『正法眼蔵』 道心の巻より(1)

長崎県天祐寺 須田道輝


「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありようしる人まれなり。あきらかにしれらん人にとうべし。よの人は道心ありといえども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなし、しりがたし。おおかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり」


 正法眼蔵九十五巻の中で「生死」「道心」とは、他の巻からすると、とても易しく説かれています。両巻はおそらく在家の人々に向かって説かれたものであろうといわれています。たしかに文面は易しく、しかも在家者がいちばん知りたい安心(あんじん)をかんで含めるように説かれています。眼蔵は 主に出家求道者に向かって垂示された聖訓ですから、人によってはこの両巻を軽くみる人もいますが、よくよく参究すれば、他の眼蔵の主旨と同じ深さをもっていることに気づくはずです。
 まず「道心」ということば自体が、ものすごく迫力あることばです。永祖(道元禅師)は出家在家を問わず道心の重さを口がすっぱくなるほどお説きになっておられます。
 道心とは菩提心ともいいます。菩提とは梵語で無上道心という意味で、最高最上の悟りを求めることです。この志をおこすことを発心(ほっしん)ともいいます。みな同じ心です。
 仏道を求める心がおこるのは、仏縁に出遇うからです。仏縁に出遇わない者に無上道心は発(おこ)りません。その仏縁とは、世間の無常を知ったとき、世の中の虚(むな)しさを観じたとき、自分の弱さを自覚したとき、人生に疑問を感じたとき、そこに不動なるものを求める心が湧きおこることが仏縁です。その縁にふれて道心を発(おこ)すことを、永祖は「道心とは無常を感ずる心」と述べられます。
 また多くの悩む人々をみて、仏道によって安心を見出してほしいと願う心も道心です。永祖は「菩提心をおこすというは、己(おの)れいまだわたらざるさきに、一切衆生を度(わた)さんと発願(ほつがん)するなり」と申され、苦しんでいる人々を仏法によって救済せんとする心も道心であるといわれます。
 私事ですが、私は十代後半、家庭的な問題で悩み、その上敗戦による価値観の変化による不安定期にあったとき、たまたま出会った法華系の行者さんによって仏法のあることを知り、ただ経典を読誦するという単純な行事で、どれだけ心が安らいだかわかりません。
 宗教心とは実践から生まれるもので、ただ仏教書を読んだだけでは道心は発(おこ)りません。道場に通ううち、道場に集まる人たちがそれぞれ深刻な悩みを抱えていることも知りました。たとえ常識的には低級な悩みであっても、仏法は悩める人々に新しい生命を吹き込むことができるということを身をもって体験し、私は僧になろうと決心しました。
「道心をさきとす」禅門には「十牛図(じゅうぎゅうず)」という仏法の指南書があります。仏法に出会ったなら、どのような境界(きょうがい)を踏んで悟境に至るかを示した絵図ですが、その第一図が「尋牛(じんぎゅう)の図」です。牛とは仏境界です。ひとりの童子(求道者)が、仏法を求めて発心し、仏はどこにいるのかと、牛を探し始めるのが尋牛です。
 その牛のいるところは、名利を求める賑やかな世間の方向ではなく、静かでさびしい山中にあると知ることです。この第一歩を見まちがえると、本物の牛は永遠に見ることができなくなります。仏法の方向をまちがわないことを示したのが「尋牛の図」です。
 しかし初心の者は、道心がなんであるかはよくわかりません。そこでまず、明眼の師を尋ねて「道心とはなにか」を問うことが大切だと永祖はいわれます。道心者を装っていても、本物の道心のない者もおり、道心があっても人に知られない者もいるから、よくよく注意しなければならないと示されます。