お彼岸特集 大谷先生&北沢先生対談
宗教における生死観

誰もが自らの心の中に 宗教的感性を持っている


大谷哲夫(おおたに てつお)

昭和14(1939)年、東京生まれ。
早稲田大学第一文学部(東洋哲学専修)、同大学院文研(東洋哲学専攻修士課程)終了。
駒澤大学大学院文研(仏教学専攻博士課程)満期退学。
曹洞宗宗学研究所を経て、平成6(1994)年より学生部長、教務部長、副学長を歴任。現在、駒澤大学学長、仏教学部教授。
著書に『道元禅師 おりおりの法話』(曹洞宗宗務庁)、『永平の風』(文芸社)など、論文多数。


北沢 裕(きたざわ ゆたか)

1967年、長野県生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
宗教学者。東洋英和女学院大学非常勤講師。
死後世界説話の比較研究を通して、死生観の考察を続けている。
論文・共著に『メメントモリの物語の系譜』(「死生学研究2003年秋号」所収、東京大学人文社会系研究科)、『生と死の神話』(リトン)、『地中海の暦と祭』(刀水書房)など。


司会 まさとみ☆ようこ

成蹊大学文学部英米文学科卒業。
フリージャーナリストとして雑誌、メディアなど多方面で活躍中。



宗教の疑問を紐解く
人間にとって宗教とは一体なんだろう? 死後の世界は果たしてあるのか? 疑問は膨らむばかりだか、ズバリとした回答を得られないのが現状である。
そこで今回、宗教における生死観というテーマで、駒沢大学学長の大谷哲夫氏、そして、宗教学者で東洋英和女学院大学非常勤講師の北沢裕氏にお話を伺うことに。
「日本の仏教が廃れてしまったのは戦後の学校教育が問題なんです」と、戦後の日本教育をバッサリ斬るお二人に、宗教における生死観を語って頂いた。



日本人のプライド
それは仏教である


【まさとみ☆】人間にとって宗教はどのような意味があるのでしょうか?

【北沢】人間の中にはもともと宗教心があるのではないでしょうか。それはネアンデルタール人のお墓に花が手向けられていたように、人間が人間として歴史上に存在した時から思いやりのこころが自然に備わっていたのだと思います。

【大谷】日本の社会では仏様になった方に対して手を合わせます。日本人であれば自然に行うことです。しかし、そうした宗教心すらが現代の日本人にはややもすると欠けてしまった。これは戦後教育から仏教教育を抜いてしまったからです。戦後の、とくに公教育は日本人の矜持するべきものを全部捨て去ってしまったといってもよい。とはいえ、両親や祖父母たちが毎朝必ず仏壇に拝んでいる家庭では、宗教心は自然と身についているものなんです。宗教の一側面はそういうところにもあると思います。

【北沢】大谷先生が仰る宗教とは、つまり宗教的情操ですね。何か特定の宗教という前に、まず人間の本質として備わっているものなだと思います。ご先祖様に手を合わせるとか、お世話になった人のことを偲んで手を合わせるとか。おそらくそれは人類共通の感性なんです。

【まさとみ☆】人類全てが持ってるもの。

【北沢】それをちゃんと教えていたのが昔の家庭教育の良いところだったと思います。それがなくなってしまった。

【大谷】戦後の公教育は道徳だけじゃなく宗教教育を抹殺したといってもよい。ようやく今、宗教教育を取り戻そう、道徳教育を入れていこうと一生懸命やっている。日本人の精神風土を培ってきたのは、まず仏教なんです。その仏教を知らないのは、それを信仰するしないという以前に、日本人としてのプライドを持っていないと同じ。

【まさとみ☆】日本人だということを、きちんと主張できないとダメですね。

宗教を知るために
最初にすべきこと


【まさとみ☆】宗教を正しく知るために、最初にすべきことは何ですか?

【大谷】仏教について少し説明しましょう。仏教とは読んで字の如く、仏の教え。釈迦牟尼(お釈迦さま)が普遍的な真実を体験して仏陀(覚者)となった教えです。ですから、仏教は自己完成をめざす教えといってもよいのです。そして、仏教の一番大切なことは、釈迦牟尼の悟りの世界へ誰もが行けるということなのです。

【まさとみ☆】なるほど。仏教は釈迦と同じになれる。では、他の宗教はいかがですか?

