新春対談
21世紀型「修行」は“行動”である
修行とは一体何か
物騒な事件が相次ぎ、モラルの低下が叫ばれている今日。日本人の心は一体どうなってしまったのか?
こんな世の中だからこそ、修行が必要なハズ。
そうはいっても、修行というものの本当の意味が分からない。
そんな疑問を解決すべく、「マンダラ塗り絵」を教育界へと浸透させた宗教学者・純真短期大学教授・正木晃氏、
そして駒澤大学名誉教授・佐々木宏幹氏にお話を伺った。
純真短期大学教授
正木 晃(まさき あきら)
1953年、神奈川県生まれ。
筑波大学大学院博士課程修了。
国際日本文化研究センター客員助教授、中京女子大学助教授、慶應義塾大学講師などを経て、現在、純真短期大学教授。
専門は宗教学。とくに修行における心身変容や図像表現を研究。
また、不登校・閉じこもり問題、宇宙開発、環境問題、精神医学的な領域などにも強い関心があり、各種の共同研究および実践を行う。
著書(共著を含む)に『はじめての宗教学――「風の谷のナウシカ」を読み解く』『お化けと森の宗教学――となりのトトロといっしょに学ぼう』など。
駒澤大学名誉教授
佐々木宏幹(ささき こうかん)
1930年、宮城県生まれ。
東京都立大学大学院博士課程修了。文学博士。
駒澤大学名誉教授、曹洞宗総合研究センター客員研究員。
著書に、『仏と霊の人類学』、『神と仏と日本人』、『仏と力』、『仏力』など。
失われたモラルの影に家庭内暴力があった
【まさとみ☆】親が子を、子が親を殺めてしまうといった、なんとも残忍な事件が次々と報道され、「日本人のモラル低下」がさかんに叫ばれています。今の日本人の心のあり方をどのようにお考えですか?
【正木】あくまで仮定の段階なのですが、母親の愛情が十分に注がれないと人間の脳は健常に育たず、犯罪を犯してしまう可能性が高いといわれています。
親が子を殺し、子が親を殺すといった犯罪を犯してしまった方のほとんどが人格障害者だと言われています。これは、幼少時期の母親との関係が正常でなかったり、14、15歳くらいまでの段階で家族との関係がうまくいっていないことが原因なんです。つまり、家庭の崩壊が人格の未熟さ・崩壊・障害というものを引き起こしている最大の原因であることは間違いありませんね。
日本人の子育てというのは、子供をみながら臨機応変に育てていたんです。ところが、昭和40年代に『スポック博士の育児書』が発売されベストセラーになった。この本には、例えば時間を決めたら赤ちゃんが寝ていようが覚めていようが定期的な時間におっぱいを飲ませないと、言うことを聞かない悪い子に育ってしまうと書かれている。日本人は子供に対して性善説を説いているけれど、キリスト教などのセム系一神教的な発想は、人間は原罪を犯している性悪説。だから規律でびしびし型にはめていく教育が良いのだと。このギャップが日本人にとって、戦後マイナスに働いた気がするんです。
【佐々木】そうなんですよね。一神教的背景から出たものを、精神は取らないで形だけ持ってきて子育てをやってしまった。
【正木】キリスト教にはキリスト教なりの個人主義の精神性がありますね。そういうものを持たずに子供へ個々に部屋を持たせて、まさにエゴが威張りだす状況を作ってしまった。景気が良いときには問題は露呈してこないんです。それがバブル崩壊とともに問題も悪い方向に向かっている。
日本人の心にはお釈迦さんがいる
【佐々木】だからといって、個人主義の原理になったキリスト教が日本に定着するかというと、その可能性はほとんどないと思います。
【正木】私も同感です。そもそも、宗教というものへの期待するところがまるで違っていますから。ユダヤ教の正統派と言われている人達がそうですが、神がくれた場所だからどんなことをしても守るという強烈な物の考え方。日本人には無理でしょう。
【佐々木】日本仏教は複雑になりましたが、やっぱり日本人はお釈迦さんのところへ返ってくるでしょう。お釈迦さんは一神論・絶対者を掲げて説いた人ではない。頼りになるのは自分であって、自分をおいて誰に頼るのか。ただ、それには条件があり、よく調えられた、悪しき欲望などをコントロールできる人間を自分自身で作ったとき、初めて自分はまっとうな人間として実現する。そのためには修行が必要なんです。
現代における修行とは?
