『正法眼蔵』 道心の巻より(4)

長崎県天祐寺 須田道輝


仏法僧の功徳に守られる生き方とは

あひかまえて法をおもくして、わが身わがいのちをかろくすべし。法のためには身もいのちをもをしまざるべし。つぎにはふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし、生をかへ身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし、ねてもさめても、三宝の功徳をおもひたてまつるべし。ねてもさめても、三宝をとなへたてまつるべし。


 「わがいのちをかろくすべし」というお言葉は『法華経』の「われ身命を愛せず、ただ無上道をおしむ」という心とかさなります。仏法を求めるものは、この純粋な精神をいつまでも失ってはならないという道元禅師の御教えです。法華経の精神も一貫してこの純粋性にあると思います。しかしこの純心な「我不愛身命(がふあいしんみょう)」の思いを、自分自身の求道心に生かすべきで、これを勘違いすると、覇をきそう道具になりかねません。
 つぎに、仏法を求めるには、仏法僧の三宝を敬い念ずることをすすめています。仏道を行ずる者の聖なる条件(戒律)です。とかく坐禅を専一にする者は、仏への執着を離れることにとらわれて、仏を軽んずる言語が多いのですが、それをうのみにして、三宝帰依の心を見失ってはなりません。
 仏とは大覚を成ぜられた釈尊(釈迦牟尼仏)です。法とは釈尊の悟られた教えです。僧は釈尊の教えにしたがって修行する者たちです。大乗では三宝には、一体、現前、住持の三種をときます。

法のためには身もいのちをも惜しまざるべし

 一体三宝の仏とは、宇宙法界の「同一の理」「平等の理」をいいます。法とはすべての現象は「区別の理」で、それぞれ異なった姿をとり、異質の性をもっていますが、つねに変化流転し、止まることのない縁起の法則です。僧とは万物はたがいに依存し、影響を与え、与えられ、持ちつ持たれている「調和の理」をいいます。
 現前三宝とは釈尊とその教法と仏弟子たちのことです。この現前三宝を後世に伝えていくものが住持三宝です。
 住持三宝の仏は、釈尊はすでに入滅されて久しく、そのお姿を拝するにも、その面影すらありません。ですからその代わりとして、木仏金仏や三尊仏の仏を象徴として仏壇にお迎えし、朝夕礼拝し、そのご遺徳をしのび奉るほかありません。法は釈尊の教えを文字に写した黄巻赤軸(おうかんしゃくじく)の経典をひらいて、釈尊の心と教えを学ぶほかありません。
 たとえ目立たなくても経典仏塔をひたすら護っているものは、立派な僧宝にほかなりません。
 この三宝をねてもさめても念ずることが仏法であるとのべられます。よく「生活の仏法」といいますが、この三宝を日々の生活のなかで、念じつづけ、思いつづけることが、生活仏教というものです。生活を仏教化することではありません。生活のなかで仏法僧を思うことです。その三宝を念じとなえる心が、生きる力となって、生活にみなぎってくるのでなければ生活の仏法とは言えません。
 深く仏法僧を念ずるから、私たちは仏法僧の功徳に守られるのです。