道元さまの思い出(13)
高僧とのこころの交流
―明恵上人、文覚上人の巻

歴史ルポライター 深見六彦




 

道元禅師がどのような高僧と遭遇されたかの話を続ける。
 寂円(じゃくえん)が道元禅師を追いかけるようにして宋国から京・建仁寺(けんにんじ)に着いたのは、一二二七(安貞元)年の暮れであった。禅師が四年振りに帰国してわずか三、四か月後のことで、寂円は先師如浄(にょじょう)のご入寂(にゅうじゃく)を見届けるとすぐに九州博多へ向かう商船に乗せてもらったのだという。これほどまでに師を慕う寂円の気持ちに禅師の喜びはいかばかりのものであったろうか。新しく師弟関係を結んだ二人はしばらくの間、建仁寺で過ごすことになる。
 建仁寺といえば道元禅師がまだ十四、五歳の頃、比叡山から栄西(えいさい)禅師を訪ねたことがある。比叡山での修行の悩み、疑問を問うたらしい。その縁で数年後、建仁寺の明全(みょうぜん)の室に入ることとなる。
 さて、京都の西北に位置する高尾神護寺(たかおじんごじ)と拇尾高山寺(とがのおこうざんじ)は現代人のオアシスといえるくらいこころの落ち着ける場所だ。清滝川の清流や愛宕山に連なる山々には癒しのパワーがあって、日々の疲れを取り除いてくれる。しかしここには自然だけではないエネルギーが満ちている。神護寺は和気清麻呂建立の寺で、唐から帰国した空海が十四年間も活動の拠点にしていた。その後荒廃するが平安末期から鎌倉初期にかけて荒法師といわれた文覚(もんがく)上人が復興させる。その文覚上人の弟子である明恵(みょうえ)上人が一二〇六(建永元)年、後鳥羽上皇より賜ったのが高山寺である。
 なるほどこのあたりには名僧、快僧のパワーが充満しているのだろう。そして、文覚上人も明恵上人も道元禅師とは深いつながりがある。

 寂円でございます。
 年が明けてすぐに道元さまのお供をして雪に埋もれる高山寺石水院に明恵さまをお訪ねいたしました。明恵さまはこのとき五十六歳。柔和なお顔立ちとは対照的に体中に気迫が満ち溢れたお方でありました。道元さまは帰国のご挨拶をされ、悲しい明全さまのご報告をされたのでございます。


 これよりずっと昔、栄西が京に最初の禅寺である建仁寺を創建した頃、栄西と明恵との交遊が始まった。宋から帰国した栄西に会って禅宗について聞きたいと思い、明恵は建仁寺を訪れる。向こうは僧正、こちらはやつれた僧、面会などとても駄目かなと帰りかけると、栄西のほうから声を掛けてくれたのだ。以来、明恵はたびたび建仁寺に足を運んだ。栄西は「自分は鎌倉に出かけていることが多いので、いろいろと建仁寺の相談に乗って欲しい」と明恵に頼むほどの信頼ぶりだったという。
 そのようなわけで、明全と道元禅師が明恵と顔見知り――いや教えを乞うていたとしてもなんら不思議はない。ともかく明恵が入寂する一二三二(貞永元)年まで道元禅師との交流は続いたに違いない。
 さて、文覚である。道元禅師と文覚上人との関係は禅師三歳まで遡る。禅師の生母である藤原伊子が文覚上人を厚く信仰していて、幼少期に母親と神護寺に出かけている、とこれは立松和平著の『道元』に詳しいが、あながち創作とは言い切れない。文覚がいたからこそ頼朝が挙兵したのかも知れず、源氏が平氏を破ったからこそ伊子の父藤原基房は配流(はいる)から救われたのである。伊子にとって文覚は大恩人でもあったのだ。
 建仁寺、神護寺、高山寺は、道元禅師の生涯に強い影響を与えた栄西禅師、明全和尚、文覚上人、明恵上人ゆかりの寺である。一度は訪れてみたいところだ。

(以下次号)

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