【まさとみ☆】修行が必要、ですか。そもそも修行って一体どういうものなんですか?
【佐々木】「しゅぎょう」と発音する日本語には修業と修行の二種類があります。前者は靴職人として一生懸命やるとか、そろばんに秀でているといった世俗的な意味。後者は仏教からの訳語で、行を修めることによって仏陀の境地に至る、仏教の理念・理想を実現する実践方法のことを指します。でも、私は広い意味でまっとうな人間になるための行いを修行として捉えたらどうかなぁと思うんです。
【正木】私は仏教に限定していえば、修行というのはお釈迦さんの行いを追体験することだと思っているんです。人間は観念だけでは変わらないので、肉体的な行動や行為を伴うことによって、肉体が変われば自ずから人の心も変わっていく。その過程が修行なんじゃないかと思います。
現代においての修行とは、人格形成をしていくこと。その場合、人格というのは理想像がなきゃいけない。こういう人になりたいなぁと思うレベルでの対象です。それは多くの場合、子供達にとっては良い大人です。遊ぶ過程で自分よりも優れた年長者に出会うことが一番大切です。
実は5年くらい前から、小学生が鎌倉のお寺に泊まり込んで仏教の初歩を勉強しながら遊ぶという活動をしているんです。ニートや引きこもりを作らないために、私財を投じて寄付金を募り生野学園という高校フリースクールを姫路市に作った精神科医・森下一氏から、全国的に活動をする必要があると相談を受け、東京圏に近い場所である鎌倉でスタートしました。
タケノコ掘りをしたり、子供達が各自持ち寄った材料で秘密基地を作ったり、全く自由にやらせています。早稲田大学のゼミ学生や鎌倉の青年会議所の若い人たちに助けてもらいますが、できるだけ自主的に活動させる。懺悔会のような厳しい行もあるんですが、一時間くらい整然としていますよ。ダメなのはむしろ大人のほう(笑)。
遊びを通じて、自然とルールが生まれ、規律が生まれ、自分というものを理解していく。他者との関係をより良く築いていける力こそが主体性なんだってことが分かる。と同時に、坐る、立ち振る舞い、食事の作法といった仏教のごくごく初歩が身につくんです。
我々は「寺子屋」と呼んでいますが、この「寺子屋」でこの人のようになりたいと思う出会いがあってもらえたらと。これが修行の第一歩かなぁと。
最終的には仏教徒である限りにおいて、お釈迦さん自身の生き方、生き様、死に様をモデリングする。各宗派の祖師や歴代の偉大な高僧達もそうでしょうし。靴職人であれば親方がそうなのかもしれません。そうなりたいと努力する過程こそが修行かなという気がするんです。
【佐々木】まさにその通りですね。良き人物、優れた人物に出会うことを、仏教では正師(しょうし)に出会うと言います。道元禅師も、お釈迦さんに最も近い人が中国にいるかどうか探し、ようやく天童如浄にであって、人格形成のかぎ・坐禅を持ってくるわけです。
大切なのは、今の出会いということ。靴職人は靴職人でもいい、芸術家は芸術家でもいい。師を求めて出会う。その師が、昔に比べると少なすぎる気がします。
師との出会いこそ今生の幸せ
【正木】残念ながらまさにその通りです。私事になりますが、チベットへ11回行っています。行く理由は学問上のこともありますが、一番大きいのはチャンバイ・ワンジェイというセラ寺の大長老にお会いすることです。今年81歳になられましたが、チベット人としては異様な高齢です。すでに2年前に引退されているのですが、若い頃から超低音声明(しょうみょう)の大家として有名で、セラ寺をずっと仕切っておられた。しかし、文化大革命の時にほぼ十年間刑務所に入れられ、片目片足を潰されたんですが、恨みつらみは一切おっしゃらない。彼にお会いするために出掛けていくんです。もちろん言葉が十分に通じるわけではないですが、別れるときは額と額を付けて帰ってくるんです。
それはまさに、肉体上の父とは違う、仏道の上での師というか父という感じが致しますし、ああいう方がこの世におられることだけで何らかの価値がある気がするんです。こういう方に出会えるというのが今生の幸せという気が致します。逆に言えば、道元さんもそうだったように、探さないといけないですね。黙っていても現れないと思います。