【北沢】全く違います。誰もが釈迦牟尼と同じ状態になれる、悟れるというのが仏教の一番凄いところだと思います。キリスト教もイスラム教もユダヤ教も神は全く同一の神なんです。ただ、その神がどういう性格をしているのかは、それぞれの宗教で少しづつ違ってはいますが。一神教的な神は我々の遠くにいて、我々を見守ったり、我々が悪いことをすると何か罰を用意していたりする。慈しむ反面、怖い面を持つ父親のような存在なのです。
 ところが、仏教にはそういう離れた存在がいません。誰もが自らの心の中に仏となる契機を持っているんです。つまり仏教には一神教の神のような崇拝対象は本来なかったのです。

【まさとみ☆】仏教はイスラム教やキリスト教などとは全く違う考えなのですね。

【大谷】仏教には自力と他力の二つの考え方があります。浄土信仰の考え方による他力。こちらはキリスト教に非常に近いとはいえるでしょう。すがる対象である阿弥陀如来が我々を救ってくれるんです。ところが、自力である禅宗は己の世界を構築するんです。だから、只管打坐あるいは公案の世界で己を確立していく。ただ、双方ともに仏教ですから、悟りを得て覚者になるという点ではどちらも変わりはありません。

【北沢】ある時期から、キリスト教やイスラム教の中にも神秘主義という考え方が出てきました。神というものは遠くはなれた存在ではなく、私たちの中にいて、いつも神と向き合うことができるんだというものです。究極においては神と合一できるというものです。その意味では、禅の思想に近いものと言えると思います。

【大谷】仏教では「仏性」と言います。それは普通全ての人が仏になる可能性とされますが、道元禅師は、草木国土・日月星辰の全てが現に仏であることだとされます。仏教は長い歴史の中で、あらゆる要素を複合的に内包します。禅はとくに自己存在の確立に最も心を砕いた教えと言えます。

【まさとみ☆】つまり、宗教は違えども、どこの方向から行っても行き着くところは同じと考えて良いのですね。

【大谷】そうです。ですから、我々は日本人として日本文化の中で育った以上は、仏教の基本を理解しないと日本の文化の体質は分からないということになります。 『身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり』。例えば、刺青を入れたりして、故意に身体を傷つけちゃいけない、親孝行しなさいって言うでしょう。それは儒教の教えです。
 そして、生きている時に何か苦しいことがある。受験勉強をして、あそこの大学に入りたい。どうか宜しくお願いしますと行くのは、湯島天神。神様にお願いするんです。そして死んだら坊さんにお願いして葬式をする。縁があって結ばれました、という。
 これはどういうことかというと、日本の文化の底流に儒教と神道と仏教の三教の教えが、伝統的に、知る知らないということを越えて存在しているということなのです。それが日本の根底にあるのです。

密接な関係を持つ
日本文化と仏教


【まさとみ☆】仏教と日本文化は密接な関係性があるんですね。

【大谷】仏教というのは、まず仏として生きることを教えます。そこに心の平安があるからです。長い歴史の中で、仏教というのは、先ほど言った三教(中国では儒教・道教・仏教)が融合と離反と調整を経ているわけですから。現代の仏教を日本の文化の一環としても捉えていかないと、日本の仏教というのは現実的に理解されないと私は思います。

【まさとみ☆】確かに、文化をしっかり理解していないから分からないのですね。

【北沢】道元禅師は清規として所作、振る舞いを規定されました。食事において音を立てないとか、箸や器の扱い方などの作法は禅をはじめとする仏教文化によってつくられ、美しいマナーとして伝承されてきました。その昔、道元禅師がされたことを全く自分たちも追体験できるわけですから、それはすごいことですね。そして長い伝統や文化に支えられた所作の型は、その文化の外に出ても通用する普遍性を持ちます。今一度、背筋をピンと張って、堂々と生きる姿を身につけたいものです。また外国人はそういう日本の美しい文化に敬意を払い、あこがれを持つのだと思います。

言葉の理解ではなく
宗教的雰囲気を感じる


【大谷】我々が唱えているお経で、『大悲心陀羅尼』というお経があります。「なむからたんの〜/とらや〜や〜/なむおりや〜/ぼりょきち〜/しふら〜あや〜」。何を唱えているのか、私にもはっきりと分かりません。
 でも、これは唱えることそれ自体に意義や宗教的雰囲気があるんです。『枕草子』には、「陀羅尼はあかつき。経はゆふぐれ」とあって、暁と夕暮れの気分を陀羅尼と経とで情緒的にとらえてさえいます。これは日本人のある面の本質的な賢さだと思います。そういうものを、日本人はずっと受け継いできた。でも、今の人たちはそれだけでは駄目で言葉で説明してくれと言う。

【まさとみ☆】形で見えないと不安ですし、自分の目で確かめたいと思ってしまうんです。

【北沢】言葉全部で納得したいとか、言葉で説明してもらわないと検証できない。そういう思考が私達のなかにあるのだと思います。ただこの思考は非常に危ういものでもあるんです。宗教の世界は分からないことが多いんです。釈迦牟尼が生きた時代と我々が生きている時代はいろいろ形は変わっていても変わらないものは変わらない。大谷先生が仰るように本質は変わらないのです。生老病死、なぜ人は生き、なぜ老い、なぜ死ぬのか。分からないことは分からないで離しておくことが、とても大切なことなのだと思います。

死後の世界・生死観
各宗教における解釈


【まさとみ☆】宗教において、死後の世界とはどのように解釈されているんですか?

