彼岸対談 日本仏教再生への道を探る
問い直される死者との関係
日本の仏教は葬式仏教であると、なかば批判をこめて語られることがあります。
しかし、日本仏教再生への道は、問題を回避することなく、仏教と死者との関係を正しく問い直すことにあるのかもしれません。
気鋭の仏教学者で東京大学教授の末木文美士氏と、宗教人類学の佐々木宏幹氏が今の仏教界の患部に鋭いメスを入れる対談です。
末木文美士
1949年、山梨県生まれ。
東京大学大学院博士課程修了。文学博士。
東京大学大学院人文社会系研究科教授。
著書に、『日本仏教史』、『鎌倉仏教形成論』、『解体する言葉と世界』、『明治思想家論』、『近代日本と仏教』など。
佐々木宏幹
1930年、宮城県生まれ。
東京都立大学大学院博士課程修了。文学博士。
駒澤大学名誉教授、曹洞宗総合研究センター客員研究員。
著書に、『仏と霊の人類学』、『神と仏と日本人』、『仏と力』、『仏力』など。
日本人に宗教はあるか?
佐々木 いまの日本人に、「あなたは信仰を持っていますか?」と聞くと、大体七〇パーセントくらいの人が持っていないと答える。それで日本人は無宗教だなどと言われることがあります。しかし、日本人には何か異常事態が起こったときなど、それまで眠っていた宗教的なものが噴出してくるということがある。
たとえば、先日起こったJR福知山線での大事故ですね。事故から十日以上経っても献花をする人々の列が絶えない。みんな仏教式に合掌してひたすら祈念している。十九歳の娘さんを亡くしたというお母さんなどは、「苦しかったろう、迎えに来たよ、一緒に帰ろう」と語りかけている。すでにご遺体は運び出されて火葬され遺骨になっている。それなのにどうして死に場所に来て語りかけるのか。電車が激突したマンションの住民の三分の二以上が、こんなところにはとても気味が悪くて住めない、引っ越したいと言っている。
それは、死者の霊魂は死んだ場所に留まるという日本古来の草の根信仰のようなものかも知れませんが、それが現代でも、事故とか異常事態が起こると、人々のこころに感性のレベルで噴出してくる。
末木 日本人が宗教を持っているかどうかということは、よく議論になるんですが、その際、まず宗教ということばの問題があります。宗教というのは本来は仏教のことばですが、これが近代になると、ヨーロッパから来たレリジョンの訳語として使われるようになります。そうすると、宗教というのは一神教的に個々人が精神的に強く信じるもの、信仰するものだと理解されるようになったわけです。そうなると、一般の日本人は、個人として強く宗教を信じているかと言われると、戸惑いを感じるのが普通だろうと思うんですね。
今、災害の場合のお話をされましたが、私も以前から不思議に思っていることがあります。たとえば小さいお子さんを亡くされたお母さんがよく、「天国にいる何々ちゃん」という呼びかけをする。「極楽にいる何々ちゃん」とは、まず言いません。
佐々木 そうですね。
末木 今の日本人は天国とか神様というようなことばをごく普通に使うんですね。で、そういう人たちはキリスト教徒なのかというと全然そうではない。教会で結婚式を挙げるといっても、それは単にキリスト教的なムードを嗜好しているだけです。
では、日本古来の伝統的な仏教の死生観とか神仏観といったものを、そのまま持っているかというとそうでもない。初詣に行きながら、ここの神社にはいったいどういう神様が祭られているのかと聞いても、大部分の人が答えられないだろうと思います。それでもやっぱり初詣に行くという行動はある。そういうわけで、ヨーロッパ的な宗教という概念を持ち込んで、さあ、信じているかどうかと問われたら、これは聞かれたほうも混乱してしまう。
無視されてきた葬式の意義
佐々木 そのあたりの日本人の曖昧さが批判の対象になって、日本人というのは訳が分からない人たちだと言われることも多い。しかし、その訳が分からない曖昧な中に生きている日本人の宗教的風土は、ばっさりと否定されるべきものではないでしょう。
末木 そうだと思いますね。今まではヨーロッパの近代的な宗教という概念によって説明できないものは隠してしまう傾向があった。それはたとえば習俗化された葬式仏教といったものです。近代にも日本には仏教思想家はたくさん出て、非常に優れた思想を展開しましたが、その中には一言も葬式の問題なんか出てこない。それは問題でしょう。
