お盆対談 今、子どもが危ない
宗教的感性を考える

お坊さんが生きている姿が仏教だ


文化庁長官として「文化で日本を元気にしよう」と呼びかける河合隼雄氏は、臨床心理学における日本の第一人者。
これからの「日本人の宗教性のありかた」を追求する宗教人類学の佐々木宏幹氏は曹洞宗の僧侶でもある。
「タバコは吸いません。ぼくは人を煙に巻くほうですから」とユーモアたっぷりの河合氏と、きまじめで直球型の佐々木氏の対談は談論風発。
わたしたち自身が気づいていない日本の文化・宗教のおもしろさと重要さに気づかされて思わず合点。


河合隼雄

文化庁長官・臨床心理学者
京都大学名誉教授

1928年、兵庫県生まれ。
京都大学理学部数学科卒業。1962年から3年間、スイスのユング研究所に留学。
国際日本文化研究センター所長を経て、2001年1月より文化庁長官に就任。
著書に、『ユング心理学入門』、『こころの処方箋』、『父親の力・母親の力』、『仏教が好き』など多数。


佐々木宏幹

駒澤大学名誉教授・曹洞宗総合研究センター客員研究員
宗教人類学者

1930年、宮城県生まれ。
東京都立大学大学院博士課程修了。
著書に、『仏と霊の人類学』、『神と仏と日本人』、『仏と力』、『仏力』など。


見えなくなってきた生と死の境界

佐々木
 このところ毎日のようにテレビや新聞で殺人事件が報じられます。若い者だけではなく壮年、老年のひとでも人の命を平気で奪うという傾向があります。そして一方では高齢化社会を迎えて、お年寄りの自殺が非常に多くなっている。昨年の日本全国の自殺者総数は三万四千人だそうですが、そのうち六十歳以上の人が一万千五百人もいる。一方で人の命を奪うという傾向があり、片一方では自ら死んでいく。これは一体何だろうと思うのですが。

河合 命の大切さというのは、やっぱり心が通じているということがなかったら分からないわけですね。機械はつぶしてもつぶれてもいい。新しくすればいいわけだから。人間は死んだら二度と戻らない。それなのに、人間を機械と同じようにしか思えないというのは、人間同士の心のつながりが切れてしまっているからではないかと思います。今は何でも便利になって、つぶれたら捨てる、そして新しく買うというパターンがあまりに多い。だから、人間も歳を取って古くなったら、ポイッと捨てて新しくすればいいというような感覚がある。事実、今の子供たちには、人間は死んでもまた生まれ変わると思っている子がとても多い。宗教的な意味での再生とかいう意味ではなく、コンピューターゲームなんかで、ゲームに失敗してもリセットボタンを押せばパッと振り出しに戻る。ああいう感覚なんです。それからたとえば、テレビドラマでも、劇中、俳優さんが死んでもまた別のドラマに出てくる。だから、いつもテレビを見ていると、生きた人間が命を失うということの意味を感じる感覚がすごく弱くなっている。

佐々木 それを感性のレベルできちっと心の奥底にセットできていないんですね。その背景にはやはり家族、おじいちゃん、おばあちゃんたちとのつながりが失われているということがある。たとえば昔でしたら、孫たちが何か悪いことをしてくると、お仏壇の前に引っ張っていかれて、「おまえはうそをついても、仏さん、ご先祖さんはちゃんと見ていらっしゃるよ」と諭された。そういう仏壇のような文化装置が今の家庭から消えてしまったということも、心のつながりを失わせた大きな要因ではないでしょうか。

急速に崩壊して来た宗教教育のシステム

河合 昔は生活のなかに文化装置がうまく働いていた。たとえば、「もったいない」なんていうことばですね。わたしの父親なんか、しょっちゅう言っていて、日常生活のなかで知らず知らずのうちに宗教教育が行われていた。ところが、今の子供に「もったいない」ということを分からせることは非常に難しいわけです。「古くなったものは捨てたらいい。新しいのを買えばいい」となる。日本人が非常に上手に持っていた宗教教育、家庭教育のシステムが急激に壊れてきたことは事実です。

佐々木 しきたりとか習わしというものも、おじいちゃん、おばあちゃんといった家族との心のつながりのなかで、おのずから子供たちの心の中に組み込まれていった。その装置がおかしくなっている。

