仏教相談/人生相談
生老病死を生きる
回答者:長井龍道(山梨県・龍華院住職)
質問 平成十六年の九月に永平寺に行きました。たしか坐禅堂だったと思いますが、「王三昧」と書いた額があったかと思います。王三昧の意味がはっきり理解できませんので、ご教示下さい。
(大阪府八尾市・犬塚敏史)
回答 お釈迦さまの坐禅は衆生を忘れず、 昆虫にも慈みの念を給する
「三昧」とは、語義的には、インドの古い言葉の怎Tマーディ揩音訳した「三昧地(さんまじ)」のことで、一般的には精神を統一する行としての「禅定(ぜんじょう)」を意味します。
「王三昧(おうざんまい)」とは、略さずに言えば「三昧王三昧(ざんまいおうざんまい)」、即ち「三昧中の王三昧」ということです。
仏教でいうところの「おさとり」とは、「天地同根、万物一体」の道理に基づいて、天地とわれと同根、万物とわれと一体という内容を行ずることで、その物になりきった無我の境界を実現することです。この無我の境界を、道元禅師さまは「自受用三昧(じじゅゆうざんまい)」と名づけられました。そして、あらゆる自受用三昧の中で最も根本であり最上の妙術が坐禅であるということを、両祖大師さま(道元禅師・瑩山禅師)が力説されています。
「諸仏如来ともに妙法を単伝(たんでん)して阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただほとけ、ほとけにさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅(たんざさんぜん)を正門(しょうもん)とせり。」(道元禅師『正法眼蔵弁道話』)
「万行の中、最勝の実行はただ坐禅の一門なり。」
(瑩山禅師『三根坐禅説』)
一切の三昧は結跏趺坐(けっかふざ)の坐禅の中におさめられ、それをもとにしてあらわれるゆえに、坐禅は自受用三昧中の王者であるという意味で、「三昧王三昧」と言われるわけです。
したがって、自受用三昧としての坐禅は、単なる一心集中としての、単なる精神統一としての、お悟りに至る手段・方法としての行ではなく、無念無想を内容とするものでもありません。
「仏祖の坐禅というは、坐禅の中に於て、衆生を忘れず、衆生を捨てず、乃至 虫にも常に慈念を給して、誓って済度せむことを願う」(『宝慶記』)
ところのおさとりの行そのものであります。
こういう恤ァ祖の坐禅揩ナあるとき、初めて坐禅が、「道本円通(坐禅はお道(さと)りの根本であり、一切のものと円に通ずる行なのである)」(道元禅師『普勧坐禅儀』)と言えるわけであります。
質問 お釈迦さまは実在の男性と聞いておりますが、なぜ祈唱では南無釈迦牟尼仏と「尼様」とお祈りするのでしょうか。いつも不思議でなりません。
(秋田県・大阪泰一)
回答 釈迦牟「尼」とは聖者を意味する
仏門に入った女性のことを、梵語で「ビックニー」と言い、漢字では「比丘尼(びくに)」と音訳されました。また、女性の出家者をパーリ語では「アンマー」と言うところから、尼僧(にそう)、比丘尼(びくに)のことを「尼(あま)」とも呼ぶようになったわけですが、「釈迦牟尼」の「尼」とは「尼さま」のことではありません。「寂黙」を意味する「ムニ」というインドの言葉を、「牟尼」という漢字を当てて音訳したもので、そこから「釈迦牟尼」とは「釈迦族出身の聖者」の意味に理解されています。
回答者:須田道輝(長崎県・天祐寺住職)
質問 毎朝仏壇に向かって般若心経を唱え、心穏やかな日々でありますようにと手を合わせても、心が貧しいから直ぐいろいろ事に左右され心が乱れ傷つきます。
そしてこんな自分が惨めで悔しいです。時々お墓に寄って慰めてくれる、叱ってくれる、墓前に語らずにはいられません。
強い心を維持するにはどのようにすれば良いのか教えて頂きたいと思います。
(盛岡市・女性56歳)
回答 般若心経を読誦するのは、 菩薩の智慧に出会えるからです
毎朝仏壇に向かって『般若心経』を唱えておられるとのこと、素晴らしいことです。檀信徒といっても、その多くはただ仏壇に手を合わせることで足れりとする風潮がありますが、経典を読誦してはじめて仏教徒といえるのではないでしょうか。
さて、あなたは信心をもって般若心経を唱えていても、いざ日常生活の中で何事かが起こると心が乱れてしまうというお悩みですが、信心も一朝一夕にして深まるものではありません。
私の宗教的体験から考えてみましても、生活上のさまざまな大波小波に、時には悩み時には心の乱れもあって、けっして平穏であるとはいえません。だからこそ毎日の出来事がそのまま修行なんだと教えられるのです。苦悩や不安があって、はじめて仏縁が生まれるので、その苦しみの量だけ、お悟(さと)りが生まれるのです。
ですから般若心経を読誦するのは、毎日の苦しみ悩みを菩薩(ぼさつ)の智慧に転換せしめるためなのです。
あなたが信心をもって生活しようとしているのに、大波小波に動かされているご自分を「惨めで悔しい」と思われることは、逆にいえば信心のおかげです。あせらず急がず、とにもかくにも般若心経などの読誦をお続け下さい。
昔も今も生きることに真剣な人は、自分の心の乱れをいかにすれば解決できるかと苦心しています。
唐時代の話ですが、ある修行僧が岩頭禅師という方に「心が去住して安からざるときどうすれば宜しいでしょうか」と、心の不安を訴えた。すると禅師は「他の去住するにまかせよ。他を管(かん)してなにかせん」悩みは悩みにまかせなさい。不安は不安にまかせなさい。心の不安、乱れは、悩んだからといって消えるものではありません。ですから、苦悩というものは苦悩に返して、自分で管理することは止めなさい、と答えております。
良寛さんの歌に「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」というのがあります。とかく悩みというのは、自分を格好よく見せようという心根によることが多いものです。格好よさを表に出そうとすればする程、逆に苦しくなるものです。いい面もわるい面もすべて出しきって行こうという心の構えができると、意外に心が軽くなり、よそさまのことが気にならなくなるから不思議です。
『般若心経』のなかに「心にさわりなき故に、恐怖(おそれ)あることなし」とあります。