それこそ、昔は父親や母親が自分の師であったと思うんです。残念ながらそういう社会は崩壊してしまった今、かなり一生懸命探さなくてはいけないかな。その探すことから修行が始まるのかもしれませんし、まず求めなくてはいけない。
【佐々木】そうですね。本当に良い弟子を師匠が探して見つけて、弟子を一人前にするために、師匠がよっぽど修行をしていないと駄目だという前提がありますね。
先日、ある有名な能楽師の方とお会いしたんですが、代々跡継ぎをして世襲する文化というのは、親子間の葛藤、それから他に比べられない愛情、それがうまく調和していないと出来ないようですね。芸能の厳しさというのはひとつのスタンダードになっていますが親子で弟子、師匠になっているお坊さんもそこの修行をまねる必要があるんじゃないかと思います。
【まさとみ☆】とにかくまず、師を探すというアクションをしなくては始まりませんね。
【正木】それぞれの宗旨の祖師の死に方を学ぶというのも修行ですね。自分の死に方を演出していくって重要なんじゃないかと思います。死に方を考えれば、当然生き方が変わりますので。
般若心経は心落ち着く呪文
【まさとみ☆】実際に、自分自身でできる修行って他に何かあるんですか?
【正木】一日一回、枕元でもどこでもいいから般若心経を1回唱えること。般若心経をいきなり全部覚えるのが難しければ「羯諦羯諦」だけでも良いんです。
また、最近山を歩くのがブームになっています。そういったときに、自分が「この木はいいな」と思ったら、その木の前で立ち止まって般若心経をあげましょう。それが行になるんです。
【佐々木】僕はその場合、般若心経にはお経の力・経力があることをきちんと教えてやる必要があると思うんです。
【正木】そうですね。般若心経の真ん中から後ろの部分「依般若波羅蜜多故」から全然意味が違うわけです。前半部分は難しい空の教理。でも、後半部分はいかに功徳があるかを語っているのですから。そのことを教えなきゃいけないですね。
【佐々木】そうなんですよ。般若心経の最後「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」まで「行くよ、行くよ、此岸から彼岸に行くよ」なんて訳す人が多いですが。あれはそのまま真言だから、意味もなにも理屈をこねないで説けばそれが大変意味があることなんです。
【正木】あの発音こそ意味があるんです。
【まさとみ☆】まさに、般若心経全体が呪文なんですね。
現代のお祓い、それがマンダラ塗り絵
【正木】マンダラ塗り絵もそうだと思うんです。マンダラがどうのこうのという理屈はいくらでもあります。でも、そんなことは関係なく、自由に塗っているうちに自ずから癒されていくんです。誰の力でもないですが、あえて言えばマンダラという千五百年の歴史を持っている宗教的な装置というか道具の力。やっぱり仏教の力だと思うんです。
【佐々木】理屈が先ではなく、まず行為から。それが大事なんですよ。
【まさとみ☆】正木先生のマンダラ塗り絵、十万部以上という物凄いベストセラーになっていますね。
【正木】きっかけは1991年チベットへ最初に行った時にご一緒したメンバーに精神科医・塚崎直樹氏がいらして、マンダラ塗り絵を患者さんの治療に使っていたんです。その時、すごく簡単なマンダラ塗り絵を3枚もらいました。
私は当時、中京女子大で教えていまして、体育で有名なんですが全然勉強しない(笑)。何とか生徒たちが勉強するようにならんかなぁと思って色々やった結果、2つ成功したんです。ひとつがアニメを見ながら学問を導入したアニメ宗教学。もうひとつがマンダラ塗り絵だったんです。
精神科医が患者のために使っていたものを一般の健常者といわれている学生全般に公開して分かったことが、健常者と病んだ人の間の壁がないこと。まさにボーダーレス時代。
現実に早稲田大学でも慶應大学でも健常な、非常に生き生きしている子達は明るく綺麗なマンダラを作っているんです。何か悩みや問題を抱えている人が塗ると、見事に色がない。色を塗れないんですね。
【まさとみ☆】マンダラに色が全くなかったり真っ黒にしてしまう人を、明るい絵を描くようにするためのプロセスは何かあるんですか?