河合 現代はそれをもう完全につぶしている。たとえば、敷居は踏んではいけない、越すものだというようなことがあった。ところが今では、ドアの前に立つと自動的にドアが開くという時代になってしまって、敷居を越えるという礼儀作法が何を意味したのか分からなくなってしまっている。ほんとうは敷居を越えてあの世へ行くわけですよ。

佐々木 そうなんです。生と死、この世とあの世、此岸と彼岸といった区別をかつては強く意識していた。そしてそれを越えるためにはさまざまな鍛錬とか修養を必要としたので、そうした体験のなかから人々は何かを学んだ。ところが、今や生と死の区別もつかない時代になってしまった。その結果、生のほうもおかしくなると同時に、死とは何かということが見えなくなってきた。

河合 そのとおりで、死ぬということを考えないで、何となくうまいこといったらいいわと、今、みんな思っているわけですね。

死に立ち会った経験のない子供たち

佐々木 先ごろ、長崎県で十二歳の女の子がカッターナイフで同級生を殺すという事件がありました。そのとき直木賞作家で教育評論家の重松清という方がテレビで発言しているのを見たのですが、今のニュータウンを見れば、なぜそういう子供が出てくるか分かるという。ニュータウンには瀟洒な建物が建っていて、二十万三十万という人たちがモダンな生活をしているんだけれども、そこに住む人たちも時間が経ってくれば、お葬式をする場所も欲しいし、霊園にお墓も欲しくなる。ところがそこに業者が入ろうとすると、住民がこぞって署名運動をして葬儀場や霊園は反対だと言う。これはあたかも永遠に快適でモダンな生活がいつまでもつづくという錯覚を持っているのではないか。その結果、今の子供たちは死に立ち会う経験をしていないのではないかと。

河合 そのとおりだと思います。

佐々木 そこのニュータウンにある小学校の先生方も、命の大切さを教えようとして、子供たちと一緒にウサギとか小鳥を飼っている。ところが、たとえばウサギが何かの病気で死んでも、その死骸を子供に見せるということをはばかって隠してしまうそうです。

河合 昔は大家族ですから、子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなる場面に立ち会っていたわけ。しかも、家の中で亡くなられたんですね。それで今、病院ではなく家の中で死のうという運動をやっている方々が出てきました。その人たちに聞きますと、おじいちゃん、おばあちゃんが家で亡くなられると、子供の態度が全然違うそうです。病院で亡くなられて、突然、死体が帰ってきたときは、子供たちは初めから嫌な顔をして拒否しようとする。ところが、自分が見ている前で亡くなられて、末期の水をしたり湯かんをしたり火葬場について行くといったことをした子供は、ちゃんと手を合わせて拝む。

佐々木 一方では、仏教のお坊さんの役割が、だんだん葬祭の場から重きを失いつつあるところもありますね。無宗教葬というのもありますが、最近では直葬というのか、病院で亡くなりますと、いきなり火葬場に行って墓に埋葬する。そうなると、子供が死者に手を合わす時間がほとんどない。

河合 わたしはアメリカでもよくそうした話を聞きます。アメリカでも牧師さんや神父さんの仕事は葬儀屋さんに取って替わられているという。それはエンバーミング(死化粧)というのがありまして、亡くなった人をきれいにして、服も着せて、まったく生きているのと同じ姿でみんなに見せるんですよ。それで葬儀屋さんがえらいもうけている。そこに家族や友人たちがやってきて、「おお、美しい。このまま天国に行けよ」とか、みんなでわいわい楽しくやって別れていくんです。それがはやり出すと、牧師さんが説教する出番なんてないわけです。要するに死を拒否しているわけですよね。

佐々木 日本でも、日本人の宗教感覚から無常という、生まれたらやがて歳を取って老い病みそして死ぬという、そういう感覚が非常に弱まってきている。

河合 弱まりましたね。昔から日本人の人生観、生死観の根底にあったのは無常観だったんですがね。しかし、それが今は無常観どころか、とにかく今を楽しく生きましょうというふうに持っていっているんですね。今を楽しく生きるのも結構だけれども、死ぬことを忘れていたのでは話にならない。

