『正法眼蔵』 道心の巻より(6)
長崎県天祐寺 須田道輝
すべての現象に実体はなく、あるのは
因縁果の法により運行されている事実です
かからんとき、心をはげまして三宝をとなへたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、となへたてまつらんことわすれず、ひまなくとなへたてまつるべし、すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかずかんときを、あひかまひて正智ありて託胎せん。処胎蔵にありても、三宝をとなへたてまつるべし。うまれおちんときも、となへたてまつらんことおこたらざらん。
純真な心で「南無帰依仏法僧」を唱えよ
「道心」の巻を一貫している心は、生と死とを通してつねに三宝のみ名を唱え、念ずることをすすめていることです。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」そのいみがなんであるかなど問題ではありません。お釈迦さまが唱えなさいといわれた以上、それを生涯唱えつづけ、死に臨んでも唱え、死後世界に転変し、つぎの生命体に転入しても、三宝を念じつづけることが、仏教者としての信心の在り方であることを示されています。
南無帰依仏法僧を唱えることは、三宝の功徳をこの世界に実現する力をもつ真実語であり、是大明呪(ぜだいみょうしゅ)であり、是無上呪(ぜむじょうしゅ)です。
むかし、中インドに銷融国(しょうゆうこく)という国がありました。この国は国力もない小さな国でしたが、他の国から侵略されるということがありませんでした。昔からこの国の人々は、うそ、いつわり(妄語)をいう者がおりませんでした。もし妄語する不心得者がおれば、人々はただちにこの国から追放してしまいました。
うそ、いつわりを言わないという徳分によって、この国は護られてきたのです。たとえ他国が攻めてくることがあっても、正直の徳をもった人々が真実語をもって呪願すれば、敵兵はことごとく退散してしまったといいます。
争いというものは、大なり小なり妄語いつわりがその原因です。
真実語を語る徳者によって行われる呪願は、仏徳に感応し、その威神力(いじんりき)を発揮せしめるといいます。うそ、いつわりは、心をよごし、仏徳をそこねてしまいます。純粋な心で「南無帰依仏法僧」と唱えれば、それが真実語となって、自己を護る楯となり、生死の海をわたる船となります。
南無帰依仏
南無(なむ)とは帰命(きみょう)、絶対的信をいみする梵語の音訳です。ですから「南無仏」で「仏に帰依したてまつる」という意になります。
仏とは仏陀の省略で「覚者」「さとった人」という意味です。浮屠(ふと)、仏図(ぶっと)とも音訳され、日本でいう「ほとけ」は「浮図家(ふとけ)」のことだといいます。
仏は何をさとったのかというと、私たちの生きている世界は、すべて因縁果の法によって存在し、運行されているという真実です。それはまたすべての現象には実体はなく、縁によって作られた無常な世界であると悟ることです。
悟った方の行為はすべて徳分となりますから、仏を満徳円満釈迦如来と申し上げます。つまり仏とは人として目指すべき理想像として、つねに心に念じなければならない心の宝です。
南無帰依法
法はダルマの漢訳です。ダルマは真理、法則という意味です。具体的に釈尊の教えそのものです。この現実の苦しみからいかに脱し、煩悩をいかにして菩提(さとり)に変えるかを教えるものです。つねに真理を思い、限りなく道を求める心が南無帰依法です。
南無帰依僧
僧はサンガといい僧伽(そうぎゃ)と音訳されますが、「和合衆」と漢訳され、広く集団、組合に用いられ、統治国の共和制などもサンガといわれました。僧団は釈尊の聖弟子たちが教えをかたく守り、坐禅修道に励み、高い精神的見識を養う集団です。そして僧伽に帰依する精神は、人類が聖者賢者を尊敬し、争いのない和合社会(サンガ)を目指して精進することを誓う心です。