寂円を歩く
(1)春の京都編
歴史ルポライター 深見六彦
道元禅師荼毘の地
春の京都は一段と華やかだ。ことに桜の花が咲き競う頃は、京の町がピンク色に染まり心が浮き立つ。そこで、前号までの連載でお馴染みになった中国僧寂円(じゃくえん)さんの京都での足跡を訪ねてみることにした。常に道元禅師のお傍にあった寂円さんなので、その足跡は禅師に重なる。とはいっても、寂円さんがどんな京風景を目にしながら修行をしていたか想像して歩く旅も格別である。
芭蕉堂
祗園祭りで有名な八坂(やさか)神社の境内を通り、夜桜で混み合う円山(まるやま)公園を抜けたあたり、ちょうど公園の南端に西行(さいぎょう)庵と芭蕉堂がある。平安時代末の歌人である西行が庵を結んでいた場所に建てられているのが西行庵、西行を慕っていた芭蕉にちなんで建てられたのが芭蕉堂だが、ちょうどこの裏手あたり(東側にある小道をしばらく辿った突き当たり)に道元禅師荼毘の地(東山区円山公園南端鷲尾町)がある。一二五三年(建長五)、俗弟子覚念の屋敷で遷化された禅師は建仁寺の三昧処(火葬場)で荼毘に付されたといわれるが、それがここである。広さは五十坪ばかりで篠竹に囲まれて荼毘の塔が立っている。もはや当時の景観は皆無だが、真葛ヶ原(まくずがはら)と呼ばれたくらいだから、さびしい所だったに違いない。立ち上がる荼毘の炎を見つめる寂円の胸中は、いかばかりであったろうか。周囲は高台寺(こうだいじ)などの墓地になっていて円山公園の喧騒もここまでは届かない。
興聖寺
西行庵から西へ下り歌舞練場(かぶれんじょう)の南を過ぎると、栄西(えいさい)開祖の建仁寺(東山区祇園花見小路四条下ル)に出る。建仁寺は若き日の道元禅師が修行した禅寺である。一二二七年(安貞元)の暮れ、寂円さんは中国から単身海を渡って来訪し、ここで道元禅師と再会した。道元禅師もこの年の秋、中国から四年ぶりに建仁寺に戻り、彼の地で亡くなった明全(みょうぜん)の遺骨を持ち帰り埋葬し、立教開宗宣言ともいえる最初の著作『普勧坐禅儀』をまとめている。当時の建仁寺は広大で、今の寺域の五倍はあったらしい。そのため禅師や寂円さんがどのあたりで起居していたかなど皆目見当がつかないが、境内を散策していると寂円さんの声が聞こえてくるようである。
建仁寺
建仁寺からまっすぐ南下すると六波羅蜜寺(東山区五条通大和大路上ル東)に出る。この寺は九六三年(応和三)に、浄土教を広めた空也上人によって創建されたといわれている。空也上人は歓喜躍踊しながら念仏を唱え人々を導いた。やがてこれが踊り念仏として鎌倉時代の遊行僧(ゆぎょうそう)によって各地に広がり、盆踊りの原型になった。寂円さんはこの六波羅蜜寺で説法をする道元禅師のお供をして訪れている。この一帯には、鎌倉幕府が朝廷や西国武士を監視するために設置した六波羅探題があり、多くの鎌倉御家人の屋敷が並んでいた。永平寺の檀越となる波多野義重の屋敷もこの近辺にあったと思われる。
建仁寺を出て閑居することになった道元禅師とともに、寂円さんも深草にあった極楽寺の別院安養院に移った。極楽寺は道元禅師の母方にあたる藤原氏の菩提寺で、平安時代には隆盛を極めたが、この頃には藤原氏の権力も失せていて、寺は衰亡への道を転がり落ちていた。現在、安養院の法灯を継いでいるのが欣浄寺である。安養院の所在は不明だが欣浄寺(伏見区西桝屋町一〇三八、京阪墨染駅下車徒歩五分)は訪ねることができる。道元禅師の石像や禅師が詠んだ七言絶句の碑などが見学できる。
六波羅蜜寺
一二三三年(天福元)、道元禅師は荒廃していた極楽寺に手を入れて観音導利院興聖宝林寺(こうしょうほうりんじ)、すなわち興聖寺を建立した。まさに「曹洞宗ここに始まる」である。曹洞宗の基盤作りに奔走する道元禅師を手伝う寂円さんにとっても、多忙の毎日であったに違いない。極楽寺は現在の京都市伏見区深草極楽寺町から宝塔寺山町あたりにあったらしい。日蓮宗宝塔寺(伏見区宝塔寺山町三二、京阪深草駅下車徒歩十分)はその寺域内にあると思われるので、寂円さんになったつもりでこの寺一帯を散策してみることをお勧めする。
欣浄寺
なお当時の興聖寺の雰囲気に浸りたいときは、宇治にある仏徳山興聖寺(宇治市宇治山田二七―一、京阪宇治駅より徒歩十分)を訪ねるといい。宇治川べりにあるこの寺は一六四八年(慶安元)に建立されたものだが、参道・本堂・庭園などすべてに、若き日の道元禅師や寂円さんの気概が感じられる。
宝塔寺の多宝塔