【大谷】ある時、釈尊のところに、マールンクヤという弟子がやってきて、「死後の世界はあるのか、世界は時間的に有限か無限か、空間的にはどうか、霊魂と肉体は同一か別か、如来(生死をこえた人)は死後に存在するか」など、いずれも当時の宗教や哲学で問題になっていた経験不可能な問題ばかりを質問し、それが解決できなければ仏教の修行などとてもする気になれないといったのですね。すると釈尊は「毒矢に射られた人が、その毒矢を射た人の素性や弓矢の種類・性質がわからないうちは毒矢を抜いて治療を受けられない、と言っているうちにその人は死ぬであろう。それと同じように、煩悩を解決するための修行をしないで、解決不能の問題に固執している君もやがて死んでしまうであろう」と教えられたことがあるのですね。つまり、釈尊はそうした経験不能で解決できない事については「ある」とも「ない」とも答えていないのです。仏教で採用されているのはその教えが悟りの理想に役立つものでなければならないのです。禅の伝承では「莫妄想」(妄想することなかれ)ということがあります。

【まさとみ☆】霊魂についてはいかがですか。また、供養あるいは回向とは何でしょうか。

【大谷】仏教では、生滅・変化がなく常に存在するものとしての霊魂はこれを説きませんが、人格の主要な部分として業を保ち続ける霊魂は三世を通じて存在するとして認めてはいます。が、それも不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験によって常に変化し連続するものとします。実は、この霊魂の滅不滅については、中国に仏教が伝来して以来繰り返し現代に至るまで論争され続けている問題なのです。
 供養は、追善供養というのですが、追善とは故人の残した善い言行をしのび、自分もその善行をもとめること。供養は、お供えし、祀るということで、それには精神的な供養と物質的な供養があります。それは法事という形でなされていますね。つい最近「死者の人格」という表現が使われるようになりました。身内で亡くなった方がおられます。でもその亡くなった方は、あなたの心の中に生きていますよね。というと、みんな「そうです」といいます。つまり、供養し回向するひとつの形というのは、お坊さんにお経をあげてもらって功徳を積み、自分の命が無始の過去から連綿として続いてきていることを感謝し、自分の心の中に生きている故人と対話することであるともいえます。

【北沢】霊魂については私も心の中にあるものだと思います。哲学者のプラトンが、死後の世界について色いろな本の中で書いています。その中で、ある人が死後の世界は本当にあるのでしょうかと聞くんです。それに対してプラトンはあるかないかはどちらでもよいといいます。あると信じることが良い方向に人を導くならばそれでよいと。
 私は死後の世界とか霊魂とかは、あると考えて、そのことが人間を正しい方向に導くものならば、それで良いと思います。内村鑑三が「後生への最大遺物」と言いましたが、高潔な人格はその人が亡くなった後も、後の人を導き、大きい影響をずっと及ぼす。人間の心の中には、そういう失ってしまったものを多分保存する場所があるんだと思います。だから死後なんかないよという人だって親しい人が亡くなれば、その存在を心の中にとどめようとする。親しい友人が亡くなれば、あいつは俺の中にいるというふうに思うのですね。それは当然であって、否定できない。だから、そういう意味では、死後世界も、霊も、心の中には確実にある。そういうふうに考えたらいいのではないかと思っています。
 供養というのは一つの形ですが、その形を実践する中に、多くの知識・知恵・他者への共感力とか、あるいは本質的な感謝の気持ちがそこで涵養されるものだと思います。

【大谷】生と死ということに眼を向けますと、道元禅師は、例えば、薪が燃えて灰になった。それがまた、薪になったりしないように、生が死に移り変わるものではないというふうに言っておられます。
 これは、非常に含蓄の深い言葉でしてね。仏法では生が死になるとは言わないんです。生と死はそれぞれが独立したもので、しかもそれは、ひと時の位、とはっきり言っているんです。我々は、生と死が連続して、生という時代が終わって死になると思っていますが、道元禅師の生死観はそうではない。生は生、死は死として捉えなければいけない、と。宋代の禅者、圜悟克勤という人が『生や全機現、死や全機現』という言葉を残していますが、生は生、死は死。連続しているんじゃないんだということを言っているんです。
 道元禅師の生死観の特徴というのは、要するに「生死というのはすなわち仏の御命なり」と言うところに帰着します。これは、曹洞宗で常に読むお経『修証義』の一番最初にある言葉です。『正法眼蔵』から取った道元禅師のお言葉ですが、そこには「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という教えが出てきます。
 まさにこの言葉こそが、仏教を学ぶものがまず心得なければならないところです。なぜならば、生死を明らかにするそのこと自体が仏の御命を生きることになるからです。それだからこそ、仏法を知識の上や言葉だけで理解するのではなく、只管打坐して身心脱落する。身も心も脱落して自在なる仏の御命を生きる。そこにこそ本当の安心が生まれてくるのです。それこそが仏教との正しいつきあい方と言えるのです。

【まさとみ☆】宗教というものはズバッと回答は出ない、奥の深いものなのだと改めて痛感致しました。本日はありがとうございました。