【正木】古典的なマンダラではこう塗りますよ、最低で5色、はっきりとした五原色で塗ってくださいとお教えするんです。とりあえず半強制的に近いんですが。
【まさとみ☆】美しいマンダラ塗り絵って綺麗で左右対称なんですね。
【正木】そうです。完璧な対称。シンメトリーってすごく住み心地が良い世界で人を安心させるんだそうです。人間がモテる顔、モテない顔って有名な話があるんですが、モテる男女の顔は対称性が強いんです。
自分が塗ったものが美しくなれば、それを見た人間は嬉しいもの。今まで濁って汚かったものが、自分でもこんなに綺麗なものが出来るのかと思った瞬間、凄く幸せになりますよ。
【佐々木】塗るのにかなり時間が掛かるのでは? 辛抱しなくちゃいけないんですよね。
【正木】不思議なんですが、年齢に関係なく夢中になって、あっという間に時間が経ちます。
【佐々木】そうか、それが必要なんだな。
【正木】難行苦行じゃない、楽行なんです。でも、第三者からすると何時間も夢中でやっているからすごい苦行だと思うらしいんですが、やっている本人は楽しいんですよ。
静岡県にある蒲原梅花幼稚園の鏡島眞理子氏は、子供達に塗らせてみたら効果があって、教えている保母さんが楽しいと。親子でマンダラ塗り絵を塗ることも、すごく良いんです。教える側も教わる側も同じことができて、同じパターンを塗っても大人は大人なり、子供は子供なりの個性が出ますし。
マンダラ塗り絵が塗り絵の中で面白いのは、お手本がないからです。そして、その人の持っているドロドロした嫌な部分が外へ出てしまう、溶け出してしまうことがある。
【まさとみ☆】お祓い、ですね。
【正木】そうですね。加持祈祷や云々というとお坊さんなり第三者が必要ですが、マンダラ塗り絵はある意味セルフヒーリングなんです。自分で自分を変えていけるものです。
【佐々木】欠けた部分が修復されて元に戻るということでしょうね。
【正木】恐らく人間には自己復元力がもともとあるんです。ただ、現代社会の中で見失ってしまった。実はこのマンダラ塗り絵がこんなに売れると思わなかったんです。
【まさとみ☆】それだけ皆さん、心が病んでいるということでしょうね。
【正木】病んでいるんだと思います。同じものを塗ってもこんなにバリエーションが生まれるということは、人間の個性がいかに豊かなものであるかを認識してもらうのにすごく良い気がします。
【まさとみ☆】心の修行にはマンダラ塗り絵、ですね。
聖なる場所は究極の修行場
【佐々木】聖なる場所へ行くことも修行です。駒澤大学の付属高等学校では在学中に一度か二度永平寺へ参籠といって一泊か二泊をして永平寺の修行を自ら体験してくるんですが、二年生の女子がこんなことを書いているんです。
永平寺の修行は日常生活全てであり、手洗い、食事、掃除、入浴、すべてが修行だということが良く分かった。普段気が付かなかったことに気づくことが出来た。すべてが修行と言う意味が少し理解できたと思った、と。やっぱり永平寺のような聖なる場所へ連れて行くことの意味があるのだなぁと思いました。
【正木】まさに聖地霊場というのはすごく意味があると思います。やはり聖なる空間や時間にはなかなか接することができないんですよね。
【佐々木】曹洞宗の本山である永平寺と総持寺は一万五千ヶ寺のお寺のトップである。その寺につながっている中に仏壇がある。だから仏壇はミニチュアの寺である。そう考えると、朝必ず仏壇の前で今日も一日よろしくって手を合わせるのも修行だと思います。
【まさとみ☆】修行というと、何か物凄く大変なものという意識があったのですが、まさに日々の生活こそが修行であるということですね。大変勉強になりました。ありがとうございました。