佐々木 その点ですね。今ご指摘いただいた問題はじつは、現場で葬祭に携わっているお坊さん方に深刻な問題を投げかけていると私は思います。お坊さんがたは大学などで高度に体系化され、哲学的にも深い、空とか縁起といった高遠な教義を学びます。そして、釈尊は死後のことについては何もおっしゃらなかった。今をどう生きるべきかということを説かれた。だから坊さんは死者を前提とした葬祭などにかかわるべきものではないといった考え方を学ぶ。
ところが、実際に寺に帰って檀家との付き合いがはじまると、人々は大学で教える仏教学などに興味はない。ただ死者のために葬儀法要をきちんとやってくれればそれでいいということになる。そうなるとお坊さんは非常に悩むわけです。仏教とはいったい誰のためのもので、どう役立つのかと。
末木 寺檀関係というのは江戸時代に制度的に作られたもので、お寺はそれに乗っかっていさえすれば社会的にも経済的にも保証されていたので、お坊さんはただ決まりきったルーティンワークをやっていればよかった。明治になってもそうした家の宗教という考え方が持続してきたために檀家という制度が残ってきたわけですが、今社会そのものが変わってきて寺檀関係も崩壊しつつある。
だから余計、お坊さんがたの悩みも深刻だと思います。どうしても新しい仏教の在り方をやはり現場で考えていかなくてはいけない。高齢化が進み、少子社会が来るという中で、墓を誰がどう継承するかという問題も出てきた。それこそ、お姑さんと一緒のお墓じゃ嫌だという女性だって出てくる。それは当然だし、私自身も個人的にはお墓を造るより自然葬で、死んだら灰を撒いてもらって自然に帰るほうがいいと思っているぐらいですから。
極端に言えば、そういう中で駄目なお寺は淘汰されると言いますか、一般の人たちもお寺を選べるという状況になってきていると思うんですよね。
今必要とされる死者の意味付け
佐々木 今、新しい仏教のあり方が求められているというお話がありましたが、私はそこでとくに、仏教と死者との関係ということに焦点を当てて考えてみたいと思います。
仏教の現場において、死者とか先祖とかということを今までとは違った方向で新たに意味付けする必要があるのではないかということです。冒頭に申しましたように、死者はどこに行くのかそれは分からないけれど、とにかく死者と生者とは深い縁でつながっているという感性を日本人は強く持っている。ところが、お坊さんたちのほうが、そうした日本人の感性をどう仏教教義とマッチさせて説いたらいいのか思案に暮れているところがある。
そこで、私は思うのですが、例えば、広島の平和公園に「安かに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という誓いの碑がありますね。末木先生も何かで発表しておられましたが、原子爆弾によって火だるまになって亡くなった十何万もの人たちが、ただ眠っていていいのだろうか。もう一度、死者はよみがえって生者と共に戦争の悲惨さを訴え、平和を希求する生者に力を貸してくれる死者であるべきではないか。
そういうふうに、一般の死者についても積極的な意味付けを全国のお坊さんが自覚的にしたら、葬祭仏教は古いんじゃなくて、むしろ新しい何か仏教再興のきっかけになるような気がするんですが。
末木 明治以降の近代の仏教者の理論というのは死にかかわる仏教ではなく、現世的というか今生きるための仏教だったんです。そのために、亡くなった人とどうかかわるのかという面が見えなくなってしまった。確かに、じゃあ死んだらどうなるのかというときに、特に日本の仏教の場合は非常に曖昧なんですね。キリスト教のように天国へ行くか地獄へ落ちるかというような明快な答えがない。もちろん仏教でも、チベット仏教などでは輪廻を説くから非常にはっきりしているし、日本の仏教もある面では輪廻という考えを取り入れている。
ところが輪廻で考えた場合には、四十九日過ぎればもう生まれ変わっているんだから、お墓もいらないし、その後の供養も必要ないということになる。日本の仏教は理論的には説明できないことをやっている。
ですが、私がこのごろ考えるのは、そこを無理に説明しなくていいのではないかということです。死んでからのことなんて、はっきり説明できるほうがおかしい。だって、生きている人は誰も死んだ経験はないわけです。輪廻するのかもしれないし、あるいはキリスト教のいうように天国か地獄へ行くのかもしれない。どちらが正しいなんて言える人はいないはずです。そうであれば、分からなくて当然なんです。しかし分からなくても、亡くなった人と生きている人はやっぱりなんらかの形でかかわらなければいけないということも、また間違いない事実なんですね。
