名物和尚の誌上説法
福井県西方寺住職 宮崎慈空
宮崎慈空
1943年高知県生まれ。
神戸商科大学卒業。
高校教師、出版社勤務を経て1978年出家得度。
原田雪渓、青野敬宗老師等に参ず
苦しい時に頼るべきは 正しい心のみ教え
カルト宗教が暗躍して被害者が後を絶たないようです。最近マスコミに報じられた「摂理」という団体のケースでは、大学生の心の空白感につけ入ってサークル活動に誘い込み、親しくしてから聖書研究会という形でマインドコントロールを進めるという手口が明らかになっています。このような欺瞞的勧誘の手法そのものが既にニセ宗教の証明です。この他、不幸になるなどという脅し、多額の献金(布施)の強要、教祖への絶対服従――これらの一つでも該当する教団には近づくべきではありません。
正しい仏のみ教えにこそ、私達は心の拠り所を求めるべきではないでしょうか。
先日、私の住職する寺に久しぶりに「エホバの証人」と称するキリスト教系の方々がやってきました。その人達の教義によれば、「エホバ神」と呼ばれる全知全能の唯一神がおられて、その神がこの世界を造られた。しかし最初の人間であったアダムとエバが神の権威に背いたため、この世界は悪と苦しみに支配されるようになったが、やがて神の力によって最終戦争がもたらされ、エホバ神を信じる者は地上の楽園に復活し、信じない者はすべて死亡する――大まかに言えばこういうことだそうです。
私は彼らに三つの質問をします。
まず第一に「唯一絶対のエホバと呼ばれるその神はどこから来たのか」。第二に「エホバ神が全知全能ですべてを支配する力があるとするならば、なぜ人間とこの世を創造したといわれる当初に、苦や悪がなく最終戦争の必要もないように造っておいてくれなかったのか」。第三に「人は死んだらどうなるか」――これらの質問に対し、彼らはいつも「帰って勉強してきます」と言って、答えられないのです。
このような創造神信仰というものはインドのお釈迦様の時代にもあったとみえて、『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)に、お釈迦様の批判が次のように紹介されています。
――「ブラフマー(梵天)が自ら不滅にして全能、裁く者、創造者、(略)お前たちは総て私によって造られたのだというのなら、どうして我々はかくも儚く一時的で不安定で消滅すべく運命づけられているのでしょう」
この本では「世界は創造されたのではなくして、展開してきた」というのがお釈迦様の説であり、創造神信仰はたんなる錯覚であると結論づけています。
このことはそのまま「エホバ神」についても当てはまりますし、エホバ神が実在しない妄想であるなら、終末思想の最終戦争も夢物語にしか過ぎません。そのような教えを頼りにして何の役に立つのでしょう。
創造神とか終末思想と言えば、一時世間を騒がせたオウム真理教(アーレフ)についても同様です。この団体ではヒンズー教のシヴァ神を主宰神とし、仏教やキリスト教から一部の教義を取り入れています。
彼らの修行の内容を見ると、薬物、ヘッドギアなどを使って異常心理に陥ることを悟りと錯覚したり、「空中浮揚」とか超能力を求めたりしていますが、これらはどこまでいっても「我欲」の延長でしかありません。ヨーガ修行で「天界に転生する」ことも謳っているのですが、「天界」といえども地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という迷いの六道のひとつにしか過ぎません。
ましてや、教祖自ら予言したハルマゲドンを自作自演するために、サリンといったVXガス、自動小銃などを製造(使用も)するなど、単に俗的な野心あるいは誇大妄想癖に操られた所業としか言いようがありません。仏の深智に浴さなかった不幸を悲しむべきです。
道元禅師は「一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす」(正法眼蔵弁道話)とお示しです。「ポア」といって命を奪ったり、超能力や予言を事としたり、そんな必要はまったくない、それこそ塵ひとつ動かさず様相を少しも変えずに、このありのままの丸がかえに真実の解脱の道が開かれているのです。