寂円を歩く
(2)深緑の旅路編


歴史ルポライター 深見六彦

 今津港


 道元禅師の一行が、比叡山からの襲撃を逃れるようにして深草を出発したのは、寛元元年(一二四三)七月十七日の丑三つ時だった。新暦でいうと八月中旬頃で、日中はうだるような暑さが続いていたが、さすがに日の出前の大気は清々しい。
 一行が向かうのは越前の国志比庄(しひのしょう)――鎌倉御家人波多野義重の所領地である。まずは琵琶湖の南端にある大津に歩を進めた。このあたりについては本誌NO76・77号の「道元さまの思い出(5)(6)」に詳しいが、もちろん寂円さんもその一行の中にいた。

 海津のさくら

 ところで寂円さんは日本の自然をどう感じていたのだろうか。中国洛陽で生まれ、越州で少年時代を過ごした寂円さんにしてみれば、日本の自然は箱庭のように見えたかもしれない。京都から越前までの旅路を辿りながら、寂円さんが見た風景を訪ねてみることにする。
 寂円さんは道元禅師と共に大津の浜から船で琵琶湖を縦断した。真夏とはいえ早朝の湖上は気持ちが良い。寂円さんは中国にいたある時期、杭州西湖のほとりにある浄慈寺(じんずじ)で如浄(にょじょう)禅師の侍僧として修行に励んでいた。西湖は風光明媚な湖として中国では古くから知られてきたが、琵琶湖にはそれに勝るとも劣らない澄んだ湖水、豊かな水量、周りの山々の緑の深さがあって、なんとも言えない自然のやさしさを感じさせてくれる。日本に来て初めて心の安らぎを抱いたことだろう。こんな寂円さんの気持ちになって琵琶湖の船の旅を体験してみてはいかが。なかでも湖北に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)に渡る竹生島クルーズが手軽で楽しい。今津港、長浜港などからのコースがあり、三十分ほどで到着する。竹生島は周囲二キロメートルの小さな島だが歴史に登場するのは早く、国宝の都久夫須麻神社本殿や宝厳寺唐門をはじめ見るべきものが多い。寂円さんはこの島を左手に見ながら塩津に向かった。

 宝巌寺本殿

 塩津から日本海側にある敦賀(つるが)へは深坂(ふかさか)古道を行く。滋賀県西浅井町沓掛(くつかけ)(JR北陸本線近江塩津駅から約三キロメートル北)から福井県敦賀市追分(おいわけ)までの四・五キロメートルほどの峠道で、標高は約三七〇メートル。苔むした峠道を行くと、万葉歌人の笠朝臣金村(かさのあそんかねむら)や『源氏物語』の作者紫式部の歌碑などに出会える。紫式部は越前の国司に任命された父藤原為時と一緒にここを越えて国府のある武生(たけふ)に向かった。平安時代の著名な文化人も歩いた道だと思うと感慨深い。途中少し荒れた箇所もあるが、天気が良ければ寂円さんの気分になって、JR新疋田(しんひきだ)駅まで歩いてみるのもいい。木々の緑を愛で、鳥たちの鳴き声を聞きながらの峠道は、タイムスリップしたように古を体感できる。
 敦賀の気比(けひ)神宮を参詣したらいよいよ木ノ芽峠越えだ。木ノ芽峠は若狭国(わかさのくに)と越前国との境界にある峠道で、古代・中世の北陸道幹線だった。若き日の継体(けいたい)大王や紫式部、源平両軍、織田信長軍から松尾芭蕉まで、日本史に登場する様々な人物がここを通過している。もちろん道元禅師に従う寂円さんも例外ではない。敦賀市内から木ノ芽川沿いに遡ると新保という集落に着く。ここから山道が始まる。登りはかなり急峻で体力がいる。標高六二八メートルの頂上に出ると、そこには道元禅師の記念碑が立っている。建長五年(一二五三)八月六日、病の治療のために京都へ向かう禅師が、永平寺に向かって拝礼をした場所という。永平寺に最期のお別れをしたのであろうか。ここから道は下りになる。言奈(いうな)地蔵を経て、二ツ屋の集落を過ぎると、今庄町へ続く道路に出る。JR敦賀駅から木ノ芽峠を経由してJR南今庄駅まで歩く行程だと、早朝出発しても到着は夕方になる。かなりきつい。車を上手に利用して頂上付近だけ訪ねるのもいいだろう。寂円さんが歩いた当時を想像しながら、木ノ芽峠の風景を堪能していただきたい。

 言奈地蔵堂

 この後、道元禅師一行は日野川に沿って下り、志比庄の吉峰寺(きっぽうじ)へと向かう。寂円さんは京都から越前までの旅を続けるうちに、この国の山や木々の緑や川の流れの中に、如浄禅師がいつも言っていた「深山幽谷に住み、仏祖の正法を学べ」という言葉を思い起こしていたに違いない。寂円さんはこのあと越前の深山をこよなく愛し、九十三歳の天寿を全うする。孤坐淵黙(こざえんもく)(独りぼっちで静かに坐す)、只管打坐(しかんたざ)の人生であった。読者の皆様もこの夏は吉峯寺、永平寺、宝慶寺(ほうきょうじ)(JR越美北線越前大野駅下車タクシー二十分)を訪ねて、寂円さんの気概に触れていただきたい。

(了)

 吉峰寺

(写真協力:琵琶湖汽船/びわ町観光協会)