春彼岸鼎談 今、子どもが危ない
今こそ必要とされる 宗教教育を考える


青少年犯罪や幼児虐待など、子どもが加害者・被害者となる事件が相次いで報道されています。
いったいこのままでは日本の将来はどうなってしまうのでしょうか。
今回は幼少年期の子どもの教育をめぐって、萩野浩基・杉谷義純・飯田 潔氏に語り合っていただきました。


萩野浩基(はぎの こうき)

衆議院議員。
東北福祉大学学長。

1940年生まれ。
早稲田大学大学院を修了し、玉川大学、共立女子大学、駒澤大学を経て、現職に。
ロンドン大学、アメリカセントオラフ大学の客員教授、永明寺(島根県)東堂、文学(哲学)博士。


杉谷義純 (すぎたに ぎじゅん)

上野寛永寺・円珠院住職。
(財)全日本仏教会宗教教育推進特別委員会委員長。

1942年生まれ。
1966年、慶應義塾大学法学部卒、1972年、大正大学大学院文学研究科博士課程修了。
1993年、天台宗宗務総長、1994年、文部省宗教法人審議会委員などを歴任。
現在、天台宗宗機顧問。

飯田 潔 (いいだ きよし)

埼玉県児玉町立金屋小学校教諭。
埼玉大学大学院教育学研究科二年。

1956年生まれ。
大東文化大学文学部教育学科卒。
埼玉県鴻巣市の小学校教員赴任を経て、現職。


幼児期に不可欠な 「のの様」教育

飯田
 わたしは小学校の教員をして二十四年になります。子どもにとって一番影響を与えるのはなんといっても親、家族そして学校の教師だと思います。とくに親の生き方が子どもに大きな影響を与える。ところが最近、親の言動が変わってきているように思います。授業参観にしても、静かに見るのは当たり前のことですが、それができない。チャイムが鳴って授業が始まっているのに親同士でぺちゃくちゃ話をしている。今はどういうときかというけじめがつかない。そして、自分の子どもだけしか見ない親御さんが増えています。自分の子の出番になるとさかんに写真やビデオを撮るけれど、ほかのお子さんにはまったく興味を示さない。クラス三十人、四十人のなかの一員としての自分の子どもという意味が分からない。自分の子だけ目立てばいいという感じです。

萩野 人間は人として生まれても人間にはならない。わたしはわざわざ人間(じんかん)とルビを振ったりしているのですが、いろいろな人の力を借りて初めて人間になるのです。現在、子どもの教育に問題があるのは、そうしたことが忘れられているからだろうと思います。
 私が学長をしている東北福祉大学の系列に福聚幼稚園があります。東北福祉大学はもとは曹洞宗の学林でしたから、その伝統を大事にしようということで、「のの様」教育をしています。園児がみんなで遊戯をしたりする講堂の真ん中にお仏像を飾って、必ずそれを拝ませる。嬉しいときも悲しいときも、いつでも「のの様」は全部見ていらっしゃるのだという教育を徹底的にやります。そうしたら、父兄の間に大きな反響があったんです。一時期、子どもが減って定員割れをしていたのですが、そういう教育方針が口コミで伝わって、園児募集のときに徹夜で行列ができるようになってしまった。それと同事に重視しているのは自然との触れ合いです。すぐ裏山には栗もあるし柿もあるし、それから芋掘り体験などから自然というものに対する畏敬の念を持たせるようにする。それも「のの様」教育の一環としてやっているのです。

杉谷 私の寺にも寛永寺幼稚園というのがあります。そこでは「のの様」教育はするのですが、それ以外のことはとくに何もしていません。幼稚園によっては受験指導や英才教育、芸術教育をするところもありますが、それは一種のブームにすぎないと思います。教育というのは、時代の傾向やちょっとした目先のことであまり動かしてはいけないと思う。「のの様」教育がしっかりしていればそれでいいと思うのですが、私が心配なのは先ほど飯田さんもおっしゃったように親の方です。子どもは幼稚園でしっかり教わる。ところが、家では親が「いただきます」も何もいわないでパパッと食事をすませる。それで子どものほうが親に注意するわけですよ(笑)。幼稚園くらいのときはまだかわいいから、親も「ああ、そうだ、そうだ。ごめん、ごめん」と言って、結構素直に子どもの言うことを聞く。ところが、子どもがちょっと大きくなると、「そんなことよりも、お父さんは忙しいんだ」と理屈を言って自分の弁解をする。せっかく育った芽がそこで摘まれてしまう。そればかりか、例えば学校給食のときに「いただきます」と言うこと自体、宗教的な行為であるからやめるべきだというような意見が父兄から出たりする。飛躍するようですが、食べ物に対する感謝の念すら失われているこうした風潮が、ひいては子どもたちが命というものを軽視するようになる原因のひとつではないかと思います。