生活のなかに溶け込んでいる宗教性

佐々木 無常観を含め、仏教というものは日本文化のなかで大きな役割を果たしてきたと思いますが、そうした宗教的感性をどう伝えたらいいのでしょう。

河合 ちょっと難しいですね。私はよく外国に行くでしょう。そしたら、おまえの宗教は何かと聞かれますね。で、私は仏教と言うでしょう。そしたら、すぐに彼らは教会へ何曜日に行くかとか、経典をどのぐらい読むかとか、戒律はどのぐらい守るかということを聞くわけです。いや日本人は戒律はあまり守っていません。お寺はあまり行きません、経典もあまり読みませんと言うと、そんなものは宗教ではないと言われる。それでぼくは、日本という国は宗教性が深く、日常生活と入り混じった生き方をつくってきた文化で、ちょっとした日常茶飯事の中にそれが生きている、だから取り立てて、そういうことをしなくてもいいんだと言うとすごく感心する。だから、外国人のなかでも日本のことを、「こんな無宗教の国はない」と言う人と、「宗教性の深い国ですね」と言う人とがいるわけですが、日本人の宗教性のそうした特殊性がありますね。

佐々木 今のお話になるほどと思ったのですが、NHKなど日本のマスコミでも宗教に関して、「あなたは神や仏を信じますか、信じませんか」といった世論調査がされる。そうすると大体ここ四、五十年、信じるという人が三〇%くらいで、信じないという人が七〇%くらいです。ところが正月三が日の間に、どれくらいの人が最寄りの神社にお参りに行くかというと、七五%から八〇%くらいの人が行っている。

河合 もっと行っているかもしれません。

佐々木 そうですね。だから、統計というのは一神教的な、あれかこれかどちらかを選べという二者択一ですが、日本は混交文化ですから、なかなか選べない。

河合 わたしもそう思います。日本ではそうした宗教性が生活のなかに入っていますからね。たとえば、ご飯を食べるときに「いただきます」と言う。これは、自分の力で手に入れたのではなく、何か超越的なものから「いただいている」という感性ですね。そうしたものが、日本では日常あらゆるところに入っている。

佐々木 ご飯でもこぼしたら、「もったいない」という、それですね。

河合 そうです。ところがね、その「もったいない」という意味をアメリカ人に説明するのはとても難しいんです。「ああ、分かった。浪費はいかんということだな」と言う。「そうでなく、ご飯粒一粒でも有難いということだ」と言ったら、「それは、どういう意味だ」と言うので、ゆっくり話をしていったら、「なるほど」と頷くのですが、そこまで行くのにずいぶん長くかかりますよ。

佐々木 そうだろうなと思います。それは日本文化論の極めて大事な部分だと思いますね。わたしは大学で百名ほどの学生に宗教のデータを取ろうと思ってアンケートをやったことがあります。そのときに、NHK方式の「信じるか、信じないか」で答えてもらっても駄目だと思って、「お墓とか仏壇、お寺などの宗教的空間に行ったとき、何かそこにいると感じますか、感じませんか」と聞いたことがあります。そうしますと、男子学生は九三%、女子学生にいたっては九七%が感じると答えた。

河合 それは質問がいいんですよ。

佐々木 あいまいでありながら、しかも社会や人間を超えた何かのリアリティの影響を受けているということを感じている。それを宗教性ということばに置き換えると、今の若い宗教学者が「霊性」とか「精神世界」とかいうことと重なるんだろうと思います。

河合 そうですね。ただ、「霊性」と言っているのは、英語のスピリチュアリティの訳で、スピリチュアリティと言われると、何となく高い気がするんですね。昔、ぼくはよく冗談で言ったんですが、「日本の神様、仏様は上だけでなく下にまでいてくださるんだ」と。つまりもっと身近なところにね。日本人の宗教性は、英語でいうスピリチュアリティとは違うと思っています。

佐々木 そうですね。日本人が何となくお墓に霊がいるだとか、位牌の中に先祖の魂がいると感じるのとは違う。

河合 そうです。日本人の場合は、ほんとうに石一つにでも何か霊的なものを感じたりするわけですから。

高度な哲学と生活レベルの宗教的一致

佐々木 それで思い出したのが、京都大学名誉教授の上田閑照先生です。わたしは上田先生の宗教哲学は非常に観念度、抽象度の高いものだと思っていました。ところが昨年十二月にちょうどお会いする機会がありまして、こういうお話をお聞きしました。ご自分のおうちの近くにかなり古いクスノキがあるそうです。毎朝起き抜けに、そのクスノキの前に行って、大きく空気を吸いながら、円相を画いて、「クスノキの神様、南無クスノキの神様、きょうも一日よろしく」というようなごあいさつをして、それから一日を始めるそうです。それで、わたしは「先生の宗教哲学とアニミズムがそこで合体しましたね」と言ったら、「それ、それが大事ですよ」とおっしゃった。

