シリーズ・禅の教えに親しむ・第7回 生飯(さば)を現代に問う
千葉県 広徳寺 石川光学

今、日本人に足りないのは分け与える心(施しの心)です。
他者に物でも心でも分け与えることで、自分自身の 満足感も高まっていきます。

飲んでも食べても、心が飢え乾く
だれのせいでもないさ
自分が独り占めしているからさ
ためしに、だれかに分けてあげてごらん
そのとき、不思議と心が満たされているから

 春の夕方、東京の入谷にある有名な鬼子母神寺(きしもじんでら)を訪ねてみました。道行く何人もの女性が立ちどまって、じっと手をあわせていきます。
 ここは、キシモまたはキシボとも呼ばれる仏教の女神をおまつりしているお寺です。女神といっても性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪い神でした。
 鬼子母(きしも)には子どもが五百人いたといわれています。ところが自分の子どもの食料のために、王舎城のすべての子どもを食べてしまおうとしたのです。人々はいつ、わが子が食べられてしまうか、心配で夜も眠れませんでした。そこでお釈迦さまは、鬼子母の五百人の子どものうちの一人を、神通力で鉢の中に隠してしまわれました。鉢というのは、修行僧が食事をいただくときに使う、お椀のことです。
 鬼子母は、必死に捜しまわりましたが、どうしても見つけられず、とうとうお釈迦さまのところに泣きついてきました。お釈迦さまから、
 「おまえに何人の子どもがあるのか?」
 「五百人です」
 「五百人の子どものうち、一人がいなくなっただけでも、おまえは苦しむ。人間には、一人か二人の子どもしかいない。その子どもを失ったら、人間の悲しみがどれほど大きいか、想像してみなさい」
 鬼子母は改心しました。これからは、すべての子どもたちの幸せを願う善い神になるという誓いをたてたのです。いまでは鬼子母が安産、子育ての守護神として、信仰されるようになったのです。
 さてお釈迦さまは、どうしたら鬼子母神が五百人の子どもを食べさせていけるだろうかとお考えになり、仏弟子たちに、こうおっしゃいました。
 「自分が食事をするたびごとに、鬼子母の子どもに少しずつ食事を分けてあげなさい」
 こうしていまでも禅の修行道場では、食事の度ごとに米粒を七粒くらい取り、当番が集めます。これを生飯といいます。
 集められたものは、池の鯉や鳥に食べてもらいます。
 私たちが、たくさんの食物が目の前にあっても満足するのは、ほんの一時。心はいつも満ち足りないのは、なぜでしょうか。それは、いつも自分さえおなかがいっぱいになればいいと思っているからです。ですから、いつも私たちは、食べ物をいただく前に少しずつ、足りない人に分け与える修行を行なうことが大事なのです。

 汝等鬼神衆(満ち足りない人よ)
 我今施汝供(施しの心があれば)
 此食偏十方(心は自分を超える)
 一切鬼神共(ほんの僅かがすべて)


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