命の大切さを どう教えるか

飯田 命の大切さをどう教えるかということは現場にとってはいつも難しい問題です。私の学校では共同研究という形でこういうことをやったことがあります。人権教育の一つとして「命の尊さ」について考える学習をしました。まず、親御さんたちに子どもが生まれたとき、どんな思いを託したかということを手紙に書いてもらった。そして授業で子どもたちに、「みんなのお父さんやお母さんに手紙を書いてもらいました」と言って渡す。そうすると子どもたちは早く見たいんだけれどもおっかなびっくりというか、なかなか封筒を開けられないんです。それで「開いて読んでごらん」と先生が言うと、読み終わった子どもたちが泣き出したんです。それはどういうことかというと、親御さんたちは子どもが生まれたときの喜びと感動をエピソードを交えて手紙に書いてくれている。ところが、子どもたちは意外にも自分は親からあまり愛されていないのではないかと思っていたりする。それが、その手紙によって一気に親と子どもの溝が縮まるわけです。そして授業の最後に、みんな親に愛されているけれども、親にはその親があり、みなそれぞれ愛されて、先祖という形でずっとつながっている。それが命のつながりというものなのだということを教えました。

萩野 それはいい試みですね。私も命の大切さというのは知識で学ぶ ものではなく体で学ばなければいけないと思っています。私自身の体験を申し上げますと、わたしは田舎育ちですから、ニワトリやヤギを飼っていた。もう年で卵を産まなくなったニワトリも名前をつけてずっとかわいがっていた。そのころ私の姉がカリエスにかかりまして、栄養を取らなければいけないということもあって、卵を産まなくなったニワトリを隣のおばさんに頼んでひねってもらった。私はそれを知らないで食べていたんです。ところがそれから一ヶ月くらいして、そのニワトリの羽を見つけてしまった。それ以来、私はニワトリの毛の抜いたあとが付いているのは食べられないんです。
 それから私の息子についてはこんなことがありました。あるとき家内の両親の家に親戚の小さい子たちが集まったんです。カブトムシを買ってきて、それぞれ糸で縛って、テーブルの上で競争をさせていた。そのうち一人の子がライターに火をつけて自分のカブトムシのしっぽに近づけたわけです。そしたら、パパパッと走って一位になった。それを見たとたん、私の息子はカブトムシを持って寝室のほうへ一人で行ってしまった。家内の母が心配になって行ってみたら、カブトムシの糸を全部外して、自分の手の上に乗せてなでなでしていたというのです。

教育基本法は どうあるべきか

編集部 現在、学校における宗教教育はどのように行われているのでしょうか。

杉谷 「教育基本法」の第九条に宗教教育という項目があるわけですが、それに対して文部科学省は何とも指導要領に書き込めないんです。宗教のことを書くと総スカンになりますから。それで道徳の中で、「目に見えないものに対する畏敬の念を持つ教育をする」としています。それだけでは命の大切さを考えれば不十分だと思います。そこで、全日本仏教会では宗教教育をもう少し実現しなければいけないということで、宗教的な情操教育を提唱しています。簡単にいうと宗教的な感性を育てるということです。そういう方向で、指導要領が書けるようになれば、先生がたも自信を持って宗教的教育ができるのではないかと思っているのですが。

飯田 私の学校では、道徳教育はいろんな資料を使います。何を使ってはいけないということはありません。私は地獄の絵を使って授業をしたことがあります。あるクラスで、嘘ばかりついていて困る子がいる、いくら話をしても直らないということで授業を頼まれたんです。もちろん嘘をつくと地獄に落ちるぞというようなことではなくて、人間は自分のやったことを自分しか知らないと思っているけれど、ほんとうにそうだろうかというような話をしたわけです。そうしたら、「そんなことはないと思うよ。あの辺に、多分見ている人がいる」と言う子がいたんです。あの辺というのは、つまり上のほうを指すんです。そうすると、ほかの子が「あっ、そうだ。何かさ、神様の話を聞いたことあるよね」と言い出す。そういうふうに目に見えないけれど、自分は見られているんだという意識を持つと、例えば悪いことをしたときに自分だけしか知らないと思っていても心の中にいやなものが残る。何かもやもやして嫌だなという気持ちを持つようになるのではないでしょうか。それが子どもの意識を育み心を広げることになると思います。
 私は、基本的には教育基本法や指導要領を変えて子どもが良くなるというふうには思っていません。一人ひとりの教師が目の前の子どもに良くなってほしいとか、良くしたいと思う気持ちのほうが大事で、命を大切にしたり、お互いに思いやりを持って行動するといった、そういう当たり前の人間性を育てていこうという観点からすれば、今のままでもできると思います。教育基本法をよく理解し、自分の頭で考え、何ができるかを考えれば、案外多くのことができるのではないでしょうか。

