曹洞宗檀信徒必携・仏事、知ってるつもり
曹洞宗のすべて
第5回 「釈迦の教え」

宮崎県・昌竜寺 霊元丈法

 二千五百年も前のお釈迦様の言葉が、本当に現在まで伝わっているのでしょうか、またそんな昔の教えが今でも通用しますか。

 お釈迦様の当時は文字がまだ一般には普及していなかったので、説法による教えは弟子の暗記によって伝えられたそうです。ですから、直接の言葉はとても少ないと考えられています。しかし、その内容には、時代や流行、民族や風土に左右されない宇宙の真理が説かれていますから、現代でも世界中の人々にあてはまり、示される生き方は多くの人に幸せをもたらします。そんなお釈迦様の聖句から、現代人の悩みに答える教えを紹介します。

 「怨(うら)みは怨みによって鎮(しず)まらず、怨みを忘れてこそ鎮まる」

 二十一世紀はニューヨークの無差別テロによって幕をあけました。東西の対立がなくなり一人勝ちしたアメリカは、世界に君臨する超大国です。これからは国と国が戦えば、それは最終的な核兵器の使用に至り、地球と人類の滅亡に直結します。一方で、とびぬけた軍事力と経済力を持つアメリカ相手の戦いは、ゲリラやテロによるしかないのも事実です。
 今回、テロへの報復としてアルカイダを攻めたアメリカはニューヨークの数十倍ものアフガン人犠牲者を出しました。きっとこれで終りにはならないでしょう。肉親を殺されたアフガンの子が二十年後アメリカへの復讐を企てないと誰が保証するでしょう。怨みという絶えることない憎しみのリンクを断ち切る聖句を心に刻みましょう。

 「人の邪(よこしま)なるをみるなかれ、ただ己れが何をなし、何をなさざりしかを想うべし」

 狂牛病に便乗して国の補償金をだましとった企業が倒産しました。商品表示をごまかして消費者を裏切った会社もたたかれました。けれども政策を誤った政治家、経営に失敗した銀行、保険会社、お手盛りの官公庁のどれもが自らの責任をだれ一人としてとろうとしません。その結果、日本の社会は急速にモラルを失い、アウトロー化してしまいました。白昼堂々とATMを破壊する荒っぽさです。かくして犯罪検挙率は先進国中最低となって、安全神話はメルトダウンしてしまいました。貧しくとも慎み深かった日本人は、わが身にひき比べて他人の痛みを感じ、人様に迷惑をかけないことを最大の徳目として国を守ってきたはずです。もう一度、たった一人でもという真面目さが人々を救うという原点に戻りましょう。

 「友に三要あり、一つは誤ちを諌(いさ)めて正し、二つには良き事を自分の事のように喜び、三つには逆境にあっても捨てず」

 仏教は和の宗教といわれます。聖徳太子のいわれた和は大和民族としての和でした。戦後は集落や一族という大きな和から、夫婦単位の家族の和となり、豊かで自由な生き方ができるようになりました。しかし、この不景気の時代になって、地縁や血縁という大きな繋りから離れた核家族は孤立してしまいました。夫婦の仲も壊れ、親子の間も切れてマイホームの暖かさはもうありません。人はやはり多くの人と共に仲良く生きていくのが幸せです。
 お釈迦様は弟子阿難の「友を得るのは修行の励みになりますね」という問いに、「いや、良き友を得れば、ほとんど修行が達成されたも同然だよ」と答えました。つまり、親子夫婦の最も小さい和は、一族、仲間、地域、国家という大きな和に包まれてこそ、その真価を発揮するのです。

 「あらゆるものの中で自分より愛(いと)しいものはない。されば己の愛しさを知る者は、他も同じであると知って他を決して害してはならない」

 二十世紀に人類は科学の発達の恩恵を受け、最高の豊穣を味わいました。それと同時に世界中の人々を巻き込む大戦争を繰り返した殺戮の世紀でもありました。自然界に対しても生態系を破壊し、地球の歴史上最多の絶滅生物をうみました。この環境悪化はとうとうわが身にふりかかり、汚染防止が叫ばれています。もう人間の都合だけではなく、あらゆる生き物との共生が必要です。しかし、自然の共生は、お互いに骨肉を食む争いの結果、ギリギリの処でおりあった共存です。仏教の「不殺生(殺すなかれ)」は他の生命を食べて生きる私たちのモラルであり、「不偸盗(盗むなかれ)」は自然から奪って生きる人間の戒(いましめ)なのです。

 「病なきは第一の利、足るを知るは第一の富、信頼あるが第一の安らぎ、悟りを得るは第一の楽しみなり」

 戦後の焼け跡から出発した日本は、もち前の勤勉さと教育の高さでまたたく間に復興をとげ、世界の富裕国の仲間入りをしました。しかし、お金によって得た幸せは、バブルの崩壊と共にもろくもくずれ去ってしまいました。残ったものは歯止めを失った欲望の狂乱のみです。ブランド品を求めて援助交際に走る少女、保険金欲しさにわが子や夫さえ殺害する妻、このリストラの嵐の中で、借金を苦にして自殺する中高年は先進国中最多です。お釈迦様が示されたこの世を幸せにおくる術の第一番は、みんな財産や権力に関係のないものばかりです。もうこの辺りでお金の魔力から離れて、人生に真に必要なものに目覚めましょう。

 「眠れぬ者に夜は長く、疲れたる人に道は遠し、正しき教えを求めざる人に人生は長からん」

 日本の仏教は葬式法事の仏教だと言われています。もともと日本へは鎮護国家のための祈祷仏教としてはいり、人々へは死者の怨霊を払う慰霊仏教として定着しました。また檀家制度によって所属する寺が決められて、信仰の自由がなくなり、同時に寺は布教をしなくなりました。つまり日常の信仰ではなく、寺と僧を必要な時に利用するようになってしまいました。このため現世利益(げんぜりやく)が主となり、宗教が心のささえとはならなかったのです。とくに戦後、政教分離によって公教育から宗教が一掃されると共に、家庭からも信仰がなくなりました。核家族では祭祀からも離れて宗教的空白が長く続きます。このためオウムのようなカルト教や洗脳教団に対する正常な判断を失うことになって、狂信的な若者を産み出す原因となりました。

 「生きとし生きるものは、みなすべて死なねばならない。それは大いなる師釈尊もまた同じである」

 人にとってこれ程明らかな真実はないのですが、誰もそれが自分に起こることはないと思っています。しかし、死はいつも突然で、しかも理不尽です。悪事の罰で短命とか、信仰篤いから長命という保証はありません。その上、人生は自分しか体験できません。つまりゴールのないマラソンを、代走もなく一発勝負で走りさらに、あちこちに別れ道があり、選びそこなってもやり直せません。すべてが自分の責任です。途中経過がどんなに良くても、いつレースを死によって中断されるかわからないので、ひたすら完走をめざして走り、自分で納得する以外に満足はありません。そこに必要な道しるべが仏教であり、認めて下さるのが仏様です。

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