仏教相談
質問 十七年二月十日の朝日新聞「声」欄に、『父の友人葬で「涙そうそう」』と題された投書が寄せられていました。
投書をした方は、亡くなった父親の友人たちとお経を読んで冥福を祈る友人葬を行った、ということでした。友人葬で亡くなった方をきちんと弔うことができるのなら、お坊さんに頼んで葬儀を行うのはどうしてなのでしょうか。
また、投書には「友人葬に初めて参加された方は驚いたかもしれませんが、型にはまった葬儀とは違うことを理解していただけたのではないでしょうか」とありましたが、友人葬と普通の葬儀の違いは何なのでしょうか。同じようなものと考えて良いのでしょうか。
(東京都・匿名希望)
回答者:長井龍道(山梨県・龍華院住職)
回答 葬儀は、仏弟子となってお釈迦さまの 在られる兜率天に上天する為の修行
現行のお葬式は通常、
(1) 宗教的(仏教的)意義における葬儀
(2) 告別式(お別れ式)
が二本柱です。
(2)の告別式は、遺族・親族や友人・知人が、故人に感謝の気持ちを表明したり、故人が生前好きだった食べ物などを供え、また好きだった音楽を奏でてなぐさめたり喜ばせたりして、別れを惜しみまた冥福を祈る、というのが主な内容です。
投書の方の言われる「友人葬」は、(2)の告別式にあたるものと言えましょう。(1)の葬儀と(2)の告別式は、どちらもお葬式の重要な一部分をなすもので、それぞれ意味が違います。(1)の宗教的意義についての理解が足らないと、「型にはまった」だけの無意味なものと受け取って、これを否定したくなるわけです。
葬儀の宗教的意味というのは、
(1)導師が故人に戒法を授けて、お釈迦様の(遠孫の)お弟子にする。
(2)後生(ごしょう)への新しい旅立ちにあたって、自分もいずれかはお釈迦様と同様にお悟りを完成して「仏(ほとけ)」になるのだという誓願を発(おこ)してもらう。
(3) お釈迦様が亡くなられてから上天されて今おられる兜率天(とそつてん)に、故人も生まれ往ってくれるよう引導(いんどう)する。
(4) お釈迦様はじめ諸仏諸菩薩に、故人に対する御加護をお願いする。
ということです。これらの内容を中心として、そのための作法をしたり、読経をしたり、回向をしたり、法語を唱えたりするわけですが、それは端から見たり聞いたりする分には、型にはまっていたり、言葉もむずかしくて何をやっているのかよく解らず、無意味なものに思われるかもしれません。
もし送る者が一人もいない人の場合でも、告別式はしなくても葬儀はしてあげなければいけないことからも解るように、お葬式の中心的意義は、「宗教的意味における儀式」です。これを忘れ捨ててしまっては、いくらたくさんの人が集まったところで、それは所詮単なるお別れの会に過ぎません。故人の後生に向かっての積極的な宗教的意味は生まれてこないわけです。
道元禅師様は『正法眼蔵』の中で、「お釈迦様は亡くなられてのち、兜率天に上天されて今もおられる」(出典=注釈参照)ということをおっしゃっています。故人がお釈迦様のもとに正しく導かれるためにも、きちんとした宗教的意味を持った葬儀が必要だと思います。
注釈
「釋迦牟尼佛、自従迦葉佛所傳正法、往兜率天、化兜率陀天、于今有在。まことにしるべし人間の釋迦は、このとき滅度現の化をしけりといへども、上天の釋迦は、于今有在にして、化天するものなり。」(『正法眼蔵 行佛威儀』より)