萩野 わたしは教育基本法を読むと、あれを作られた人は大変な苦労をされたなと思います。個人としての自己実現の自由と、社会的存在としての人間という二つの面をいかに調和させていくかという問題がある。簡単に言うと自由と平等の両立ということですが、それはちょうど「やじろべえ」のようなもので、どちらに傾いても良くない。仏典に、琴の良い音色を出すには弦を張りすぎてもいけないし弱くしすぎてもいけないとあるように、自由と平等にも調和がなければならない。私はそれを紙にたとえて、自由と平等が一緒になって一枚の紙になっているのだと表現しているのですが、教育基本法の文章を読むとその点で随分苦労されただろうなという感じを受けます。いずれにしても、日本が明治以降、国際社会の中で何回も崩壊の危機にみまわれながらそれを乗り越えてきたのは、私は教育の力だろうと思います。歴史の荒波のなかにあっても、教育の機会均等ということをやってきた。それが日本のすばらしい伝統だと思います。

杉谷 法律というものは本来、人間が人間らしく生きていれば、とくに問題になりません。われわれは日ごろ、憲法も刑法も意識しないで生きているわけです。けれども、何かあったときには何に基づいているのかということをはっきりさせないと民主主義的な合意が形成されないということもある。教育基本法にしても、教育現場ではあまり意識されていないかもしれませんが、いかなる宗教教育もしてはいけないというように拡大解釈されかねないのが今の条文なんです。「宗教に関する寛容な態度及び社会的な地位を尊重する」といっても、どう解釈するべきか非常に分かりにくい。宗教的な感性を育てようということはどこにも書いてないから、逆に何々してはならないという禁止規定ばかり目に付くことになる。それが現場の先生がたの目に見えないところで拘束力になっているのかなというような気もします。例えば、宗教文化というものに対する知識とか意味について、もう少し分かりやすく伝わるような教育がなされていない。小学校で習った弘法大師や伝教大師が教科書の中から消えていってしまうといったことが現場で起きているわけです。宗教教育のことは触れないで歴史教育の中でやればいいという意見はごもっとなようで、実はいつの間にか少しずつ消えて見えなくなっているのです。そういったことに危惧を抱くのです。いろんな面でひずみが出ているという問題もあります。もちろん教育基本法を変えなくても、いい先生がいれば宗教教育はできるとは思いますが、目安としてもっときちんとした法律があったほうがいいのではないかと思います。

教師は今でも 聖職者たりうるか

萩野 かつては教師というのは僧侶、医者と同じように聖職者と見なされていた。今ではそういう意識が薄れている。私はその点をもう一度考え直すべきだと思いますね。

杉谷 そう思います。聖と俗ということを考えてみると、俗というのは物で測れるものですね。給料は高いほうがいいとか、物は能率的に速くできたほうがいいとか。それに対して聖というのは、そういう損得を超えたものです。学校の先生でも、八時間労働以外はやらないというのではなくて、子どものためについ時間を忘れてやってしまう。それによって給料は増えないけれども、これが私の生きがいなんだという気持ちでがんばる。そういう先生を見ると、やはり教師は聖なる職業なのだとみな思いますね。ところが、世の中だんだん物が豊富になり効率のよさが価値基準になってくると、聖と俗という考え方がなくなってしまって、僧侶も医者も教師も単なる職業になってしまった。そこに教育現場の荒廃という問題も出てきていると思います。

飯田 誰だったか忘れましたが、教師というのは「魂の技師」だと言った先生がいました。教師はよくも悪しくも、子どもに圧倒的な影響力を持つものです。その影響力を自分で深く自覚したときに出てきたことばだと思いますが、そういう理想的な関係を聖というのであれば確かにそのとおりだと私も思います。ですが、その自覚がないと傲慢になります。知識の量とか、合理的な損得だけで子どもと付き合ってもそこにあるのは契約だけで、ほんとうの人間関係は生まれないと思います。教師は教えるんだけれども、じつは学ばされているんです。子どもたちがいろんな行動をとったり発言をする中で、今まで気付かなかったことに気付かされる。そういう関係のなかでともに学ぶ、育ち合うというのが学校教育だと思っています。

杉谷 親も同じですね。この前、七五三のお参りのかたがたにお話したんです。この子は三歳ですというけれど、親のほうも親業としてはまだ三歳なんです。子どもといっしょに、親も成長していかないといけないんです。親がまず、親としての自分の目的を持った生き方をする、そして子どもがそれを吸収するというのが、教育の基本ではないでしょうか。


(平成十六年十一月十八日収録)