河合 上田先生はご自分の著書をドイツ語に訳して外国に出したりされるので、概念とか抽象度というのは高くしておられますけれども、その背後の体験はすごいものです。わたしもいろいろ教えられました。上田先生に会うまでは、禅というのはいい加減なことを言っているのではないかと疑っていたのですが、先生を見ていたら、やっぱり禅というのは本物だと分かる。先生の生き方にそれがちゃんと出ているんですね。

佐々木 上田先生はスピリチュアリティ(霊性)といっても、極めて抽象度が高いものと民衆レベルというか民俗的なものとを重層化して押さえておられますね。やっぱり、これからのお坊さんとか宗教家はそういう姿勢を持たないと駄目だなと思います。

河合 それが、これからのお坊さんの難しいところじゃないでしょうか。仏教学というのは、すごい歴史があるでしょう。わたしは、華厳経の縁起の思想なんてすごいと思いますよ。しかし、それを学問として習い出してそっちに入り込んでいったら、現実の生活感覚のほうが抜けていくわけですね。自分が生きている、生活しているということと、高度な仏教学はどこでつながるのかということを、お坊さんたちには努力して説明してもらわないといかんですね。

佐々木 民衆がお寺にくるのは塔婆を書いてもらって先祖の墓を拝むためにくるのに、お坊さんは縁起だとか空だとか、高度な仏教哲学を教えようとする。それでは民衆と遊離してしまう。かといって、民俗宗教、精霊信仰だけを強調してお寺を運営すると、いわゆる知識人たちから、仏教はそんなものではない、今のお坊さんはだめだと非難される。そうすると、そこの複合がとても大事になる。

河合 それがものすごく難しい。この間、旭堂小南陵という講談の名人にお話を聞いたのですが、そのときに節談(ふしだん)説教というのをやってくださったんですよ。それを聞いていると、昔の坊さんがたは、どれだけ努力したか分かりますわ。仏教を分かってもらって、ちょっと喜んでもらうためには、落語的なことを言って笑わせたり、そして涙が出るようなところでは謡い語る。あれだけの努力をして、民衆のなかに入って行ったわけでしょう。ところが、今、ものすごく難しいのは、一般の人間は自然科学を武器にしているんですよ。

佐々木 おっしゃるとおりです。

永平寺玲瓏の滝

今、見直される神仏習合の世界

河合 ぼくは科学的な思考法と宗教的な思考法をつなぐものとして、やっぱり仏教が一番強いんじゃないかとは思っているんです。しかし、それを説法で説明するのは難しい。それで、わたしは玄侑宗久さんの書いた『中陰の花』などはおもしろいと思います。文学はやっぱり仏教的なものをみんなに伝える力を持っている。

佐々木 芥川賞選考委員のなかには当初、あの作品のよさがよくわからない人もいたらしい。ところが石原慎太郎氏は、「いや、こういう近代合理性で割り切れないようなものを人間の実存というものは持っている。だから、玄侑宗久氏のこの小説の材料は文学の永遠の課題だ」と述べられた。

河合 そうですか。石原さんもええこと言うね。(笑)

佐々木 それで、『中陰の花』が芥川賞になって、河合先生がその書評を書かれましたね。あれは、心理学的にも突っ込んだ解説だったと思いますが、それでわたしが感じたのは、日本人の宗教性のいい意味での「あいまいさ」ということです。キリスト教のような一神教では、高いものと低いものとを二元論的に分ける。たとえば神と人間、神と悪魔といったように。ところが日本は、そこをつなぐような弾力的で柔軟性に富んだ文化を体質的に持っている。哲学者の梅原猛先生がこのごろ円空仏を祭ってあるお寺を訪ねて歩いておられますね。それで、ある人が、「どうして先生はそんなに円空仏に興味をもたれるのですか」と聞いたら、先生は、「仏教以前から日本には樹木神とか、樹霊という信仰があって木を拝んできた。これは神道である。その木に仏を彫り入れるということは、神と仏がそこで一体になることだ」とおっしゃったそうです。