ですから、死んだらこうなりますという死後の理論を精密に構築していくことではなく、私たちが現に死んだ人となんらかの形でかかわらなければ生きていけないということを大事にしていかなければならない。お坊さんがたも葬式を通して仏教が果たしてきた役割をもう一遍見直す必要がある。それなのに、それをなにか、葬式仏教というのは恥ずかしいことのようにしてやっている。本来の仏教ではないんだけど、方便として仕方がないからやっているんだというふうなことを現場のお坊さんが言うんです。それは亡くなった人に対して失礼です。そんな方便で葬式をやられたら、死んだ人だって浮かばれませんよね。
死者を考えることは全宇宙を考えること
佐々木 おっしゃるように、近現代の仏教学というのは、仏教はこの世の一日一日をいかに意義深く燃え切って生きていくかの方法なんであって、あの世のことなんてどうだっていいんだというようなことを高僧も学者も説いたんですよね。合理性、科学性を無理やり仏教に持ち込んだために、日本仏教を歪曲化してしまった。それをやっぱり解き放たないといけませんね。
それから、日本の仏教以前の宗教を見ると、人々は死者を祭っていれば死者はだんだん清まって、その一族を助けてくださる存在になると信じた。仏教が入ってくると修行した僧侶の力を借りればもっと死者は鎮められ、先祖化もうまくできるんだとされた。そしてその先祖霊は最終的には仏様になるという仏教的な意味付けもされたんですが、そうした観念が急速に弱まってきている。
それは今おっしゃいましたように、現場のお坊さんが、本来の仏教でないものをわれわれはやらされているんだ。しょうがなく生活のためにやってるんだけど、本来の仏教はもっと高度なものでこんなものではないと考えている。じゃあ民衆化した仏教というのはなんだろうという答えは誰も出さないし、研究もされてこなかった。葬式だとか法事は仏教への入り口であり、かかわりのご縁を持つ機会であって、それから先は教義的にはこう高まっていくんですよ、というふうなカリキュラムを考える時代かもしれないですね。
末木 それは難しい問題ですね。今、時代が急速に変わりつつあって、従来の先祖崇拝というものがだんだん成り立たなくなっている。そういう中で、では死者というものをどういうふうにとらえ直していけばいいかという問題なんですが、われわれが今生きているということを考えると、それは単に自分の家のご先祖様という問題ではないわけですね。私たちが生きているためには、過去にさまざまな形で、いろんな人が一生懸命生きてきて、いろんなことを考え、いろいろな工夫をしてやってきた、そういう長い積み重ねがある。そして時には戦争もあって、悲惨な死に方をした人たちも大勢いる。そうやって過去を生きてきた人たち一人一人の一生というものは、それぞれみんな重みを持っているわけです。
そう考えれば、私の祖先というふうな閉ざされたものではなく、過去をそうやって生きて亡くなったすべての人たちが果たしてきたことをしっかり受け止めていく必要がある。そうやって今、われわれが生きていくことができるのだという、そういう視点が必要ではないかと思っているんです。
佐々木 末木家の仏さんとか、佐々木家の先祖とかというのではなく、汎死者論と言いますか、もっと広げて死者をとらえられないかということですね。それはもしかしたら、汎人類的なつかみ方と同じになってくるのかもしれない。その場合の死者は何々家先祖代々というのではなく、思想としての死者ですね。
そうすると、今までのように、うちの宗旨の宗学ではこう説いているからとか、偉い先生がこう言っているからというのではなく、一人一人が自由に死者像というものを考えて現実に対応していくという時代になるのかもしれませんね。
末木 おっしゃるとおりだと思うんです。今までのように宗派同士で争って、自分の宗ではこうだ、こっちの宗ではこうだと死者に対する考え方を主張しあっているだけでは済まなくなる。もっとも、それぞれの宗派の教義というものは、それぞれの必然性を持って出来てきているものですから、すぐに改竄してしまえというな安易なことはできない。それぞれの宗門の人がきちんととらえ直していくと同時に、開いていく努力というものが必要になっていくだろうと思います。
死者と生者の共同体
佐々木 葬式仏教というのは、教義レベルからは貶められてきたような感のある領域なんですけれども、一般的に見ればそれは死者を成仏させるということですね。そして死者を仏にさせるという営みを通じて、生者も仏に縁を結び、仏に近づく道だということでしょう。
