柳緑花紅

心とは山河大地なり

長徳寺住職 酒井大岳
著書に、『あったかい仏教』大法輪閣)、『わたしはふしぎでならない』(鴻盟社)、『りんりんと生きる』(家の光協会)など多数。


 遠くの山々が雪で真っ白である。その雪を見て、「ブナたちは大丈夫だろうなあ」と思う。春になって、ブナの木が十分に水を吸いあげてくれなければ、生態系が大きく崩れてきて、人間も安心して生きてゆけなくなること明らかであるからである。
 わたしの寺にもむかしは山がたくさんあって、ブナの木も多かったのだが、山は崩され谷は埋められ、ほとんどがゴルフ場になってしまった。山が水を抱えてくれなくなって、むかしの古道(ふるみち)を歩いてみても、足の裏そのものが土の感触をなつかしがってくれない。
 わたしの知人に樵(きこり)さんがいる。林業とは言わず、みずから樵と言いとおす人だ。
 この人に「木だって生きているのだ」という一文がある。内容がすばらしく、これはラジオ放送にもなった。一部分を紹介したい。(JULA出版局『みずゞさんへの手紙』より)

――ところが春の芽吹きのころ、大きなブナのもとでひとり昼の弁当を食べていて、なんとはなしに木によりかかったら、木のなかでなにか音がする。耳を澄まして聞けば、それは芽吹きのため根から水を吸いあげる大きな音とわかった。
 わあすごいなー、水が木のなかを音を立てて登っていく、改めて木を下から上へと見上げてしまった。――

 半世紀も前の樵さんたちなら、みな知っていたことかもしれない。しかし現代ではこのような体験をする人は少ないだろう。
 このことがあってから、この樵さんは生きる姿勢を変えた。山にはいるとき、大きな声で「おはよう」と言い、帰るときには「ありがとう、お世話様でした、事故もなくてよかったよ」と挨拶するようになったという。
 ある日、わたしは聞いたのである。
「ブナの大木というやつは、どのくらいの量の水を含んでいるんだろう?」
「七トンです」
 この即答にも驚いた。木のこと山のことで答えられないことなどないのであろう。

 ブナの木でなくても、いま木々たちは雪をかぶって寒さに耐えながら新しい芽をはぐくんでいる。山を歩いてみると、芽を持たない木は一本もない。春になって、それらが一気に水を吸いあげるためにも、遠い山々が真っ白になることはうれしい。

「心とは山河大地なり」
   (道元『正法眼蔵』即心是仏)
「山河を見るは仏性を見るなり」
   (同・仏性)
 この教えを心に、この春は、深い雪を踏んで木々たちと会話をしたいと思っている。