河合 それは、おもしろいね。

佐々木 それを聞いて思いましたのは、明治以降、仏教は廃仏棄釈で神道と分離させられたわけですが、日本の精神や文化を考える場合、これをもう一度考え直す必要があるのではないかと。

河合 熊野古道が世界遺産になりましたけれども、あれも神仏習合が認められたわけです。まあ、日本は習合的にやっているからおもしろいんですね。

自然とともに生きる感性を子供たちに

佐々木 それに関連して思うのですが、日本で都市とか開発されたところというのはほんの一〇%か一五%で、あとはみんな山林で青々としている。日本列島では自然の七〇%くらいは森林なんだそうですね。だから、死んだ人は山に行って仏になるという日本古来の信仰もそういうところから自然に出てきた。そういう自然というものを、もう一度何かの形で教育の場に持ってこれないか。

河合 そうですね。自然とともに生きているという感性を日本人は強く持っているわけです。そういう生(なま)の体験をするようなことを、もっとみんな考えるべきだと思います。自然観察ばっかりせんとね。このごろよく小学校なんかでやるようになりましたが、無人島へ行ってみんなお米だけもらって、あとは自分たちで炊いて食べたりするという体験学習がありますね。ああいうのをすると、子供たちは喜ぶんです。そういう感性を子供たちは本来みんな持っているんですから。そういう体験をもっとしたらいいとわたしは思います。ヨーロッパとかアメリカはそれをすでに考えていて、都会に住んでいる子供たちは夏休みに山の家に宿泊に行くのです。そこで思い思いの方法で好きなことをして帰ってくる。わたしは日本でもそういうのをもっとやればいいと思います。それはもちろん親子で行くのが一番いいが、むりなら夏休みの一週間とか二週間、子供を山小屋なんかに預かってもらって、好きなようにそこらを遊ばせたり、勉強させて帰ってくる。大事なことは、そこにはテレビもゲームもないこと。それが一番大事なんですよ。
 今、日本でもそれの走りみたいなことをやっている人がいます。昔「青年の家」というのがありましたが、そういうところで、小学校の先生も生徒もいっしょに来てもらう。で、午前中は学校と同じように勉強をするんですよ。そのあとは放課後ですから、みんな好きなように遊ぶ。もちろん、テレビもないし、そしたら、子供たちは上手に遊ぶそうですよ。子供同士の対話もものすごい増えるそうです。「あれやって」「これおまえやれ」とか言って。それで山の管理人の人が見ていますから、先生には放課後はもうほっといてもらう。そうやって一週間もいると、子供たちがものすごく元気になるそうです。だから、そういうことをもっと組織的に考えてほしいと思いますね。

お寺を開放して子供たちに来てもらおう

佐々木 曹洞宗には全国で約一万五千カ寺のお寺があるんですが、そのうち七〇%ぐらいは農山村地域にある。お寺は境内が広くて、緑があってカエルとかセミとかがいる。そういうところに子供たちを連れて行くといいですね。

河合 そうですね。それで、子供たちには、何もお寺へ来たからといってお参りなんかせんでもよろしいと。

佐々木 そうです。

河合 ともかくそこで好きなことをしたらいいんやと言うてね。ところがね、お坊さんが朝からお勤めをしておられたら、子供たちは大体みんな来るんですよ。それがまたおもしろい。あれ、「来い」といったら来ないんですけど、みんな好きにしたらええ、と言ってやっていると来る。テレビなしの生活で、山の中でチョウチョとかトンボとか採ったりして遊んでもらう。それで一週間たったら帰ってくださいと。そうしたなかで、親子で料理するのもよし、精進料理を食べるのもよし、色んな方策を考えてやってもらったらいいと思います。そのときに、仏教をどう教えようとか思わんでもいい。「お坊さんが生きている姿が仏教」なんですからね。

編集部 ありがとうございました。お坊さんが生きている姿が仏教なんだという、すばらしいことばを最後にいただきました。これは全国のお坊さんがたにとって大きな励ましになることばだと思います。


(平成十七年三月十七日 収録)