ところが、死者を仏にするということと、生者が仏になるということが、うまくかみ合っていなかった。その両者の関係をどういうふうに考えるか、それはこれからの問題だろうと思います。
それから、来世なんていうのはあるかないか合理的には判断できないから、考えるのは無駄だという言い方はやっぱり迷妄であって、人間はこの世っきりで生きられるはずがないということですね。この世のことしか考えないから、地球環境問題とか資源不足の問題も出てくるのではないでしょうか。宇宙全体とまでいかないかもしれないけれども、死者を含めた大きな世界観を持つべきでしょう。
日本仏教の場合にはそれが先祖を供養したりすることから始まるとすれば、それによって死者と生者との共同体を再構築していくことができる。これからの仏教学がそういう問題まで視野に入れて、空を説き、無常を説きということになると、非常に迫力のあるものになってくると思いますね。
末木 そうですね。今おっしゃった環境の問題とかを考えますと、それがもし生きている人だけの問題であれば、極端に言えば自分たちが死んだ先のことなんかどうでもいいではないか、今自分たちだけが安楽に暮らせれば子どもたちがどうなろうが、孫たちがどうなろうが、ましてやその先の五十年先百年先なんてどうでもいいじゃないかということになってしまうと思うんですね。
でも、われわれが死者ということを考えていくと、今度は自分たちが死者になったときには、やっぱり死んだ後の世の中に対しても責任を持たざるを得なくなる。だから、無理に未来のことを考えるというのではなく、まず過去の亡くなった人たちを考えて、亡くなった人たちと一緒に生きていく。それができれば、今度はこれを未来につなげていくことができるのではないか。それを、未来のほうを先に考えちゃうと、方向がちょっと逆なんじゃないかなと思うんです。
それからこれは教理的な問題ですが、死者が成仏するとか、あるいは生者が仏になるという考え方ですね。これはやっぱり日本仏教において非常に重要な概念である即身成仏とか、あるいは禅のほうで言う頓悟という考え方なんかと結び付いてくる問題だと思います。日本仏教の教理が死に関して非常に複雑になってくる一つの理由は、仏教の一般の輪廻という考えに対して、すぐ成仏するという即身成仏とか頓悟という考え方が入ってくるために、それらが重層的になっているからです。やはりそのあたりは教理的にどう解釈するか、さらに検討していく必要があるでしょうね。
例えば禅の悟りのようなものを考えたときにも、即心是仏といって自分がこのまま仏だという考え方がある。それはそうも言えるけれども、自分は仏なんだから自分のやることはすべて仏のやることで、みんな正しいなんて言っても、そんなことは誰も認めてくれないですね。禅の坊さんなんかで、自分の言いたい放題なことを言ったりしている方がときどきある。世間ではあの坊さんは悟った偉い坊さんだからというわけで尊敬したりするのですが、しかしそんな、言ってみれば全知全能になる不思議な悟りなんてあるはずがないですね。
佐々木 おっしゃるとおりです。
新しい死者の思想が必要
末木 ですから、いったい仏というものはどういう形で成り立つのかということですね。一方で死者が仏であり、まただからこそ死者と向き合う自分が仏になっていく。また、死者が仏で、そこで終わりというのではなく、死者を越えて何かもう一つその奥にありそうだというところもあって、そうなると仏は死者を超えた何かとして捉えられる。そういういろんなレベルがあるんだろうと思うんです。
佐々木 重層性ということですね。おっしゃるとおり、二十一世紀のこれからの寺檀関係ということを考えても、新しい仏教の手掛かりとして、死者をいかに意味付けするかということが重要ではないでしょうか。さまざまな問題をかかえながらも、日本人の九〇パーセントが仏教で葬祭を行っているという現実は否定できませんからね。
新しい死者の思想というものをどういうふうに打ち立てるかということはまた、仏教界を塗り換える、越えることなんですけれども、やはり日本仏教は生者が活性化するためには死者も活性化していることが必要で、生者が力を発揮するためにはあの世の死者の力を借りていかなくてはいけない。こういうところが今日の話の帰結になるのかなと思います。
末木 はい、そうですね。そう考えれば、日本の仏教もまだまだしなければならないことがたくさんある。もっとも今の仏教のままでいいんだと安住されては困ります。仏教者には、これから新しい仏教を作っていくんだという気概を持ってもらいたいと思います。
(平成十七年五月十二日収録)