『正法眼蔵』 道心の巻より(5)
長崎県天祐寺 須田道輝
生命の未来性を信じる思想
たとひこの生をすてて、いまだのちの生にうまれざらん。そのあいだ中有といふことあり、そのいのち七日なるそのあひだも、つねにこえもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七日あり、いかにひさしといへども七々日をばすぎず、このとき、なにごとをみ、きくも、さはりなきこと天眼のごとし。
三宝のみ名を唱えて、功徳を積み重ねれば、
かならず善きところに生まれ変わる
人間にとって「死後はどうなるのか」という疑問は大いなる関心事です。死後について仏教は三種の説があるとしています。(一)死後の魂はないとする断見説。(二)死後世界はあるとする常見説。(三)断常の二見を離れ、解脱の知見(さとり)に達する説。
仏教はとうぜん(三)の解脱に達することがその本旨ですが、その知見に至るまでは、かなりの修行が必要とされますから、ここでは述べません。(一)の「死後はない」とこれを否定する唯物的断見説では、死の本質を考えることはありませんので、宗教的にも、人間性を考える上でも、論外と言わざるをえません。
(二)も他の宗教が述べる、変わることのない魂が死後も存続するという考えではなく、人間活動の潜勢力(せんせいカルマ)は死後も残存しつづけ、つぎの生存へとつながっていくと考えるとらえ方です。つまり生命の未来性を信じる思想です。釈尊は人々に対して布施と善行持戒の生き方をすれば、死後、天に生まれると説いております。
『修行道地経数息品』に〈世間にあって、布施持戒を行ずるならば、かならず梵天に生れるが、これだけでは無漏(純粋)の行為行動ではないので、輪廻はまぬがれない。つまり解脱に達することがおそくなる〉と述べ、常見の善行者は、悪いところに生まれることはないが、解脱に向かう心が大切であると述べています。ここではしばらく(二)の生天論にしたがって、死後について述べるものです。
「たとひこの生をすてて、いまだのちの生にうまれざらん」、生きる者の位には、生有(しょうう)、本有(ほんう)、死有(しう)、中有(ちゅうう)の四種があるといいます。生命誕生の時期を生有。成長し活動する時期を本有。生命活動を停止する時を死有。生命がつぎの生縁(しょうえん)をまっている時期を中有といいます。
人は死ぬと肉体が滅び、同時に体に依存していた六つの感覚、六根、認識力はすべて消滅してしまいます。しかしその人の行為行動の潜勢力は、一種の念の余勢として残ります。そして「生命の残映」「生命の影」として生まれ変わります。これを意成身(いじょうしん)といいます。意成身は念の潜勢によって形成されたものですから、きわめて不安定で、七日を単位として変化するものです。つまり死後、生命の陰の世界で、七日ごとに七回、生と死をくりかえすというのです。
七日という単位は、無常である生命の転変するリズムの単位ですから、「七日をすぎず」と述べております。この七日の意成身の転変の間に、つぎの世界に生まれ変わる姿がしだいに形成されていくといいます。この中有の位にあるときも、三宝のみ名を唱えて、功徳を積み重ねれば、かならず善きところに生まれ変わるのです。
中有の意成身にはいくつかの特性があります。
(1)意成身(いじょうしん) 生存中の善悪の思念が、そのまま衆縁和合して中有に生まれ変わった者です。
(2)求生(ぐしょう) 意成身は霧や雲のように不安定ですから、はやくつぎの安定した生存を願っています。
(3)食香(じきこう) 香りを食物とします。香花は意成身を養うものとして最上食となります。
(4)中有(ちゅうう) 七七、四十九日をもって終焉とします。
(5)起(き) 追善供養によって意成身はより高い霊位にのぼります。
(6)天眼(てんげん) 意成身の一念は、時空をこえてさえぎるものがなく、遠近長短がないといいます。これを禅師は「何ごとを見、きくもさわりなきこと天眼のごとし」と述べられます。