仏教相談
回答者:長井福雄(佐賀県・長得寺)
相談 私の子どもは喘息、心臓病、ダウン症を患っています。先祖が成仏し再生されるように、お墓にお経を入れておりますが、私の願いが届けば、先祖が成仏できれば、子どもの病気が治るはずだと信じています。先祖が迷惑をかけた人たちに、お詫びが届くようにも願っています。そのために先祖の供養は必要だと考えています。自分に起こっていることは偶然ではなく、結果であると思っています。今の状態が良くなれば、先祖が満足しているということになるのだと思います。私は毎年お墓に先祖代々、水子、両親、兄弟の戒名を全部書いて塔婆を一本ずつ建てています。写経も毎日一巻書いてお寺に収めています。私の本当の望みは、早くダウン症の子を治し、この世のすべての障害者を治してあげることです。望みは叶うでしょうか。
(神奈川県・MS)
回答 苦難の現実を受けとめていく力
人々が宗教に救いを求めるのは、治病、招福というのが最も多いと思います。なんとか苦しみを逃れて幸せになりたいというのは人情ですし、病気をして、それが医学にも見放されるほどの難病であれば、それだけさらに人知を超えた神仏の力を恃みたくなるのも当然です。
このかたのように、我が子が重い心臓病にかかり、またダウン症として生まれたことを、なんとか信仰によって救いたいというのも、強く我が子を思う親の一念でしょう。
私は、信仰がそうした願いをすべて可能にするとは思いませんが、しかし無力であるとも思いません。不可思議なるがゆえに信ずという言葉もあります。そのように信じて、信仰を続けられてもいいと思います。少なくとも、その信仰が今のその人の親としての苦しみを救っているのでしょうから。
しかし正信は、とらわれの心を離れることです。あらゆる苦難の人生の現実を忌み嫌うことではなく、そうした現実を受けとめていく力こそが正信です。
山陰地方のある漁村では、その村に知的障害を持った子どもが生まれた時、豊漁を叶える観音さまが遣わされた子として、村中がその子を大切にしたところもあります。観音さまが遣わして下さったものと受け取る信仰こそが正信です。
障害に負の価値しか認めないことは不幸です。人は、業生によって生まれて来るのではなく、願生によって生まれて来るのだと、道元禅師も言われています。そのお子さんは、先祖の悪しき行いによって障害を持って生まれて来たとお考えのようですが、決してそうではありません。
生まれんと願うそのお子さんを、み仏が心優しいあなたを選んで、あなたの子として遣わされたものと信じ受け取ることが正しいのです。障害を持ったその子であるがゆえに、あなたの家庭に、優しさと慰めと支え合う心をもたらし、あなたの家庭と人生を深め豊かにしてくれるでしょう。とらわれの心は、家族の心を離反させ、心を貧しくするでしょう。
障害を悲しいものとのみ考えることは、そのお子さんの存在そのものを悲しむことになるでしょう。むしろ障害あるがゆえに、他に代え難い尊い命と受けとめて抱くことが正信です。今の信仰がさらに深まることを祈ります。