。ただただどこででもお経をあげていたのだ。「アホ」じゃあるまいか、と思うのが普通ではないだろうか。
 しかし良寛さんは言う。「誰か問わん、迷悟の跡、何ぞ知らん、名利の塵」。つまりお悟りをひらいたエライお坊さんだなんて、見られようという気はさらさらない。そんな説明さえ「ものうし」と、言ってのけているのである。
 しかしこの話も、いたずらしたのが子供だからいいのである。けっして大人が真似をして、木魚を変な場所には置かないでいただきたい。